ニヒリズム 美学
あらゆる約束、あらゆる幻想にまさるもの、それは結局のところ、「それが何になる?」という平凡な、それでいて恐ろしいリフレインだ。この「それが何になる?」は、この世の真理であり、端的に真理そのものだ。私は五十七年生きてきたが、白状すれば、これにまさる哲学の啓示はあずかったことはない。—————エミール・シオラン
ニヒリズムを一言で表せば、「それが何になる?」だと思う。恋愛をした、それが何になる?生きている、それが何になる?子供を作った、それが何になる?音楽を作った、それが何になる?
この「それが何になる?」というのは恐らく反論不可能だ。例えば「子供を作った」「それが何になる?」「愛すために作った」「それが何になる?」「幸せになる」「それが何になる?」… それが何になる?が無限に続くか、どこかで「ナンニモナラヌ」と白状しなければならない。
この世界は何にもならない。何の意味も目的もない。ナンニモナラヌのに生きていかなければならない矛盾。四方からニヒリストが襲ってくるので、剣で退治しなければならない。それが何になる?うるさい!おれはこれでいいんだ!
僕は「美学」というのはいい言葉だなと思う。芸術の勉強をしている友達がいるのだが、数年前に「芸術なんかナンニモナラヌ」と僕が言い張って喧嘩したことがある。そのあと数年音信不通だったのだが、再会したときは「私は人間が何かを作ることを肯定することに決めた」と言っていた。僕が「100億年後には何も残ってないよ」というと「それで全部いいよ」と言っていた。僕はこれを「美学」と呼びたい。
「そんな女と恋愛して何になるんだ?」
「なんにもならないよ、でもそれでいいんだ、ほっといてくれ」
「何にもならんぞ」
「それで全部いいよ」
諦めの美学と言おうか。醒め切った美学で己を武装せねば、ニヒリズムと戦うことはできない。ナンニモナラヌけど俺はやる、それが美しいから。
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