自己実現
夢なんて手に入れたら、ただの現実だった
釈尊は権力も快楽も名誉も全て捨てて、乞食になった。法蔵菩薩も同じく、王位を捨てて修行者になった。王というのは最高の自己実現だろう。「何者にもなれなかった」と嘆く王などいるはずがない。けれどこの王子と王様は自らそれを捨てた。
王というのは臣民によって成り立っている。臣民がいなければ王ではない。これは全ての「自己実現」に言える。作家というのは読者がいなければ成り立たない。ミュージシャンというのは聴衆がいなければなりたたない。医者というのは患者がいないと成り立たない。自己実現と書いてあるから、自己の本質のようなものが開花されるように思えるけれど、実際のところ、大衆に持ち上げられる、という事に過ぎない。
OSHOという宗教家が、中年になって弟子になる人が多いと本に書いていた。世の中の酸いも甘いも知って、「これが人生なのか?もっと何かないのか?」となるんだろう。釈尊も同じ気持ちだったのだと思う。何者かになった人も同じ気持ちなんじゃないかと思う。
実際、5段階説で有名なマズローは5段階目の自己実現欲求の上に、自己超越欲求をおいている。
僕は今文章を書く仕事みたいなことをしているんだけれど、自己実現したと全く思えない。というか最初から自己実現したいという感覚が全く分からなかった。
「何者にもなれない」と嘆く人を良く見る。でもどうせその何者かってのは誰かに作られた虚構であって、それもただの「現実」に過ぎない。王位を目指すのではなくて、もっとすごいもの、例えば無限などを目指したほうがいい。
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