原口統三・親鸞・阿弥陀仏 | 人生入門

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再来年中に読むもの
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原口統三・親鸞・阿弥陀仏

「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども」という親鸞の和讃がある。僕はこの和讃、つまり「恥ずかしいとも思えないことが恥ずかしい」という和讃と、原口統三の「しかし批評することは、どこまで行っても自己を許すことである。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。
 ここまで到達した後に僕は死を決意した。僕は「より誠実であろう」とするものであって結果を恐れるものではない。僕はどうしても自分を許せなかったのだ。」という文句が響きあっているように思う。親鸞も、自己が許せなかったのだと思う。恥ずかしい、恥ずかしい、でもどうにもならない。誠実になれない。つまり自己自身を批判する最も厳しい眼をもつことは、生きている間は不可能である。

 「僕の自意識は、思想のルーレットを己の意のままに廻すことができた。だが賭金などに用はなかった。」これは僕のいう「幾何学的な点」のことだ。そして、「あきた。僕はいつでも勝利者だ。そこで僕は賭博場を飛び出した。外に出れば寒かった。もはや僕の信ずるのは、自分の肌の感覚だけだ。」幾何学的な点は、いつでも勝利者なのだ。つまり極点にある「批評家」は、自由に「価値」を創造することができる。だが、それは、キルケゴールの言うように「仮設」に過ぎない、いつでも壊せるものでしかない。だから、「あきる。」
 
 自分自身を批評できないということは、人間の根本命題であると思う。つまり「卑怯」であるということだ。常に「安全基地」がある。常に何かの価値に口を出すが、「自己」の価値だけは口にできない。つまり、今風に言えば、自分にだけはメタが取れない。自分にメタが取れないことを僕は「原罪」と言う。
 「自己」にメタを取れるのは、絶対者しかいない。

 真宗の用語に「お見抜き」という言葉がある。「仏かねてよりしろしめして」という言葉も歎異抄に出てくる。阿弥陀仏は、幾何学的な点のことも、何もかもお見抜きである。僕がその立場にたって、「卑怯」であることも全てお見抜きである。阿弥陀仏はなんと言うか。阿弥陀仏は「そのまま来いよ」という。「そのまま」の大肯定。恐らくキリスト教の神なら、懺悔をして悔い改めて善人になれ、というだろう。阿弥陀仏は「そのまま来いよ」という。幾何学的な点を持っている真宗の同行がいるのだが、その同行が「私は今まで、あなたのいう幾何学的な点で生きてきたけれど、阿弥陀仏に出会ったことで、空っぽだった自己が満たされるという経験をした。満たされる気がしたんじゃなくて、本当に満たされた。」と語っていた。この同行は南無阿弥陀仏に「負けた」。そして許された。許されて、阿弥陀の命が身体に満ちた。
 原口統三はいつでも賭博の勝利者だ。しかし「あきた。」確かに幾何学的な点は何者にも邪魔されない自由な意志という意味でいつでも勝利者である。
 原口はこう言っている。「宗教的にならないこと。「僕は『救済』などという怪け物に縁はない」これが、精神の厳粛な世界に通用する、明晰な話法であり、確実な身元証明である。」原口はどこまでも「勝利者」ゆえに、自殺せざるをえない。

 僕は親鸞は極めて近代的な意識を持っていると思う。だからインテリが好むのだ。では、親鸞はなぜ救われなければならなかったのか。なぜ仏は仏願を建てたのか。その理由は教行信証の信巻に書いてある。
「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」
 親鸞は、仏の心は分からないといいつつ、自分に真実の心がないから、仏が願を建てたのだ、という。救われるべき人間がいるから、救う仏もいる。
 僕は、原口のような人間は、まっさきに「救われるべき人間」だったと思う。彼は負けることができなかった。負けながら安心して生きるか、勝ちながら自殺し続けるか。何度でも書くが、原口のような人間こそまっさきに救われるべき人間だ。僕が浄土へ行って、菩薩になったら、母親の次に原口を助けてやろうと思う。

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