なぜ仏は言葉になったのか
僕は仏が目の前に現れて「あなたのことを救います」となんで言ってくれないのかずっと疑問に思っていた。でも最近ある同行と話していて気付いた。
「僕のことどれぐらい信用できる?仏より信用できる?」と聞いたら「あなたは人間、仏は仏だから仏のほうが信用できる」と言われた。人間だから、というのは有限だから、ということだろう。無限なものは裏切らない。ところで無限なものとは何か?僕は超越神という概念、世界の外にいる無限なもの、という概念がどうも矛盾に感じられるので、無限なものを求めるならスピノザ的な神にならざるをえない。自然即神。だから、目に見えない。いや、スピノザに言わせれば全てが神なのだろうけれど。
仏とは空であり、空とは一切なのだから、仏は一切だ。一切が仏だと気づいた人を仏という。「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」
まあ何が言いたいかというと、「有限なもの」の言葉は「絶対的に」信頼することはできない。有限なものとは目に見えるもののことだ。目の前の仏像から「お前を救うぞ」と聞こえたとしよう。でもその仏像は「壊れる」。壊れた瞬間、信じることもできなくなるんじゃないだろうか。仏の幻覚が見えて(見える人はたくさんいる)お前を救うぞ、と言っても、それは「記憶」にしかならない。昔読んだ体験談だが、アメリカの真宗徒が念仏をしているときに、仏がたくさん見えたらしい。やった!これが信心だ!と先生に言いに行ったら、「それは二十願でしかない、十八願ではない」と言われたらしい。不思議体験はあてにならない。
「言葉」になるというのは非常に合理的だと思う。言葉は形を持たない。けれど「意味」を持つ。そして記憶ではなく、自分とずっとリアルタイムで一体である。目の前に仏がドーン!と現れても信じられるのは少しだけだ。あのときは少し頭がおかしかった、とかすぐ疑いが湧いてくるだろう。
南無阿弥陀仏
「僕のことどれぐらい信用できる?仏より信用できる?」と聞いたら「あなたは人間、仏は仏だから仏のほうが信用できる」と言われた。人間だから、というのは有限だから、ということだろう。無限なものは裏切らない。ところで無限なものとは何か?僕は超越神という概念、世界の外にいる無限なもの、という概念がどうも矛盾に感じられるので、無限なものを求めるならスピノザ的な神にならざるをえない。自然即神。だから、目に見えない。いや、スピノザに言わせれば全てが神なのだろうけれど。
仏とは空であり、空とは一切なのだから、仏は一切だ。一切が仏だと気づいた人を仏という。「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」
まあ何が言いたいかというと、「有限なもの」の言葉は「絶対的に」信頼することはできない。有限なものとは目に見えるもののことだ。目の前の仏像から「お前を救うぞ」と聞こえたとしよう。でもその仏像は「壊れる」。壊れた瞬間、信じることもできなくなるんじゃないだろうか。仏の幻覚が見えて(見える人はたくさんいる)お前を救うぞ、と言っても、それは「記憶」にしかならない。昔読んだ体験談だが、アメリカの真宗徒が念仏をしているときに、仏がたくさん見えたらしい。やった!これが信心だ!と先生に言いに行ったら、「それは二十願でしかない、十八願ではない」と言われたらしい。不思議体験はあてにならない。
「言葉」になるというのは非常に合理的だと思う。言葉は形を持たない。けれど「意味」を持つ。そして記憶ではなく、自分とずっとリアルタイムで一体である。目の前に仏がドーン!と現れても信じられるのは少しだけだ。あのときは少し頭がおかしかった、とかすぐ疑いが湧いてくるだろう。
南無阿弥陀仏
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