絶対矛盾的自己同一
進化論的に言えば、人生はニヒルだ。科学的に言えば、ということだ。ニヒルということは、目的がないということだ。遺伝子が増えたから増えた、ただそれだけ。
哲学者はそういう見方をしない。西田幾多郎は、科学的知識より「歴史的自己」のほうを根本だとした。これはヘーゲルやマルクスの影響だろうけれど、フッサールの「科学的世界より生活世界のほうが根本」という主張と似た響きがする。ニヒリズムの香りはしない。
絶対矛盾的自己統一とは何か?それは主体が環境を否定し、環境が主体を否定するということだ。主体が環境を作り、環境が主体を作ると言ってもいい。作るものから作られるものへ、作られたものから作るものへ。作られたもの=環境とは過去のことだ。そして死んだ過去=環境と生きた未来=制作が「現在」という時の中で矛盾的に同一になる。西田幾多郎は「現在」は「永遠の今」の限定だというが、その限定の中で「非連続の連続」という形で、過去と未来が矛盾的に同一化する。そして世界が、歴史が動いていく。
人は環境に作られる、そして環境を作る。一言で言えばそれだけだ。それが「矛盾」であるけれど、その底に「絶対無の場所」があるから同一であるという。
絶対無の場所、とは真実の自己=世界のことだろう。それは宗教の領域である。僕はこの「自己同一(真実の自己)」だけを求めてきたが、歴史的自己として生きてきたか?矛盾的に生きてきたか?と言われると全くそんなことはない。西田に進歩史観はないけれど、歴史的自己として生きることは社会的自己として生きることだ。
歴史的自己としても、生きてみようかな、と少し思った。
哲学者はそういう見方をしない。西田幾多郎は、科学的知識より「歴史的自己」のほうを根本だとした。これはヘーゲルやマルクスの影響だろうけれど、フッサールの「科学的世界より生活世界のほうが根本」という主張と似た響きがする。ニヒリズムの香りはしない。
絶対矛盾的自己統一とは何か?それは主体が環境を否定し、環境が主体を否定するということだ。主体が環境を作り、環境が主体を作ると言ってもいい。作るものから作られるものへ、作られたものから作るものへ。作られたもの=環境とは過去のことだ。そして死んだ過去=環境と生きた未来=制作が「現在」という時の中で矛盾的に同一になる。西田幾多郎は「現在」は「永遠の今」の限定だというが、その限定の中で「非連続の連続」という形で、過去と未来が矛盾的に同一化する。そして世界が、歴史が動いていく。
人は環境に作られる、そして環境を作る。一言で言えばそれだけだ。それが「矛盾」であるけれど、その底に「絶対無の場所」があるから同一であるという。
絶対無の場所、とは真実の自己=世界のことだろう。それは宗教の領域である。僕はこの「自己同一(真実の自己)」だけを求めてきたが、歴史的自己として生きてきたか?矛盾的に生きてきたか?と言われると全くそんなことはない。西田に進歩史観はないけれど、歴史的自己として生きることは社会的自己として生きることだ。
歴史的自己としても、生きてみようかな、と少し思った。
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