人間蛆虫論
「況して人間の如き、無智無力見る影もなき蛆虫同様の小動物にして石化電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一夢中、忽ち消えて痕なし。——福沢諭吉」
福沢諭吉は、このような認識で人間の安心を唱えていたらしい。これではパスカルとは真逆だ。
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。——パスカル」
無限の宇宙がある。その宇宙にとって自分は塵にしか過ぎない。沢木興道も、自分とは地球上にいるノミに過ぎないと言っている。ただ、西洋人のパスカルにとってはそれは恐怖に過ぎなかった。福沢諭吉や沢木興道といった東洋人はなぜそこに安心を見出したのか。人間蛆虫論はどのようにして安心を得るのか。
それは「たかが」や「人間如き」という認識があるように思う。たかが俺は人間じゃないか、たかが蛆虫じゃないか、俺が死んだところで何になるんだ、という認識がある。浄土真宗でいう機の深心であると思う。宗教的に言えば、人間如きが仏様に向かって偉そうにしてるんじゃないよ、という事だと思う。孫悟空とお釈迦様の手のひらの話はいつだって真理だ。「俺ごときが死んだところで何にもならない」
パスカルは近代の人間である。近代といえば人間中心主義である。人間がみな王様なのだ。だからその王様が蛆虫であることが耐えられない。パスカルは人間は考える葦だと言って、その尊厳を説いた。だから「たかが人間」という認識に至れない。「私のような偉い王が死ぬのは考えられない」
「たかが人間如き」の認識に至るには、やっぱり頭を下げることだと思う。人に、天に、自然に、花に、仏に。
福沢諭吉は、このような認識で人間の安心を唱えていたらしい。これではパスカルとは真逆だ。
「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。——パスカル」
無限の宇宙がある。その宇宙にとって自分は塵にしか過ぎない。沢木興道も、自分とは地球上にいるノミに過ぎないと言っている。ただ、西洋人のパスカルにとってはそれは恐怖に過ぎなかった。福沢諭吉や沢木興道といった東洋人はなぜそこに安心を見出したのか。人間蛆虫論はどのようにして安心を得るのか。
それは「たかが」や「人間如き」という認識があるように思う。たかが俺は人間じゃないか、たかが蛆虫じゃないか、俺が死んだところで何になるんだ、という認識がある。浄土真宗でいう機の深心であると思う。宗教的に言えば、人間如きが仏様に向かって偉そうにしてるんじゃないよ、という事だと思う。孫悟空とお釈迦様の手のひらの話はいつだって真理だ。「俺ごときが死んだところで何にもならない」
パスカルは近代の人間である。近代といえば人間中心主義である。人間がみな王様なのだ。だからその王様が蛆虫であることが耐えられない。パスカルは人間は考える葦だと言って、その尊厳を説いた。だから「たかが人間」という認識に至れない。「私のような偉い王が死ぬのは考えられない」
「たかが人間如き」の認識に至るには、やっぱり頭を下げることだと思う。人に、天に、自然に、花に、仏に。
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