人生入門

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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

空過 あ

 見た瞬間に体が痺れる言葉がある。最近見た言葉でヤバいな、と思ったのは天親菩薩の著作に出てくる「空過」という言葉だ。パンチがある。
 人生は「あ」という間に過ぎていくのだと思う。朝目が覚めて、まだ5時で、一瞬目を瞑ったらもう8時だったということがないだろうか。それと同じで、僕も今夜寝れば、もう86歳になっているのだと思う。今夜寝れば、「もう86か、早かったな」とか言ってるのだ。人生は「あ」だと思う。

 空過の反対は、勝過らしい。唯物論的に見れば、宇宙は全て空過だ。全てが偶然で目的も何もない。「あ」の間に「何か」を見つけなければいけない。僕はもう見つけた。あ!

 

本当の本当

 本当の本当というのは、戦争もなく宗教もなく哲学もなく、みんなでにこやかに、笑顔で幸せに暮らしている生活のことなんだろう。僕はそう思う。みんなが笑顔で幸せなのが、本当の本当だと思う。
 本当の本当の世界があるんだろう。本当の本当の世界から自分の生活を振り返ると、なんとも情けない、笑顔もあんまりない、偽物の偽物の生活だ。

 みんなが、微笑んで、喧嘩も、言い争いも、競争もなく、仲睦まじく、永遠に、生活していくのが、本当の本当だと思う。これが本当の本当でなければ、どこにも本当の本当はない。

 全員が、微笑んで、拝みあっている世界。本当の本当。ほんまのほんま。

 本当の本当の世界。最終的に、みんなそこへ行くらしい。だから、本当の世界から微風を受けて、今日も偽物の世界で、生きていく。

原口統三・親鸞・阿弥陀仏

「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」という親鸞の和讃がある。僕はこの和讃、つまり「恥ずかしいとも思えないことが恥ずかしい」という和讃と、原口統三の「しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」という文句が響きあっているように思う。親鸞も、自己が許せなかったのだと思う。恥ずかしい、恥ずかしい、でもどうにもならない。誠実になれない。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。

 「僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。」これは僕のいう「幾何学的な点」のことだ。そして、「あきた。僕はいつでも勝利者だ。そこで僕は賭博場を飛び出した。外に出れば寒かった。もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ。」幾何学的な点は、いつでも勝利者なのだ。つまり極点にある「批評家」は、自由に「価値」を創造することができる。だが、それは、キルケゴールの言うように「仮設」に過ぎない、いつでも壊せるものでしかない。だから、「あきる。」
 
 自分自身を批評できないということは、人間の根本命題であると思う。つまり「卑怯」であるということだ。常に「安全基地」がある。常に何かの価値に口を出すが、「自己」の価値だけは口にできない。つまり、今風に言えば、自分にだけはメタが取れない。自分にメタが取れないことを僕は「原罪」と言う。
 「自己」にメタを取れるのは、絶対者しかいない。

 真宗の用語に「お見抜き」という言葉がある。「仏かねてよりしろしめして」という言葉も歎異抄に出てくる。阿弥陀仏は、幾何学的な点のことも、何もかもお見抜きである。僕がその立場にたって、「卑怯」であることも全てお見抜きである。阿弥陀仏はなんと言うか。阿弥陀仏は「そのまま来いよ」という。「そのまま」の大肯定。恐らくキリスト教の神なら、懺悔をして悔い改めて善人になれ、というだろう。阿弥陀仏は「そのまま来いよ」という。幾何学的な点を持っている真宗の同行がいるのだが、その同行が「私は今まで、あなたのいう幾何学的な点で生きてきたけれど、阿弥陀仏に出会ったことで、空っぽだった自己が満たされるという経験をした。満たされる気がしたんじゃなくて、本当に満たされた。」と語っていた。この同行は南無阿弥陀仏に「負けた」。そして許された。許されて、阿弥陀の命が身体に満ちた。
 原口統三はいつでも賭博の勝利者だ。しかし「あきた。」確かに幾何学的な点は何者にも邪魔されない自由な意志という意味でいつでも勝利者である。
 原口はこう言っている。「宗教的にならないこと。「僕は『救済』などという怪け物に縁はない」これが、精神の厳粛な世界に通用する、明晰な話法であり、確実な身元証明である。」原口はどこまでも「勝利者」ゆえに、自殺せざるをえない。

 僕は親鸞は極めて近代的な意識を持っていると思う。だからインテリが好むのだ。では、親鸞はなぜ救われなければならなかったのか。なぜ仏は仏願を建てたのか。その理由は教行信証の信巻に書いてある。
「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」
 親鸞は、仏の心は分からないといいつつ、自分に真実の心がないから、仏が願を建てたのだ、という。救われるべき人間がいるから、救う仏もいる。
 僕は、原口のような人間は、まっさきに「救われるべき人間」だったと思う。彼は負けることができなかった。負けながら安心して生きるか、勝ちながら自殺し続けるか。何度でも書くが、原口のような人間こそまっさきに救われるべき人間だ。僕が浄土へ行って、菩薩になったら、母親の次に原口を助けてやろうと思う。

