人生入門

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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

哲学観

 今はカントの純粋理性批判を読んでいるんだけれど、この本の意図は、「理性の限界に線を引く」ことにある。理性はどこまで「考えられる」のか、神とか不死とか自由とか、そういうものを理性は考えることができるのか、を検証する哲学書である。大体概要は掴んだけれど、人間には神を認識することができない。続編の実践理性批判では、神の存在が「要請」されるらしいが、証明ではないのでなんの意味もない。
 このカントの線がショーペンハウアーから前期ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙せねばならない」に繋がる。人間の思考能力の限界を見定める系譜に繋がる。

「神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。理性ではなく心に感じ取れる神。(断章二七八)」
「理性の最後の行動は、理性を超えるものが無限に存在するのを認めることである。理性はそのことを知るところまで行かないかぎり、じつに弱いものである。(断章二六七)」
 これはパスカルの言葉だけど、僕もそう思う。僕の場合は、哲学を6年間やって、「あ、これ駄目だな」と思ったけれど、これが真宗でいう機の深心なのかもしれない。
「人生の事に真面目でなかりし間は、おいて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の意義について研究せずには居られないことになり、その研究がついに人生の意義は不可解であると云う所に到達して、ここに如来を信ずると云うことを惹起したのであります。」
 これは清沢満之の言葉であるけれど、僕は「真理」とか「生死の問題」を求めて哲学をしている人は、「あ、これ駄目だな」と気づくのが一番大事なことだと思う。虚栄心や、パズル感覚でやってる人はいいけれど、結局お釈迦様の手のひらで哲学をうんうん考えてただけだったと知ることが西洋哲学の意味だと思う。カントみたいに、自分で理性の限界を証明してもいいけれど、まあそれは人類には不可能なので、哲学で真理求めてる人は「あ、これ無理だな」に早くなればいいと思う。

考えられる

 ネットの人間に宗教観を語られた。曰く「神は人々からの信仰心によって成り立っており、信仰されなくなり人々の記憶から忘れ去られた時神としての力を封印される何かしらのきっかけでまた信仰される事で復活するので神に明確な「死」は存在しないと考えている」
 今まで聞いたことなくて、斬新な考え方だな、と思ったけど、根本的に思い違いをしていると思う。「宗教観」なる言葉がおかしいのかもしれない。宗教というのは、人間が神を考えるのではなくて、神が人間を考えるのだ。
 僕がいくらない知恵絞って仏のことを考えても、絶対に救われない。だから法蔵菩薩が五劫の思惟をしたのであり、阿弥陀仏に「考えられた」いわば「見抜かれた」僕が救われるのである。
 宗教に「ボクの考え」は必要ない。考えるのは、神であり仏である。

救いとは何か

 やっと定義できる気がする。「救いとは、救いが必要ない状態である」

 救いが必要ない人もいるじゃないか、と言われるかもしれないけれど、僕はこの世界は万人が救いを求める世界になっていると思う。釈尊に言わせれば一切皆苦で、みな救いを求めなければならないようになっている。パウロに言わせればみな原罪を持っている。でも僕はカミュの言葉が一番説得力を持っていると思う。カミュ曰く「この世は不条理だから」
 人間の理性は、何もかも「分かりたい」けれど世界を見ても「何も分からない」理性と世界のこの「関係」が不条理である。なぜ生まれた?分からない。なぜ大切な人が死んだ?分からない。なぜこんなに苦しい?分からない。なぜ俺は死ぬ?分からない。人間はこの不条理の中で救いを求めるのだと思う
 だからみな種は持っていると思う。それを仏性と言ってもいいかもしれない。けどなぜ「救われたい」という願いが顕在化しないのか?それは不条理を知らないからである。近しい人を亡くして、真宗を求めるようになった人の話は腐るほど聞く。いつか「救われたい」という種が発芽するのだと思う。この種が発芽しなかった人は、もう一遍人間をしなければならない。

 そして救われようとする。どうやって?信仰しかない。カミュは信仰を哲学的自殺だと言ったが、信仰をする人は一回死んで蘇るのだ。
 けれど救われない。なぜか?「救われたい」と思っているうちは救われていないからだ。救われたい!救われたい!と思っているうちは救われていない。

 「そのままでよかった、そのままで救われていた。もう救われたいと思わない」これが救いだと思う。救いとは、不条理性に気づいた人間が、必死に求めて力尽きたとき、与えられる恩寵である。

