人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

虚栄心

 虚栄心という心は僕にとってとてもとても大きい問題だった。僕は虚栄心が強い。そして虚栄心が憎い。清く正しく慎ましく、という生き方に憧れを抱いている僕にとって自分のうちにある虚栄心が許せなかった。だから他人の虚栄心も許せなかった。
 沢木興道は死ぬ直前に、「ワシもこの年になってようやく、人によく見られようとする気持ちがなくなった」と言っていたらしい。確か70か80でなくなったはずだ。沢木興道は聴衆が1人しかいなくても全力で説法したり、入院したときは一人病室で座禅をしていて、見回りに来た医者をびっくりさせたらしい。誰にも見せずに、一人で病室で座禅をする行為というのは確かになによりも尊い。人前で祈ってはならない。その沢木興道が虚栄心を死ぬまで捨てられなかったと言っているので、人間に虚栄心は捨てられないんだろう。
 僕は自分の虚栄心を認識できない人間は、馬鹿であると思う。不真面目であると思う。向き合ってないと思う。

 その僕が、人前でなく、ただ嬉しさからできるようになったことがある。念仏である。親鸞も虚栄心が強かったようで、嫉妬や虚栄心を嘆いた言葉が多い。けれどこの煩悩逆巻く心の中に入ってくれるのが阿弥陀仏で、そこから咲く蓮の花が念仏なのだ。僕は言葉が嫌いだったが、一人、自分の部屋で、他人によく見られたいという思いなく、念仏ができるようになった。ただ虚栄心はまだある。死ねばなくなるのだと思う。

 沢木興道は座禅に引きずられながら生きると言ったが、僕も念仏に引きずられながら生きるしかないのだと思う。僕の虚栄心のために苦労した菩薩が法蔵菩薩だった。

生きている意味を見つけるために生きてる パー

 死んだらパーなら、なにをやってもパーのもと。という言葉がツイートで流れてきた。本当にその通り。死んでなにもなくなるのなら、今やっていることに一切の意味はない。「生きている意味を見つけるために生きてる」というよく聞く言葉を最近も聞いたが、それはキルケゴールのいう「反抗」である。要は自己実現ということだろう。ただし、自己実現は何にも支えられていない。念願の小説家になるとする。それでも「なんだったんだろう、この人生は」となる可能性はいつでもある。自分で見つけた意味は、自分が変われば変わる。自分で見つけた生きる意味は、不安定である。何にも支えられていない。要は「気分次第」だ。

 自分で生きる意味を見つけても無駄だ。それは不安定だし、なによりも、生きる意味を見つけても死ぬ。死んだらパーだ。母親が死んだときに、父親に「死んだら人間ってどうなると思う?」と聞いたら「死んだら、死ぬだけでしょ」と言っていた。母さんの生はなんのためにあったんだろうと強く思った。

 死後に無になる人は、みんな毎日パーをしている。毎日パーで、人生全部パーである。例え神や仏がいないとしても、自分の人生がパーにならないためには、信仰せざるをえないのではないか?でなければ原口統三のように自殺するしかない。人生を本当に考えると、信仰をせざるをえない。でなければパーを生きるしかなくなる。それでいい人はいいと思うけど、僕には無理だ。毎日穴を掘って、それを埋めて、また穴を掘って、埋めて、という行為と何も変わらないと思う。

 信仰をするには疑いを取り除く必要がある。如来の智慧でチョキっと疑いを切ると、パーはなくなる。
 

大丈夫仏教

 信仰をすると、生きる意味とか分かると思っていた。真理とかが分かると思っていた。けれども何も分からなかった。阿弥陀仏に莫大な恩があることだけは分かった。
 真理から出てきた言葉が「南無阿弥陀仏」だけれど、南無阿弥陀仏そのものになりきるのは一遍のように一種の悟りを開く必要があるだろう。「となうれば、われも仏もなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」真理と一体になった心境が歌われている。近代の山崎弁寧も弥陀合一の念仏を説いていて、真理と合一する念仏を実行した。
 でも僕の念仏は「大丈夫」の念仏だ。「生きる意味とか、真理とか、別にそういうの、こっちでなんとかしとくから、大丈夫、あなたはただゆっくり生きてて」と語りかける念仏だ。クリシュナムルティという宗教家は、「私の唯一の秘密は、なににも恐怖しないことです」と言っていたが、人生で一番重要なのは「大丈夫」なのだと思う。真理とか生きる意味とか、そういうの知らなくても大丈夫。何があっても大丈夫。大丈夫。

