言葉 嘘
僕は言葉が嫌いだった。言葉は嘘をつく道具だとことあるごとに言ってきた。他人の「内面」は絶対に見ることができないので、それが「本音」なのか「建て前」なのかをはっきり区別することは原理的にできない。超越論的冗談可能性という言葉があるが、これは全ての言説には「な〜んちゃって」とつけることによって冗談にすることができるという議論らしい。僕は言葉が嫌いだった。
仏教に五戒がある。殺し、盗み、不倫、飲酒、嘘。弟子が釈尊に、どれが一番重い罪かと尋ねたら、嘘だと答えたらしい。普通は殺生が一番重い罪だと思うだろうけれど、釈尊によると「嘘」をつくものはどんな悪も平気でやるらしい。嘘が一番最悪の罪だ。
仏教は、真実を求める教えだ。そして、禅などの聖道門では真理のことを離言真如と言うことがある。言葉を離れた真実ということだ。人間は「言葉の中に住んでいる」ので、そこから出る必要があるのだろう。維摩経の中の有名な話に、真理とは何かと議論している時に、智慧第一の文殊菩薩が「文字や言葉では語れないもの」と言ったときに釈尊がまあまあ褒めた。そのあと、維摩という居士は、意見を求められたとき沈黙でもって答えた。ここには嘘がない。本当しかない。
仏教は「嘘」を嫌って、「真理」にたどり着く教えだと言ってもいいかもしれない。けれど、言葉は原理的に嘘をつく道具なので、言葉によっては真理は得られない。そこで二つ方法がある。言葉から離れるか、絶対的に「ほんまのほんまの言葉」を探すか。僕は前者が聖道門で、後者が浄土門だと思う。
聖道門では言葉から離れることによって、嘘から逃れて救われる。浄土門では本当の言葉に出会って、嘘から逃れて救われる。本当の言葉とは南無阿弥陀仏である。
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。————親鸞
仏教に五戒がある。殺し、盗み、不倫、飲酒、嘘。弟子が釈尊に、どれが一番重い罪かと尋ねたら、嘘だと答えたらしい。普通は殺生が一番重い罪だと思うだろうけれど、釈尊によると「嘘」をつくものはどんな悪も平気でやるらしい。嘘が一番最悪の罪だ。
仏教は、真実を求める教えだ。そして、禅などの聖道門では真理のことを離言真如と言うことがある。言葉を離れた真実ということだ。人間は「言葉の中に住んでいる」ので、そこから出る必要があるのだろう。維摩経の中の有名な話に、真理とは何かと議論している時に、智慧第一の文殊菩薩が「文字や言葉では語れないもの」と言ったときに釈尊がまあまあ褒めた。そのあと、維摩という居士は、意見を求められたとき沈黙でもって答えた。ここには嘘がない。本当しかない。
仏教は「嘘」を嫌って、「真理」にたどり着く教えだと言ってもいいかもしれない。けれど、言葉は原理的に嘘をつく道具なので、言葉によっては真理は得られない。そこで二つ方法がある。言葉から離れるか、絶対的に「ほんまのほんまの言葉」を探すか。僕は前者が聖道門で、後者が浄土門だと思う。
聖道門では言葉から離れることによって、嘘から逃れて救われる。浄土門では本当の言葉に出会って、嘘から逃れて救われる。本当の言葉とは南無阿弥陀仏である。
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。————親鸞
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