自己実現

夢なんて手に入れたら、ただの現実だった

 釈尊は権力も快楽も名誉も全て捨てて、乞食になった。法蔵菩薩も同じく、王位を捨てて修行者になった。王というのは最高の自己実現だろう。「何者にもなれなかった」と嘆く王などいるはずがない。けれどこの王子と王様は自らそれを捨てた。
 王というのは臣民によって成り立っている。臣民がいなければ王ではない。これは全ての「自己実現」に言える。作家というのは読者がいなければ成り立たない。ミュージシャンというのは聴衆がいなければなりたたない。医者というのは患者がいないと成り立たない。自己実現と書いてあるから、自己の本質のようなものが開花されるように思えるけれど、実際のところ、大衆に持ち上げられる、という事に過ぎない。

 OSHOという宗教家が、中年になって弟子になる人が多いと本に書いていた。世の中の酸いも甘いも知って、「これが人生なのか?もっと何かないのか?」となるんだろう。釈尊も同じ気持ちだったのだと思う。何者かになった人も同じ気持ちなんじゃないかと思う。
 実際、5段階説で有名なマズローは5段階目の自己実現欲求の上に、自己超越欲求をおいている。

 僕は今文章を書く仕事みたいなことをしているんだけれど、自己実現したと全く思えない。というか最初から自己実現したいという感覚が全く分からなかった。

 「何者にもなれない」と嘆く人を良く見る。でもどうせその何者かってのは誰かに作られた虚構であって、それもただの「現実」に過ぎない。王位を目指すのではなくて、もっとすごいもの、例えば無限などを目指したほうがいい。

この世の徹底的虚しさ

「この世で価値あるものは何ひとつない」と、日に千度自分に言い聞かせること。永久に同一地点に立って、独楽のように愚かしくぐるぐる回り続けること……。なぜなら、何もかも虚しいという思いには、進歩もなければ決着もないからである。—————シオラン

 生きているのに意味はない。意味も分からず投げ込まれたこの世界で、なぜ生きる?という問いを真摯に問わない人は、僕は嫌いだ。それだけが大事な問題で、「結局死ぬのになぜ生きるのか」という問いを持たない人間は馬鹿だと思うし、それから目を逸らして生きるのは、卑怯だ。「俺の人生なんだったんだろう」と思う日が必ず来る。来る。来る。明日来る。明日、脳の血管が切れる。卑怯をしてたツケが来る。そして脳が炸裂して死ぬ。これを天親菩薩は「空過」と呼んだ。虚しく過ぎる。そして、人生は本当に虚しい。これには薬はない。どう頑張っても人生は虚しい。カラオケだとか恋愛だとかそういうアヘンで誤魔化しているだけで、人生は虚しい。「この世で価値あるものは何ひとつない」

 浄土教は、もとはと言えば厭離穢土、欣求浄土の思想だ。この何もかも虚しい世界を厭い離れて、清らかな浄土へ行きましょうという教えだ。こういう話を聞いた。
 後世者と呼ばれる人たちがいる。病気になったら浄土へ行けると喜んで、病気が治ったら浄土へ遠のいたと悲しむような人たちだ。そういう後世者のエピソード。
 そのお坊さんが、ある日歩いていると、とてもぼろっちい家があったらしい。なんでだろう、と思ってそこへ通りかかったそこの主人へ、なぜ家を修繕しないのですか、と聞いたら、ああ、そろそろもう引っ越すんだよ、だから古い家はボロボロのままでいいんだ、と答えられたらしい。それを聞いたその坊さんは、これが厭離穢土、欣求浄土だ、と思って感動したらしい。この穢土は、「どうでもいい」穢土だ。穢い世界だ。そんなとこで頑張ってどうする。どうせ捨てる世界じゃないか。

 この娑婆世界は、なにをどう頑張っても虚しい。何も価値のあるものがない。でもそれが最近福音に思えてきた。「この世ってどうでもいいんだな!」とある種の開き直りができるようになった。この世のものは全部無駄だから、どうでもいい、執着しなくていい。適当に生きればいい。本番はここじゃない。本番は死んで仏になってからだ。

 希望のある「虚しさ」は「遊び」だと思う。なんの目的もなく、ただ遊ぶ。希望がなければ遊びの下に深淵が待ち構えているけれど、浄土というクッションがあれば安心して遊べる。この世は、どうでもいい。どうでもいいというのは、凄く楽だ。