神話

 古代の海に、「増える」という性質を持つ物質が現れた。これを「増える」と呼ぼう。それは「増える」ので瞬く間に古代の海に広まった。そして、増えているうちに、突然変異するものが現れた。古代の海のリソースも限られているので、生存に有利な突然変異をするものが生き残っていった。複雑なものほど多くの機能を持てるので、「増える」はどんどん複雑化していった。落ちこぼれた「増える」は減り、環境に適合した「増える」は増えた。
 そのうち「増える」は脳という神経の集まりを作った。そして脳の機能も複雑化していく。「増える」はオスとメスの生殖によってどんどん増えて、複雑化していった。「増える」は個体の幸福には関心がなく、自分が「増える」ことにだけ興味がある。
 複雑化していくうちに、「人間」というものが現れた。「増える」は遺伝子と呼ばれるようになった。遺伝子は、増えたから増えた。そこになんの意味も目的もない。人間という特殊な生物は、記憶というものによって自己同一性を持ち、予測という能力によって死を恐れる生物になった。全ては「増える」が「増える」という物語であり、人間はそれをセックスによって仲介するにすぎない。人間の個体の一人一人は無意味な苦悩を押し付けられた、宇宙に偶然生まれた悲劇的な塵芥にすぎない。

人は人を救えない

 人を救いたいと言う人がいる。救うという事が何を指しているのかよく分からないけれど、要は抜苦与楽したいということだろう。凄くいいことだと思う。国境なき医師団のような活動を見ると涙が出そうになる。仕事というのは基本的に他人の苦を抜いて楽を与えて対価を貰うということなので、物凄くいいことだと思う。鈴木正三という禅僧は職分仏行説を説いて、労働が仏道だと説いたが、そうも言えるかもしれない。

 でも人は人を救えない。借金苦で自殺しようとしている男性がいるとしよう。彼が自殺しようとしているところを偶然見かけて、助ける。さて、どうしようか?まさか彼の借金1000万円を建て替えようとする人はいないだろう。いたとしても、彼の人生そのものを支えるパートナーになろうと思う人はいないだろう。彼の人生の全責任を請け負う人はいないだろう。
 夫婦であっても、男は女を救えないし女は男を救えない。無量寿経に、身自ら之を当(う)け、代わる者あることなしという言葉がある。夫婦であっても代わりに癌にはなれない。人は人を救えない。

 救う救うとか簡単に言うけれど、「いのち」をかけないと人は人を救えないと思う。そこで命をかけてくれたのが法蔵菩薩なのだと思う。少しだけ法蔵菩薩の修行を引用する「その間、法蔵菩薩はどこに生れても思いのままであり、はかり知れない宝がおのずからわき出て数限りない人々を教え導き、この上ないさとりの世界に安住させた」たくさんの法蔵菩薩が死んだのだと思う。自分の身体を捧げるような布施行もしたと思う。いのちをかけないと人は救えない。

 人は人を救えない。救えるのはいのちをかけものにした、仏だけだ。

 主知主義というのがある。主意主義というのがある。恐らく信仰主義というのもあるだろう。信の認識的な部分が見落とされている気がする。
 現代人の耳当たりの良いように、真宗の信仰を説明してみたい。(近代教学というのがそれなのだろうけれど)

 超越的な自己というのが自己の内部にある。これが本当の自己である。自己の奥の奥にある。霊性と言ってもいい。これが人間と動物を分かつ要素である。真の自己を知ろうと思わない者、死に驚かない者は畜生と同じである。
 霊性的な物語がある。無量寿経という。なぜ霊性的な物語なのか。宗教的な天才が、己の霊性を神話の形式で表したものだからである。現実よりも、現実である。超現実的なものは物語の形式をとらざるを得ない。
 有限と無限の一致が人間の生まれてきた意味である。その有限と無限の間にあるものは「疑い」である。疑いが晴れれば、無限の光明の中で安心して暮らすことができる。

 信というのは自己の中にある超越的な自己を認識する認識装置である。そして内部超越的な自己を知ることで、外部にも無限の光明が広がる。信というのは一つの認識装置であると思う。

 しかし、なにを信じるか?僕は歴史的に実証されているものを信じたほうがいいと思う。

無分別智 このまんま

 禅ではよくこういうことが言われる。
 1禅を学ぶ前には、その人にとって山は山であり、川は川であった。
 2禅を学びはじめると、もはや山は山ではなく、川は川ではなかった。
 3しかし、一度さとりの境地に達するや、ふたたび、山は山となり、川は川となった。

 これを分かりやすく解説すると、1凡夫の目にはもちろん山は山であり、川は川である。けれど2の段階に至ると無分別智という智慧が手に入り、矛盾律が崩壊する、現実の論理が通用しなくなって、全てが浸透しあっているような言語を絶した風光を見る。3けれどもそこへ留まっていることは小乗的精神である。悟ったあとは、2をバックボーンとして、また1の世界へ戻り、菩薩行を開始する。

