人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

絶対矛盾的自己同一

 進化論的に言えば、人生はニヒルだ。科学的に言えば、ということだ。ニヒルということは、目的がないということだ。遺伝子が増えたから増えた、ただそれだけ。

 哲学者はそういう見方をしない。西田幾多郎は、科学的知識より「歴史的自己」のほうを根本だとした。これはヘーゲルやマルクスの影響だろうけれど、フッサールの「科学的世界より生活世界のほうが根本」という主張と似た響きがする。ニヒリズムの香りはしない。
 絶対矛盾的自己統一とは何か?それは主体が環境を否定し、環境が主体を否定するということだ。主体が環境を作り、環境が主体を作ると言ってもいい。作るものから作られるものへ、作られたものから作るものへ。作られたもの=環境とは過去のことだ。そして死んだ過去=環境と生きた未来=制作が「現在」という時の中で矛盾的に同一になる。西田幾多郎は「現在」は「永遠の今」の限定だというが、その限定の中で「非連続の連続」という形で、過去と未来が矛盾的に同一化する。そして世界が、歴史が動いていく。
 人は環境に作られる、そして環境を作る。一言で言えばそれだけだ。それが「矛盾」であるけれど、その底に「絶対無の場所」があるから同一であるという。

 絶対無の場所、とは真実の自己=世界のことだろう。それは宗教の領域である。僕はこの「自己同一(真実の自己)」だけを求めてきたが、歴史的自己として生きてきたか?矛盾的に生きてきたか?と言われると全くそんなことはない。西田に進歩史観はないけれど、歴史的自己として生きることは社会的自己として生きることだ。
 歴史的自己としても、生きてみようかな、と少し思った。
 

ニヒリズム 美学

あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、「それが何になる?」という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この「それが何になる?」は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ。私は五十七年生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示はあずかったことはない。—————エミール・シオラン


 ニヒリズムを一言で表せば、「それが何になる?」だと思う。恋愛をした、それが何になる?生きている、それが何になる?子供を作った、それが何になる?音楽を作った、それが何になる?
 この「それが何になる?」というのは恐らく反論不可能だ。例えば「子供を作った」「それが何になる?」「愛すために作った」「それが何になる?」「幸せになる」「それが何になる?」… それが何になる?が無限に続くか、どこかで「ナンニモナラヌ」と白状しなければならない。

 この世界は何にもならない。何の意味も目的もない。ナンニモナラヌのに生きていかなければならない矛盾。四方からニヒリストが襲ってくるので、剣で退治しなければならない。それが何になる?うるさい!おれはこれでいいんだ!

 僕は「美学」というのはいい言葉だなと思う。芸術の勉強をしている友達がいるのだが、数年前に「芸術なんかナンニモナラヌ」と僕が言い張って喧嘩したことがある。そのあと数年音信不通だったのだが、再会したときは「私は人間が何かを作ることを肯定することに決めた」と言っていた。僕が「100億年後には何も残ってないよ」というと「それで全部いいよ」と言っていた。僕はこれを「美学」と呼びたい。
「そんな女と恋愛して何になるんだ?」
「なんにもならないよ、でもそれでいいんだ、ほっといてくれ」
「何にもならんぞ」
「それで全部いいよ」

 諦めの美学と言おうか。醒め切った美学で己を武装せねば、ニヒリズムと戦うことはできない。ナンニモナラヌけど俺はやる、それが美しいから。

無責任主義

 僕は責任感が強い。だから日直の日はとても緊張したし、学級委員長の仕事はきっちりこなしたし、宿題も忘れたことがないし、浮気もしたことがない。子供なんか絶対つくりたくない。責任を持ちたくないから。だから、つらい。責任感というのは緊張感と一体になっている。強迫観念とも一体となっている。僕は、責任感が強いが故に、責任から逃れ続けてきた。その結果、引きこもっている。僕は他人に「僕の人生全部やって」と言うことがある。自分の人生に責任を持ちたくない。