人間蛆虫論

「況して人間の如き、無智無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして石化電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なし。——福沢諭吉」
 福沢諭吉は、このような認識で人間の安心を唱えていたらしい。これではパスカルとは真逆だ。
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。——パスカル」

 無限の宇宙がある。その宇宙にとって自分は塵にしか過ぎない。沢木興道も、自分とは地球上にいるノミに過ぎないと言っている。ただ、西洋人のパスカルにとってはそれは恐怖に過ぎなかった。福沢諭吉や沢木興道といった東洋人はなぜそこに安心を見出したのか。人間蛆虫論はどのようにして安心を得るのか。

 それは「たかが」や「人間如き」という認識があるように思う。たかが俺は人間じゃないか、たかが蛆虫じゃないか、俺が死んだところで何になるんだ、という認識がある。浄土真宗でいう機の深心であると思う。宗教的に言えば、人間如きが仏様に向かって偉そうにしてるんじゃないよ、という事だと思う。孫悟空とお釈迦様の手のひらの話はいつだって真理だ。「俺ごときが死んだところで何にもならない」

 パスカルは近代の人間である。近代といえば人間中心主義である。人間がみな王様なのだ。だからその王様が蛆虫であることが耐えられない。パスカルは人間は考える葦だと言って、その尊厳を説いた。だから「たかが人間」という認識に至れない。「私のような偉い王が死ぬのは考えられない」

 「たかが人間如き」の認識に至るには、やっぱり頭を下げることだと思う。人に、天に、自然に、花に、仏に。

なぜ仏は言葉になったのか

 僕は仏が目の前に現れて「あなたのことを救います」となんで言ってくれないのかずっと疑問に思っていた。でも最近ある同行と話していて気付いた。
 「僕のことどれぐらい信用できる?仏より信用できる?」と聞いたら「あなたは人間、仏は仏だから仏のほうが信用できる」と言われた。人間だから、というのは有限だから、ということだろう。無限なものは裏切らない。ところで無限なものとは何か?僕は超越神という概念、世界の外にいる無限なもの、という概念がどうも矛盾に感じられるので、無限なものを求めるならスピノザ的な神にならざるをえない。自然即神。だから、目に見えない。いや、スピノザに言わせれば全てが神なのだろうけれど。
 仏とは空であり、空とは一切なのだから、仏は一切だ。一切が仏だと気づいた人を仏という。「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」

 まあ何が言いたいかというと、「有限なもの」の言葉は「絶対的に」信頼することはできない。有限なものとは目に見えるもののことだ。目の前の仏像から「お前を救うぞ」と聞こえたとしよう。でもその仏像は「壊れる」。壊れた瞬間、信じることもできなくなるんじゃないだろうか。仏の幻覚が見えて(見える人はたくさんいる)お前を救うぞ、と言っても、それは「記憶」にしかならない。昔読んだ体験談だが、アメリカの真宗徒が念仏をしているときに、仏がたくさん見えたらしい。やった!これが信心だ!と先生に言いに行ったら、「それは二十願でしかない、十八願ではない」と言われたらしい。不思議体験はあてにならない。

 「言葉」になるというのは非常に合理的だと思う。言葉は形を持たない。けれど「意味」を持つ。そして記憶ではなく、自分とずっとリアルタイムで一体である。目の前に仏がドーン!と現れても信じられるのは少しだけだ。あのときは少し頭がおかしかった、とかすぐ疑いが湧いてくるだろう。

