虚栄心
虚栄心という心は僕にとってとてもとても大きい問題だった。僕は虚栄心が強い。そして虚栄心が憎い。清く正しく慎ましく、という生き方に憧れを抱いている僕にとって自分のうちにある虚栄心が許せなかった。だから他人の虚栄心も許せなかった。
沢木興道は死ぬ直前に、「ワシもこの年になってようやく、人によく見られようとする気持ちがなくなった」と言っていたらしい。確か70か80でなくなったはずだ。沢木興道は聴衆が1人しかいなくても全力で説法したり、入院したときは一人病室で座禅をしていて、見回りに来た医者をびっくりさせたらしい。誰にも見せずに、一人で病室で座禅をする行為というのは確かになによりも尊い。人前で祈ってはならない。その沢木興道が虚栄心を死ぬまで捨てられなかったと言っているので、人間に虚栄心は捨てられないんだろう。
僕は自分の虚栄心を認識できない人間は、馬鹿であると思う。不真面目であると思う。向き合ってないと思う。
その僕が、人前でなく、ただ嬉しさからできるようになったことがある。念仏である。親鸞も虚栄心が強かったようで、嫉妬や虚栄心を嘆いた言葉が多い。けれどこの煩悩逆巻く心の中に入ってくれるのが阿弥陀仏で、そこから咲く蓮の花が念仏なのだ。僕は言葉が嫌いだったが、一人、自分の部屋で、他人によく見られたいという思いなく、念仏ができるようになった。ただ虚栄心はまだある。死ねばなくなるのだと思う。
沢木興道は座禅に引きずられながら生きると言ったが、僕も念仏に引きずられながら生きるしかないのだと思う。僕の虚栄心のために苦労した菩薩が法蔵菩薩だった。
沢木興道は死ぬ直前に、「ワシもこの年になってようやく、人によく見られようとする気持ちがなくなった」と言っていたらしい。確か70か80でなくなったはずだ。沢木興道は聴衆が1人しかいなくても全力で説法したり、入院したときは一人病室で座禅をしていて、見回りに来た医者をびっくりさせたらしい。誰にも見せずに、一人で病室で座禅をする行為というのは確かになによりも尊い。人前で祈ってはならない。その沢木興道が虚栄心を死ぬまで捨てられなかったと言っているので、人間に虚栄心は捨てられないんだろう。
僕は自分の虚栄心を認識できない人間は、馬鹿であると思う。不真面目であると思う。向き合ってないと思う。
その僕が、人前でなく、ただ嬉しさからできるようになったことがある。念仏である。親鸞も虚栄心が強かったようで、嫉妬や虚栄心を嘆いた言葉が多い。けれどこの煩悩逆巻く心の中に入ってくれるのが阿弥陀仏で、そこから咲く蓮の花が念仏なのだ。僕は言葉が嫌いだったが、一人、自分の部屋で、他人によく見られたいという思いなく、念仏ができるようになった。ただ虚栄心はまだある。死ねばなくなるのだと思う。
沢木興道は座禅に引きずられながら生きると言ったが、僕も念仏に引きずられながら生きるしかないのだと思う。僕の虚栄心のために苦労した菩薩が法蔵菩薩だった。
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