 そんな僕に、清沢満之の提唱する無責任主義というのは福音だった。清沢満之も倫理の問題に苦しんだようで、如来に責任を放り投げないと自殺しかねないらしかった。

 責任とはなんぞや?という問いがそもそも難しいが、僕は「ケジメをつける」ことだと思う。そして僕はケジメをつけたいが、つけれない。でも如来は許してくれる。無責任でいい。ケジメなんかつけなくていい。如来が全部抱きしめてくれる。

 僕が人を殺したって責任とらなくていい。働かなくても責任とらなくていい。どっかで野垂れ死んでも如来が責任をとって浄土へ連れてってくれる。無責任に生きよう。

音楽

 シオランやショーペンハウアーといった極端なペシミストはきまって音楽を愛する。ショーペンハウアーは音楽とは「意志」そのものだと言っていて、それを鑑賞することで「盲目的に生きんとする意志」が鎮められるらしい。つまり煩悩が一時的に停止するということだろう。
 肉親の死や失恋など、本当に、誰にも会いたくないほどつらいときに癒してくれるのは、やはり音楽なのだな、と最近本当に思う。鎮痛剤と言ってもいい。
 空腹が最高のスパイスであるように、音楽の最高の隠し味は「苦悩」だと思う。苦悩している時に音楽を聴くと、僕は「分かられている」気がするし、より歌詞が心に染み入る。

 僕は芸術は生のカンフル剤と言ったニーチェよりも、苦悩の鎮痛剤と言ったショーペンハウアーのほうが当たっていると思う。つらいときは、部屋の片隅で毛布を被って体育座りをして、悲しい曲を聞く。締め付けるような胸の苦痛がぽろりと落ちることはないが、心に染み込んで来る。でもこれじゃ音楽じゃなくて音悲だな

凡夫 王様

 哲学者の西田幾多郎は、「凡夫とは仏からの呼びかけである」と言ったらしい。仏智という鏡を経由しないと、自分が凡夫であることが分からないということだろう。以前本屋に行ったとき、「お釈迦様以外みんな馬鹿」という新書があって目を引いたが、そうなのかもしれない。(買わなかった)
 僕は凡夫が好きだ。そして王様が嫌いだ。ここでいう王様とは、出家する前の釈尊であったり、法蔵菩薩であったり、アジャセだったりするのだろうが、王様というのは、自分を偉いと思っている。僕は、この大衆が主人公になった現代社会では、生まれつきそういう資質を持っている人は、王様になってしまうと思う。そして王様が一番つらい。自分の価値が100点なのだから、生老病死や求不得苦に耐えられない。求めるものが得られない。自分は王様なのに。

 釈尊も法蔵も出家した。そして仏になった。僕たちは出家もできないし仏にもなれない。けれどせめて「凡夫」にはなれると思う。僕は、凡夫が好きだ。生まれつきの凡夫の人もたくさんいる。本当はみな凡夫なのだけれど、凡夫の「自覚」ができない。王位を捨てるのには勇気がいる。頭を下げる。そのままでいい。許されている。

 凡夫ということは「裸」ということかもしれない。見抜かれているのに虚栄心で化粧をする必要はない。仏のお見抜きの前で裸になる。そのまんま。

 僕は王様が嫌いで、凡夫が好きだ。凡夫に安んじれるということは、とても嬉しいことだと思う。背伸びしなくていい。そのまんま。凡人。平凡。何もなくていい。

 僕は5年ほど独学で哲学をして、哲学に見切りをつけて、仏教を勉強し始めた。哲学は批判と懐疑の歴史であり、「信」というものは出てくる余地がない。最初に学んだテーラワーダ仏教は、カーラーマ経という懐疑的なお経や、釈尊の遺言である「汝自身を灯とせよ」と言う言葉とは裏腹に、歴史上のゴータマ・シッダールタに対する絶大な信頼の上に成り立っていた。けれども無常や無我というのは抗えない事実であり、実際に自分で瞑想して確かめると言う部分では科学的な思考であると思った。瞑想をしていくうちに、経典に書いてあることが自分で確かめられ、「信」が増長していくというシステムらしい。