ありがたい

 金子大栄師が、外国人に「一番日本に馴染んでいる仏教語はなんですか」と問われたときに「ありがとう」と答えたらしい。確かにありがとう、ほど日常語になっている仏教語は少ないかもしれない。
 説明するまでもないと思うが、ありがとうの語源は「有り難し」という仏教語で、あることが難しいということだ。奇跡のようなこと、ともいえるかもしれない。缶コーヒーを奢ってくれた、ありがとう。毎日弁当を買ってきてくれる、ありがとう。

 西洋に存在論という学問があるが、エレアのパルメニデスが「あるものはある、ないものはない」と言ったのが有名で、そこから彼は運動や変化の否定を説いた。そのあと存在論は神の領域にうつっていったが、そのあとハイデガーが復権させた。ハイデガーは結局存在がなんなのか言えなかったが、とにかく存在とは何かという問いを復活させた。
 仏教に存在論というものがあるとすれば、空や縁起などだろうけれど、僕は「有り―難し」というのも仏教の存在論に入れたい。「当たりまえ」ほど仏教にそぐわない言葉はない。ウィトゲンシュタインが「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。(6・44)」と言ったのはそのことだろう。

 最近肺の調子が悪い。僕は13歳の頃から肺の疾患に悩まされていて、最近肺が悪くて寝込んでいるんだけれど、「肺も心臓もいっつもごめんな、ありがとう」という感情が湧いてきてびっくりした。法話でいつもそのような話を聞いているからだろうけれど、「なんで自分がこんな病気に」という怨嗟ではなくて感謝が出てきたことに驚いた。そして安らかだった。「世界」がそして「自分」が存在していることは本来「あり得ない」ことなのだから、「有り難い」ことは無限にあるはずだ。身体がある。命がある。花がある。家族がある。「あり得ない」「有り難い」ものが無限にある。
 僕は幸福な脳内物質を手軽に無料で出す方法を探しているんだけれど、「感謝」というのは候補にあがりそうだ。


両手両足がない、念仏者中村久子さんの詩

さわやかな秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える良人がある
「ハーイ」という娘がおる
歯をみがく 義歯の取り外し かおを洗う

短いけれど指のない まるいつよい手が 
何でもしてくれる
断端に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくれる 短い手も

ある ある ある ある
みんなある
さわやかな秋の朝

大地性

 僕は放送大学へ通っているのだが、授業はほぼ見ない。ただ、現代文学の授業は面白いので見ていた。
 クレオールの島で、純文学を書いて、ノーベル賞を受賞した人へインタビューしていた。その人に島を出るつもりがないのかどうかを聞くと、「文学は土着性(大地性と言っていたかも)と切り離すことはできないんだ」と言っていた。その一言が非常に印象に残っている。日本からは日本の文学しか出ないし、ラテンアメリカからはラテンアメリカの文学しか出ない。

 EXITというお笑いコンビが今売れているのだが、売れる前にゴッドタンに出ていた。そこで劇団ひとりに激賞されたEXITは自分のお笑い論を語って「俺は他人のお笑いとか見ないんすよね、全然お笑いの勉強とかしたことなくて」と言っていた。劇団ひとりがそのあと「俺はお笑いを研究しつくしたEXITも見てみたいけどなあ」と言った。そのあとに彼らはぐんぐん売れていった。

 友達が、芸術家に、これおススメですよ、と本を渡したら、そんなもんいらんと一蹴されたらしい。それでいいのか。

 鈴木大拙は、日本的霊性という本の中で、平安仏教は宙に浮いている貴族仏教だったが、鎌倉時代という激動期によって、それが大地に根付いたと書いている。大地とは農民、庶民で、天上界にいる貴族ではない、大地にいる者が宗教を根付かせると書いていた。

 大地とは地に足がついているということだ。神話を教えない民族は100年以内に滅びる、と誰かが言っていたが、それが大地性という事だと思う。僕はネットでたくさんの人と出会ったり、ネットの空気を吸ってきたが、地に足がついてないんじゃないか、と思う。日本というものが戦争で根こそぎにされたんだろう。だから村上春樹のような、宙に浮いた文学者しか出てこない。現代詩を見ても、宙に浮いている。「大地」が感じられない。
 ポストヒューマン思想というのが最近流行っているらしいけれど、もう人間がいないんじゃないだろうか。足のない幽霊が新宿をうろついている。

 

 

またブログ

https://utagoe.hateblo.jp

死にたくなった時に詩を書けばまぎれるかなと思ったので詩のブログを作りました
暇なとき覗いてください 死にたくなった感情の声です

ブログ

宗教色強い記事は別のブログに載せることにしました
こっちのブログは綺麗だった景色とか、感傷とか、宗教に関係のないなんか面白い思い付きとか、そういうの書こうと思います

https://anjinsinjjin.hatenablog.com
 

心臓 墓場

 ツァラトゥストラかく語りきの中で、ニーチェは精神よりも肉体を重視する思想をツァラトゥストラに語らせている。けれどもそれは肉体の欲望を肯定するための作戦だ。精神よりも肉体のほうが根本だとする視線は僕もその通りだと思う。この「意識」がなんなのかは未だに謎だけれど、この「意識」が「自分そのもの」と思ってしまう思い込みはよくない。その「肉体」がどこから来ているかという視点はニーチェにはなかった。

