救いとは何か
やっと定義できる気がする。「救いとは、救いが必要ない状態である」
救いが必要ない人もいるじゃないか、と言われるかもしれないけれど、僕はこの世界は万人が救いを求める世界になっていると思う。釈尊に言わせれば一切皆苦で、みな救いを求めなければならないようになっている。パウロに言わせればみな原罪を持っている。でも僕はカミュの言葉が一番説得力を持っていると思う。カミュ曰く「この世は不条理だから」
人間の理性は、何もかも「分かりたい」けれど世界を見ても「何も分からない」理性と世界のこの「関係」が不条理である。なぜ生まれた?分からない。なぜ大切な人が死んだ?分からない。なぜこんなに苦しい?分からない。なぜ俺は死ぬ?分からない。人間はこの不条理の中で救いを求めるのだと思う
だからみな種は持っていると思う。それを仏性と言ってもいいかもしれない。けどなぜ「救われたい」という願いが顕在化しないのか?それは不条理を知らないからである。近しい人を亡くして、真宗を求めるようになった人の話は腐るほど聞く。いつか「救われたい」という種が発芽するのだと思う。この種が発芽しなかった人は、もう一遍人間をしなければならない。
そして救われようとする。どうやって?信仰しかない。カミュは信仰を哲学的自殺だと言ったが、信仰をする人は一回死んで蘇るのだ。
けれど救われない。なぜか?「救われたい」と思っているうちは救われていないからだ。救われたい!救われたい!と思っているうちは救われていない。
「そのままでよかった、そのままで救われていた。もう救われたいと思わない」これが救いだと思う。救いとは、不条理性に気づいた人間が、必死に求めて力尽きたとき、与えられる恩寵である。
救いが必要ない人もいるじゃないか、と言われるかもしれないけれど、僕はこの世界は万人が救いを求める世界になっていると思う。釈尊に言わせれば一切皆苦で、みな救いを求めなければならないようになっている。パウロに言わせればみな原罪を持っている。でも僕はカミュの言葉が一番説得力を持っていると思う。カミュ曰く「この世は不条理だから」
人間の理性は、何もかも「分かりたい」けれど世界を見ても「何も分からない」理性と世界のこの「関係」が不条理である。なぜ生まれた?分からない。なぜ大切な人が死んだ?分からない。なぜこんなに苦しい?分からない。なぜ俺は死ぬ?分からない。人間はこの不条理の中で救いを求めるのだと思う
だからみな種は持っていると思う。それを仏性と言ってもいいかもしれない。けどなぜ「救われたい」という願いが顕在化しないのか?それは不条理を知らないからである。近しい人を亡くして、真宗を求めるようになった人の話は腐るほど聞く。いつか「救われたい」という種が発芽するのだと思う。この種が発芽しなかった人は、もう一遍人間をしなければならない。
そして救われようとする。どうやって?信仰しかない。カミュは信仰を哲学的自殺だと言ったが、信仰をする人は一回死んで蘇るのだ。
けれど救われない。なぜか?「救われたい」と思っているうちは救われていないからだ。救われたい!救われたい!と思っているうちは救われていない。
「そのままでよかった、そのままで救われていた。もう救われたいと思わない」これが救いだと思う。救いとは、不条理性に気づいた人間が、必死に求めて力尽きたとき、与えられる恩寵である。
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