信仰とは何か 事実とは何か | 人生入門

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丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

信仰とは何か 事実とは何か

 人間は主観から出られない。人間と世界とか相関関係にあって、決して外の「物そのもの」を見ることができないというのが「相関主義」と言われて現代主義で批判されている。カントの超越論的観念論あたりから始まったらしく、この問題は、立てたが最後、絶対に解けないとされている。言い換えれば「主観と客観はどうやったら一致するか?」という問題である。みんなバラバラの主観しか持っていないのに、なぜ一つの世界を共有していると言えるのか。アリにはアリの世界しか見えないように、人間には人間の世界しか見えないんじゃないか。世界そのものというのは人間の認識機能というものに曇らされて見えないんじゃないか。
 だから現代の竹田青嗣という哲学者は、「客観というのを探求をするのをやめて、『これは確実に存在する』という『確信の構造』を取り出そう」と言っている。フッサールがこれを言っているらしいのだけれど、僕はフッサールを読んでないので知らない。客観自体は知られないけど、客観自体が存在するっていう僕たちの素朴な確信の条件を調べよう、って感じらしい。
 そもそも相関主義という言葉を作ったのはカンタン・メイヤスーという新実在論の哲学者で、そのメイヤスーの哲学自体は意味が分からないんだけど、とにかく相関主義はダメらしい。新実在論で一番有能っぽいマルクス・ガブリエルはユニコーンも私の主観の中にあるテレビもテレビそれ自体も端的にその「意味の場」という場所に現象していると言っている。全ての物は端的に存在しているらしい。

 急に信仰の話をするが、信仰とは、主観が客観になることだと思う。よく読んでいる真宗系のブログのコメント欄から引用させてもらう。
 「何が筋違いか?って。「私」は「私」の心がどうなれば!こうなれば!と「私」の心ばかり見つめていた。でもそうじゃなかった。「私」が気にしなきゃいけないのは「私の心」ではなく「阿弥陀仏の本願」が成就したかしないのか!「法蔵菩薩様のご修業」が完成したのかしないのか!そこが1番の問題だったんです。」

 信というのは「端的な事実」ここで言えば「本願成就」へ至る道なのだと思う。信仰というのは思いきり主観的なものだと思われているけれど、僕は信じる前と信じた後では、「本願成就」を心の中に求めている状態から「本願成就」が端的に存在している状態へ変わった、という感覚があった。その「端的な存在の本願成就も結局主観でしょ?」と言われれば、まああなたにとってはそうですねとしか言えないけれど、この主観という夢の外にあるのが本願成就だと私は頂いています、としか返せない。信仰は求めたものにしか分からない世界だから信のある人とない人では信の話はできない。
 全部夢かもしれない。人間は人間の認識機能でしか世界を見れないのかもしれない。僕が見ている赤とあなたの見ている赤は違うのかもしれない。でも本願成就は端的に存在している。
 
 よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。という言葉は主観という夢の中で、ただ本願成就だけが夢の外だった、と解釈することもできると思う。

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