 僕の身体は、一から十まで僕のものではない。父親の精子と母親の卵子が合体して、そこに母親から栄養が送られ、3キログラムぐらいの物体として出産される。この時の「僕」は一から十までへその緒を伝わって送られる母親の栄養によって出来ている。乳児期は一から十まで母親の乳からできている。モノを食べるようになると、有機物、つまり他の命で一から十までできている。米や肉や魚が僕の身体の「100パーセント」を占めている。僕の身体の情報、つまり遺伝子も最初の生命からずっと繋がってきたもので、「100パーセント」僕のものはない。

 僕の身体は僕のものではない。他の命で出来ている。他の命は、死にたくないのに僕のために死んだ。僕の身体とは、他の生命の墓場ではないのか。僕とは、動く墓場だ。

 僕は他の生命の墓場だ。鶏、牛、豚、魚、米、野菜。それを僕の「精神」のいう「死にたい」で殺してしまっていいのか。墓石を蹴ってもいいのか。生命の「墓場」は心臓を打っている。僕はこれが根本だと思う。人間とは、心臓が鼓動を打つ墓場だ。だから「精神」の意志で、勝手に死んではいけない。墓石を蹴ってはいけない。

 命と死の混濁した墓場で、一つの心臓が鼓動を打っている。これ以上の神秘主義を、僕は知らない。

ニーチェ 

 ニーチェの根本思想、というか生き方は、まず伝統的な敬虔なクリスチャン(駱駝)そしてそれを懐疑して破壊する自然主義的モラリスト(獅子)そして価値を創造するニーチェ(赤子)という風になっている。
 ニーチェという哲学者は、わざとそうしているのか分からないが、汲みつくせない思想家で、僕の理解した範囲で書くけれど、ニーチェが犯罪者(既成の価値観に噛みつく獅子)を賛美しているように、力への意志は、現代では獅子的なもの、つまり個人的なものになった。千の王国をみたツァラトゥストラは、民族の善悪の掟が書かれてある石板に力への意志を見るが、力への意志は解釈である。生成している世界に認識的暴力を働いて支配する力である。

 ニーチェは獅子となった孤独な青年に、高い木になれ、そして強い悪の根を張れ、と言っている。既成の価値観に噛みつくには悪になるしかない。そして創造も悪的なものにならざるをえない。

 僕はこの「(価値観の)創造」というものに非常に強い違和感を覚える。現代風の言葉で言えば「生きてる意味を探すために生きてる」とそれっぽく答える若者みたいなもんに感じる。何が自分の「徳」で、「善」で、「悪」なのかということを、「創造」できるのか?創造と破壊はセットではないのか?
「この自己はまったく思いのままにいつなんどきにでも初めから始めることができる、そして一つの思想がどれほど追及されるにしても、その行動の全体は仮設の埒内を出ることができない。————自己自身であろうとする絶望「死に至る病」」
 僕は、価値観や解釈は、一人では創造できないと思う。僕が、例えば自殺志願者を殺すのを善とする価値観を持つ。そして現に殺す。「本当にこれで良かったのだろうか」という思いが湧いてこないだろうか。ニーチェは青ざめた犯罪者というのは、犯罪の瞬間は崇高だが、自分の行為の崇高さを忘れて(恐れて)賤民になってしまっているという。
 自分で作った価値観というのはキルケゴールのいうように「仮設」の域を出ないのではなかろうか。

 真理とは、創造するものではなくて、永遠の昔からあるものじゃないだろう
か。ニーチェから処世術以上のものを読み取って、ニーチェ主義者になると、怪我をする恐れがある。

悲劇 疲労

 人生とはまごうことなき悲劇であって、チャップリンの有名な名言などは全くあたらない。ズームで見ても悲劇であるし、ロングショットで見ても悲劇である。
 人生は悲劇である。出会い、別れ、愛憎、死。人生をフィクションに例えるのはよくある手法だけれど、僕は今まで「夢」という言葉を使ってきた。ただ、夢という言葉には「苦悩」がない。夢とはシャボン玉のようで、軽やかなニヒリズムといった風もある。
 
 人生は悲劇である。七転八倒、七転び八起きしながら、もがきながら、何も分からず、あがいて、希望が見つかったと思えば裏切られ、何もなければ退屈で、何かがあれば悲しくて、幸福は簡単に崩れて、もがいて、もがいて、最後には、灰になって、終わる。しかも、意味がない。

 親鸞は、救いに海のイメージ(本願海など)を多用したが、僕は海は絶望であると思う。ちょうど氷山の一角が上に出ているように、頭だけ海面から飛び出ていて、ずっともがいている。だだっ広い海で、なんの道徳もなく、命令もなく、善もなく、悪もなく、ただただ、疲労だけがあって…。

 問題は善でも悪でもなく、疲労だ。疲れたら眠る。当然のこと。人生は、徒労な疲労に過ぎない。
 パトラッシュ、僕はもう疲れたよ
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