哲学観
今はカントの純粋理性批判を読んでいるんだけれど、この本の意図は、「理性の限界に線を引く」ことにある。理性はどこまで「考えられる」のか、神とか不死とか自由とか、そういうものを理性は考えることができるのか、を検証する哲学書である。大体概要は掴んだけれど、人間には神を認識することができない。続編の実践理性批判では、神の存在が「要請」されるらしいが、証明ではないのでなんの意味もない。
このカントの線がショーペンハウアーから前期ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙せねばならない」に繋がる。人間の思考能力の限界を見定める系譜に繋がる。
「神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。理性ではなく心に感じ取れる神。(断章二七八)」
「理性の最後の行動は、理性を超えるものが無限に存在するのを認めることである。理性はそのことを知るところまで行かないかぎり、じつに弱いものである。(断章二六七)」
これはパスカルの言葉だけど、僕もそう思う。僕の場合は、哲学を6年間やって、「あ、これ駄目だな」と思ったけれど、これが真宗でいう機の深心なのかもしれない。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。」
これは清沢満之の言葉であるけれど、僕は「真理」とか「生死の問題」を求めて哲学をしている人は、「あ、これ駄目だな」と気づくのが一番大事なことだと思う。虚栄心や、パズル感覚でやってる人はいいけれど、結局お釈迦様の手のひらで哲学をうんうん考えてただけだったと知ることが西洋哲学の意味だと思う。カントみたいに、自分で理性の限界を証明してもいいけれど、まあそれは人類には不可能なので、哲学で真理求めてる人は「あ、これ無理だな」に早くなればいいと思う。
このカントの線がショーペンハウアーから前期ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙せねばならない」に繋がる。人間の思考能力の限界を見定める系譜に繋がる。
「神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。理性ではなく心に感じ取れる神。(断章二七八)」
「理性の最後の行動は、理性を超えるものが無限に存在するのを認めることである。理性はそのことを知るところまで行かないかぎり、じつに弱いものである。(断章二六七)」
これはパスカルの言葉だけど、僕もそう思う。僕の場合は、哲学を6年間やって、「あ、これ駄目だな」と思ったけれど、これが真宗でいう機の深心なのかもしれない。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。」
これは清沢満之の言葉であるけれど、僕は「真理」とか「生死の問題」を求めて哲学をしている人は、「あ、これ駄目だな」と気づくのが一番大事なことだと思う。虚栄心や、パズル感覚でやってる人はいいけれど、結局お釈迦様の手のひらで哲学をうんうん考えてただけだったと知ることが西洋哲学の意味だと思う。カントみたいに、自分で理性の限界を証明してもいいけれど、まあそれは人類には不可能なので、哲学で真理求めてる人は「あ、これ無理だな」に早くなればいいと思う。