 キリスト教はあまり深く勉強していないが、「信」という事に対してあまり深く考察していないように思える。統一もない。パウル・ティリッヒという最近の神学者は懐疑すらも信仰の一つだ、と言っている。

 浄土真宗は「信」というものを多角的に考察していて、例えば信は、他力回向の信心である。弥陀仏から頂く信心である。例えば信は聞である。南無阿弥陀仏と聞いたままが信である。こういう風に明確な定規がある。そして「信」というのは「糊」なのだと思う。清沢満之は、宗教とは有限と無限の一致であると言ったが、その一致させる「糊」が「信」なのだと思う。仏凡一体と言って、信心決定すると、仏の命と凡夫の命が一つになる。や、違う気がする。もともと仏の命と凡夫の命は一つなのだけれど、「疑い」という仕切りで離されている。疑いがなくなれば、「この生死は仏の御いのちなり」ということが自覚される。

 僕は哲学している時や、テーラワーダ仏教をしている時、「信」というものをはっきり言って軽蔑していたが、今は「信」こそが「通路」だと思っている。「信」というのは知性や感性ではとらえ切れない、言語化できない、生命の奥の深い部分に眠っているものだ。それを揺さぶって起こすのが如来の本願であり、南無阿弥陀仏という呼びかけなのだと思う。「信」というのは、真理への通路足りうる。

生きてるだけで偉い

 「生きてるだけで偉いよ」という言葉に底知れないやるせなさ、無自覚の偽善、現実がそうなっていないことへの諦念を感じる。
 現実問題、生きてるだけでは生きていけない。だから社会へコミットする必要がある。百丈懐海という禅僧は「一日不作、一日不食」と言った。
 
 僕は本当に「生きている」だけだ。働いてない。社会のお荷物、フリーライダーだと思う。人に迷惑しかかけてない。だから偉くないのか?

 生きてるだけじゃ偉くないけど、偉くなくてもいいよ、というのはどうだろうか?それは「生きてるだけじゃ価値ないよ」と言ってくる社会へのアンチにしかならない気がする。憎悪、復讐の匂いがする。

 社会は「生きてるだけじゃ価値がない」というメッセージを絶えず突き付けてくる。僕はそれをもう痛いほど知っている。9年間引きこもって来て、何度「死ね」「働け」「屑」などと言われてきたか分からない。
 獲物を獲得できない欠陥品のハンターは、原始時代に、それこそ本当に生きてる価値がなかっただろう。仲間にボコボコにされたと思う。自分達の生死に関わるのだから。根本のところで、動物を狩れない人間は、「価値」がない。

 動物を狩れない人間は価値がない。それはそう。それは認めるしかない。みんな動物を狩れなくなったら人類は絶滅するのだから。けれども現実問題、障害や病気などで動物を狩れない人間はいる。社会はそういう人間に向かって「死ねよ働け屑」と言う。僕の見てきた事例では、社会のそういう価値観を内面化して、自分のうちの社会的自我が、自分を責め立てていることが多かったように思う。働かなきゃいけない、と物凄く焦る躁うつ病の患者や、何もできないから死にたいと絶望している精神病者を見てきた。

 僕は何度も書いているが、認知療法、瞑想、信仰、が幸福のキーだと思う。急に信仰の話をするが、「そのままでいいよ、ずっと側にいるよ」という「南無阿弥陀仏」には、欺瞞ではない「生きてるだけでいいよ」があるように思う。信仰が嫌いな人は認知療法や瞑想で自己肯定感をあげればいいが、それはいわゆる自力聖道門なのだと思う。僕は、世間の人がいう「生きてるだけで偉い」というのは欺瞞の偽善だと思う。阿弥陀仏の言う「あなたは生きてるだけで命が輝いてる」という言葉だけが、本当に自分の心に突き刺さり、命を輝かせて、そのままで、欠陥品のまんま、喜んで生きていける世界を開かせてくれると思う。

