生きている意味を見つけるために生きてる パー
死んだらパーなら、なにをやってもパーのもと。という言葉がツイートで流れてきた。本当にその通り。死んでなにもなくなるのなら、今やっていることに一切の意味はない。「生きている意味を見つけるために生きてる」というよく聞く言葉を最近も聞いたが、それはキルケゴールのいう「反抗」である。要は自己実現ということだろう。ただし、自己実現は何にも支えられていない。念願の小説家になるとする。それでも「なんだったんだろう、この人生は」となる可能性はいつでもある。自分で見つけた意味は、自分が変われば変わる。自分で見つけた生きる意味は、不安定である。何にも支えられていない。要は「気分次第」だ。
自分で生きる意味を見つけても無駄だ。それは不安定だし、なによりも、生きる意味を見つけても死ぬ。死んだらパーだ。母親が死んだときに、父親に「死んだら人間ってどうなると思う?」と聞いたら「死んだら、死ぬだけでしょ」と言っていた。母さんの生はなんのためにあったんだろうと強く思った。
死後に無になる人は、みんな毎日パーをしている。毎日パーで、人生全部パーである。例え神や仏がいないとしても、自分の人生がパーにならないためには、信仰せざるをえないのではないか?でなければ原口統三のように自殺するしかない。人生を本当に考えると、信仰をせざるをえない。でなければパーを生きるしかなくなる。それでいい人はいいと思うけど、僕には無理だ。毎日穴を掘って、それを埋めて、また穴を掘って、埋めて、という行為と何も変わらないと思う。
信仰をするには疑いを取り除く必要がある。如来の智慧でチョキっと疑いを切ると、パーはなくなる。
自分で生きる意味を見つけても無駄だ。それは不安定だし、なによりも、生きる意味を見つけても死ぬ。死んだらパーだ。母親が死んだときに、父親に「死んだら人間ってどうなると思う?」と聞いたら「死んだら、死ぬだけでしょ」と言っていた。母さんの生はなんのためにあったんだろうと強く思った。
死後に無になる人は、みんな毎日パーをしている。毎日パーで、人生全部パーである。例え神や仏がいないとしても、自分の人生がパーにならないためには、信仰せざるをえないのではないか?でなければ原口統三のように自殺するしかない。人生を本当に考えると、信仰をせざるをえない。でなければパーを生きるしかなくなる。それでいい人はいいと思うけど、僕には無理だ。毎日穴を掘って、それを埋めて、また穴を掘って、埋めて、という行為と何も変わらないと思う。
信仰をするには疑いを取り除く必要がある。如来の智慧でチョキっと疑いを切ると、パーはなくなる。
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