 僕の信心の体験。仏とも法とも知らなかった。凡夫のまんま。だから疑いもない。けれども求道しているうちに疑いが湧いてくる、止めることができない。そしてあるとき気づく、「このまんま」だ、と。このまんまで救われていた。けれどもそれは最初の仏とも法とも知らなかった時の「このまんま」ではない。疑いを通過した「このまんま」だ。凡夫@から凡夫Aへ移行しただけなのだけれど、なにが違うのかと言えば、「南無阿弥陀仏」を信知したことである。親鸞はよく信心の智慧とか念仏の智慧とかいうが、信心は智慧である。先ほど禅の話をしていたときに出てきた「無分別」を知っている阿弥陀仏が、無分別を衆生に知らせようと思って言葉になったのが「南無阿弥陀仏」である。これを無分別後得智という。

 先述のように、禅では
 @山は山 川は川
 A山は山ではない 川は川ではない
 B山は山 川は川
 だと言われる

 真宗では
 @このまんまの凡夫
 Aこのまんま=南無阿弥陀仏になれない凡夫
 Bこのまんま=南無阿弥陀仏の凡夫

 という風に進む。聖道門も、浄土門も、Aをバックボーンにして@に帰るということは共通している。浄土真宗は、如来の無分別後得智=南無阿弥陀仏によって、真の凡夫になれる道である。

 このまんまが、このまんまではなくなり、このまんまになる。でも3つ目のこのまんまは最初のこのまんまとは違う。これが仏法なのかもしれない。

 このまんま救われている。本当にこのまんま。なんともないこのまんま。凡夫のまんま、しょうもないままで死んでいく。木村無相さんいわく、「信者面するのは色気」だそうだ。

生きる意味

 「意味」という言葉を分解すると「意」と「味」になる。詳しい語源などは知らないけれど、心で味わうとか、心を味わうとも読めるんじゃないだろうか。
 近代教学を推し進めた安田理深師は、「念仏を噛むと、意味という味がする」と言っていた。確かに、念仏には味がある。何を言っているか分からない人が大半だと思うけれど、念仏には味がある。それは「阿弥陀仏の意を味わう」ということなのかもしれない。
 味わえるものはたくさんある。海に、山に、花に、お金に、地位に、異性に、家族に、無限に味わえるものがある。仏の意を味わって、生きるエネルギーを与えてもらう。そして、その意でもって、人生を味わう。そして最後には、「ごちそうさまでした」と言って、自分の人生に合掌する。
 そして最後に仏様に食べてもらってお浄土へ行く。南無阿弥陀仏。

言葉 嘘

 僕は言葉が嫌いだった。言葉は嘘をつく道具だとことあるごとに言ってきた。他人の「内面」は絶対に見ることができないので、それが「本音」なのか「建て前」なのかをはっきり区別することは原理的にできない。超越論的冗談可能性という言葉があるが、これは全ての言説には「な〜んちゃって」とつけることによって冗談にすることができるという議論らしい。僕は言葉が嫌いだった。

 仏教に五戒がある。殺し、盗み、不倫、飲酒、嘘。弟子が釈尊に、どれが一番重い罪かと尋ねたら、嘘だと答えたらしい。普通は殺生が一番重い罪だと思うだろうけれど、釈尊によると「嘘」をつくものはどんな悪も平気でやるらしい。嘘が一番最悪の罪だ。

 仏教は、真実を求める教えだ。そして、禅などの聖道門では真理のことを離言真如と言うことがある。言葉を離れた真実ということだ。人間は「言葉の中に住んでいる」ので、そこから出る必要があるのだろう。維摩経の中の有名な話に、真理とは何かと議論している時に、智慧第一の文殊菩薩が「文字や言葉では語れないもの」と言ったときに釈尊がまあまあ褒めた。そのあと、維摩という居士は、意見を求められたとき沈黙でもって答えた。ここには嘘がない。本当しかない。

 仏教は「嘘」を嫌って、「真理」にたどり着く教えだと言ってもいいかもしれない。けれど、言葉は原理的に嘘をつく道具なので、言葉によっては真理は得られない。そこで二つ方法がある。言葉から離れるか、絶対的に「ほんまのほんまの言葉」を探すか。僕は前者が聖道門で、後者が浄土門だと思う。

 聖道門では言葉から離れることによって、嘘から逃れて救われる。浄土門では本当の言葉に出会って、嘘から逃れて救われる。本当の言葉とは南無阿弥陀仏である。

 よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。————親鸞

 
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