僕にとって表現とは何か

 散歩中にふと浮かんだことを、心に留めておく。孤独な夜や、泣き出したい日に、ゲロを吐くように、心に持っていた思い付きを吐き出す。それは何も考えないようにするという実践的な意味もあるし、ある種生理学的に例えられるような、精神的な排泄の意味もある。
 どうしてブログを書いているの?とよく聞かれるが、何も考えない時間を作りたいということと、死にたい感情をぶちまける以外にブログを書いている意味はない。さっきはこういう詩を書いた。https://utagoe.hateblo.jp/entry/2021/02/15/140027
 表現は排泄行為であり、世界に絵の具をぶちまけると言ったらロマンチックだけれど、僕の絵の具は薄汚い緑色か、茶色しかない。暴力である。復讐である。怒りである。

 体が弱いので、運動をして世界に復讐することができない。小さい頃、ムカつくことがあったとき、思いきり自分の靴を地面に投げつけていた記憶がある。それと全く同じ原理である。
 復讐という言葉が一番しっくりくる。理不尽な世界に対する復讐である。だから僕の書く小説には必ず暴力がある。

 最近、詩人を羨ましいと思うようになった。心にストックがないと、世界に復讐することができない。詩人は無限に神から言葉を与えられるんだろうか。それとも自分で作っているんだろうか。詩で商売している売文屋にはなりたくないけれど、自由自在に言葉を吐き出す力は欲しい。

 金子大栄師が願いの「ね」は「音」だと言っていた。それから何かと音ということについて考えている。
 今朝、暗いうちに、自動販売機へジュースを買いに行った。雨が降っていたので、透明な傘をさしていった。歩いている間、トトトトトトトと、何かが走るような音がずっとしていた。山の木が揺れるばさばさという音もした。
 「音」というものは、あるようでない、ないようである。有と無の境目にあるような気がする。今、カラスの鳴き声が聞こえたが、もうしなくなった。龍樹菩薩は有無の邪見を破して、空を証明したと言われているが、僕ら凡夫にとっては「音」が空のようなものなんじゃないだろうか。あるようで、ない、ないようで、ある。
 「よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。」
 
 ピタゴラスの教団では、宇宙に我々には聞こえない神の音楽が流れているという教説があったらしい。浄土では、常に妙なる音楽が流れているらしい。音というものは捕まえられない。

 とりとめのないことを考えながら、トトトトトという音を聞きながら帰った。家の中は誰の声もなんの音もせず、キーボードをタッチする無機質的な音だけが響いている。

信仰とは何ではないか

 なんか、やっぱり無宗教者は信仰者に対して偏見がある。僕は浄土真宗だから真宗のことしか知らないけれど、真宗とは何ではないか、書く。

@信仰は「思い」ではない
仏像のような仏様を思い浮かべてありがたく思ったり、仏様への思慕のようなものではない。祈ることでもない。僕の印象では、何か「ありがたそうな表象」を崇めるのが信仰だと思っている人が多いように思う。

A信仰は、「上位」の存在にひれ伏すことではない
キリスト教などはそうかもしれないが、釈尊は信心を得た者を「善友」と言っている。

B信仰は、献金する必要はない
僕は天台宗の檀家だし、真宗へは一切お金を出していない

C信仰は「思想」ではない
@と若干被るが、信仰は思想ではない。体験である。

D信仰は、「生き方」を決めるものである。
僕は何も決められていない。何も変わらない。念仏せよとしか言われていない。めんどくさかったら念仏もしなくていい。


 ではポジティブに信仰を語ると何になるのか?それは「霊性的な事実に対する自己の殻が破れて、有限である自己と無限である弥陀仏が感応しあう生活」であると思う。一言で、生死の問題の解決と言ってもいい。結局、その道へ入らなければ分からないことなんだろうけれど。
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