 南無阿弥陀仏

信仰とは何か 事実とは何か

 人間は主観から出られない。人間と世界とか相関関係にあって、決して外の「物そのもの」を見ることができないというのが「相関主義」と言われて現代主義で批判されている。カントの超越論的観念論あたりから始まったらしく、この問題は、立てたが最後、絶対に解けないとされている。言い換えれば「主観と客観はどうやったら一致するか?」という問題である。みんなバラバラの主観しか持っていないのに、なぜ一つの世界を共有していると言えるのか。アリにはアリの世界しか見えないように、人間には人間の世界しか見えないんじゃないか。世界そのものというのは人間の認識機能というものに曇らされて見えないんじゃないか。
 だから現代の竹田青嗣という哲学者は、「客観というのを探求をするのをやめて、『これは確実に存在する』という『確信の構造』を取り出そう」と言っている。フッサールがこれを言っているらしいのだけれど、僕はフッサールを読んでないので知らない。客観自体は知られないけど、客観自体が存在するっていう僕たちの素朴な確信の条件を調べよう、って感じらしい。
 そもそも相関主義という言葉を作ったのはカンタン・メイヤスーという新実在論の哲学者で、そのメイヤスーの哲学自体は意味が分からないんだけど、とにかく相関主義はダメらしい。新実在論で一番有能っぽいマルクス・ガブリエルはユニコーンも私の主観の中にあるテレビもテレビそれ自体も端的にその「意味の場」という場所に現象していると言っている。全ての物は端的に存在しているらしい。

 急に信仰の話をするが、信仰とは、主観が客観になることだと思う。よく読んでいる真宗系のブログのコメント欄から引用させてもらう。
 「何が筋違いか?って。「私」は「私」の心がどうなれば!こうなれば!と「私」の心ばかり見つめていた。でもそうじゃなかった。「私」が気にしなきゃいけないのは「私の心」ではなく「阿弥陀仏の本願」が成就したかしないのか!「法蔵菩薩様のご修業」が完成したのかしないのか!そこが1番の問題だったんです。」

 信というのは「端的な事実」ここで言えば「本願成就」へ至る道なのだと思う。信仰というのは思いきり主観的なものだと思われているけれど、僕は信じる前と信じた後では、「本願成就」を心の中に求めている状態から「本願成就」が端的に存在している状態へ変わった、という感覚があった。その「端的な存在の本願成就も結局主観でしょ?」と言われれば、まああなたにとってはそうですねとしか言えないけれど、この主観という夢の外にあるのが本願成就だと私は頂いています、としか返せない。信仰は求めたものにしか分からない世界だから信のある人とない人では信の話はできない。
 全部夢かもしれない。人間は人間の認識機能でしか世界を見れないのかもしれない。僕が見ている赤とあなたの見ている赤は違うのかもしれない。でも本願成就は端的に存在している。
 
 よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。という言葉は主観という夢の中で、ただ本願成就だけが夢の外だった、と解釈することもできると思う。

本願成就

 本願成就、というのはこの世で一番大事な四字熟語である。本願成就という言葉の意味を説明すると、「すでに全ての生き物は救われている」ということになる。永遠の過去から、全ての生き物は救われている。本願、というのは「助けるぞ」という決意であり、成就というのはその決意がもう叶っているという意味である。
 大乗仏教は歴史上の釈尊の直説法ではないけれど、深い瞑想により、この「本願成就」を感得した仏がたくさんいたのだと思う。すでにこの世の生き物は救われていると感得した仏がたくさんいたのだと思う。だから大乗仏典の3分の1は阿弥陀を讃嘆する経典なのだ。
 そして本願成就を告げ知らせる名のりが南無阿弥陀仏であり、すでに救われていることに気づくのが、生死の問題の解決だった。南無阿弥陀仏というのは「すでにあなたは救われていますよ」という意味で、僕がなにが言いたいのかというと、全ての人間は根底から救われている。早く気づいて欲しい。

智慧の輪

 知恵の輪というおもちゃを知ってるだろうか。なんか2つの鉄をパズルのように組み合わせたおもちゃで、決まった手順で動かしていけばその二つが外れる、というおもちゃだ。まあみんな知ってると思う。
 僕はこれが苦手だった。力ずくでガチャガチャやっていたら、母親が解いてくれた記憶がある。

 人間は生まれつき、心臓に知恵の輪を持っている。これが解けなかったらどうなるか?もう一度生きなければならない。何と何が引っ掛かっているのか。生と死である「いつまでも生きたい、けれど死なねばならぬ」という知恵の輪である。人生のこの根本矛盾を、人生の中で、解決しなければならない。

 それには智慧が必要になる。僕は阿呆なので、お母さんに知恵の輪を解いてもらったように、阿弥陀仏に解いてもらった。自力で解ける人は座禅すればいいと思う。

 人間には知恵の輪がある。それを解決するのが人生の一番の目的であると思うし、多くの人がそういう生き方をしてくれればうれしいと思う。根本矛盾が解決したら、「死ねる」。知恵の輪が解決してない人は「死ねない」。多くの人がきちんと死ねればいいなと思う。
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