「ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというて威張らんでもいい。総理大臣が一番エライと思うているからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口はできぬ。みな天上天下唯我独尊である。————沢木興道」
親鸞聖人によると、釈迦の出世本懐、つまり生まれてきた意味は大無量寿経を説くためである。出世本懐とは、仏にしか使わないらしいが、沢木興道も言うように、僕らはみな天上天下唯我独尊である。釈迦の出世本懐は、無量寿経を説くこと。そして僕の出世本懐は、無量寿経を聞くことである。つまり南無阿弥陀仏を聞くことである。みな出世本懐を持っている。僕はここで「人それぞれ出世本懐を持っている」とは言いたくない。やはり、人間の出世本懐は、無量寿経を聞くことであると思う。梯実円和上は、娑婆は念仏に出遭う道場と仰っていた。
念仏で、人生を〆る。念仏者は、葬式が2回あるという。弥陀をたのんだときと、浄土へ帰るときである。ということは僕はこの世で自分の葬式をするために生まれてきたのかもしれない。心が死ぬ。一回死ななければ、本当に生きられない。
釈迦仏の出世本懐無量寿経僕は聞くのが出世本懐
「俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。
春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。——————ヨルシカ」
音楽は売春だという感覚がある。それはもうヨルシカが暴露しているからいい。
カルナーという言葉がある。聞き覚えがないと思うが、慈悲の「悲」の部分の原語である。カルナーというのはもともと「呻き」という意味で、そこから転じて「同情」を表すようになった。
「「僕の命の歌で君が命を大事にすればいいのに」
「僕の家族の歌で君が愛を大事にすればいいのに」
そんなことを言って本心は欲しかったのは共感だけ。
欲にまみれた常人のなりそこないが、僕だった。
苦しいから歌った。
悲しいから歌った。
生きたいから歌った。ただのエゴの塊だった。
こんな歌で誰かが、救えるはずないんだ。——————カンザキイオリ」
音楽とは、この苦界を生き延びるための「呻き」なのかもしれない。それは音楽自体が「呻き」であると同時に、自分と同じように呻いてる人を助けたいという大悲なのかもしれない。僕がもし音楽を作るとしたら、「呻き」としての音楽を作りたい。
「わたしが肯定できるのは、呻きながら求める人だけである。(断章四二一)」
女「飲んだ?」
男『飲んだよ』
女「舌の下とかに隠したりしてない?」
男『してないよ、ほら』
女「ほんとね、ちゃんと飲んでるわね」
男『人生で一番重要な時間に嘘はつかないさ』
女「だってあなた嘘つきでしょ」
男『僕は嘘つきじゃない。言葉が嘘をつくんだ』
女「詭弁にもなってないわよ、大丈夫?もう効いてきた?」
男『まだどうにもならないよ』
女「よかった。どうせなら同じタイミングで」
男『あのさ』
女「何?」
男『僕のどこが好きだったの?』
女「知性で、抱擁してくれるところ」
男『それ以外は?』
女「うーん、顔と、芯があるところと」
男『もういいや』
女「そうね」
男『うん』
女「嫌いなところは、部屋を片付けないところと、髭をそらないところ。あとデリカシーがないところ、無意識に、人を傷つける言葉を吐くところ」
男『うん、ごめんな』
女「いいわよ」
男『そろそろ5分ぐらいたったかな』
女「ねえ、しりとりしようよ、りんご」
男『しないよ』
女「りんご」
男『ごりら』
女「らーめん」
男『うん』
女「うん」
男『うん』
女「どうだった?今まで」
男『好きだったよ』
女「どれぐらい?」
男『今、一緒にいれるぐらい』
女「私も、それぐらい」
男『ねえ』
女「なに?」
男『天国って、あるのかな』
女「きっと、ないよ」
男『どうして?』
女「ある人にはあるんじゃない?」
男『そうだね』
女「なんでこんなことになったのかしら」
男『誰のせいでもないよ。強いて言えば僕ら二人のせいだよ』
女「そうね」
男『うん』
女「私、あなたと出会えてよかったな」
男『僕もそう思うよ。この生が何度繰り返されても構わないよ』
女「つらすとら?」
男『ツァラトゥストラ』
女「なんでも知ってるのね」
男『僕は何も知らないよ』
女「今、この瞬間がね」
男『うん』
女「生まれてきて一番幸せ」
男『よかった』
女「冷たいわね」
男『僕の幸せだったときは、いつだろうなあ、やっぱり今だろうなあ』
女「今だけ」
男『今だけだよ』
女「眠くない?」
男『眠いよ』
女「寒くない?」
男『寒いよ』
女「こっち来て」
男『うん』
女「じゃあ、おやすみ」
男『待ってよ』
女「女々しいわね」
男『ほんとは飲んでないんだ、ほら』
女「え、どこに隠してたの、早く飲んで!」
男『飲まないよ、死ぬのは君だけだ』
女「一緒に死のうって言ったじゃない」
男『僕はまだ死にたくない。でも君のことは本当に愛していたよ』
女「どうしてこんなことしたの?考えられない」
男『君の死体をバラバラにして、煮込むんだよ、そろそろ効く頃かな』
女「あのね、見てこれ」
男『え!君も手に隠し持ってたのか』
女「私たちほんとお似合いね」
男『そうだと思うよ』
女「ずっと一緒にいようね…」
男『それがいい』
女「恋ってなんなのかしら」
男『お互いを騙しあうことさ』
僕は一言で言って「ずるがしこい」。これに尽きると思う。そのずるがしこさは、絶対に開示したくない、母親の子宮でしか癒されることのない、幼稚さを隠すための防護服である。僕は徹底的に幼稚で、わがままで、脆くて、弱くて、悲痛な、部分を持っている。でもここはみんな持っていると思う。SMクラブに通うサラリーマンのような。
そのどろりとした部分が垂れることが多すぎる。できるだけ他人に見せないようにしてるんだけど、出てしまう。一回ねーちゃんの胸で号泣しないと治んないよ
僕が「ぶっちゃけ宗教ってどう思う?」って聞くと「生きていくのに支えてくれるものではあるんじゃないかなあ」って大体言われる。そんなもんじゃないと思う。曽我量深師か金子大栄師が言ってたが「宗教とはこの一言があれば死ねるというものを見つけることである」というようなことを言っていた。「人生の諸問題」を支えてくれるものなのではなくて、「人生そのもの」を解決するのが宗教である。
多分人生の中で支えてくれるものと言っている人は、杖のようなものだと思っているんだろう。僕はそうではなくて、言ってしまえば「この宇宙全体」が解決されるものだと思う。つらいときに寄り添ってくれるなんてものは副作用で、矛盾だらけの宇宙、卑近な例を言えば「死にとうない、死なねばならぬ」という根本矛盾を解決するのが宗教であると思う。
人間が宗教を使うのではなくて、仏が人間を使うのだ。親鸞も六字釈の中で「命の言は使なり」と言っている。人間の道具ではない。宇宙が宇宙を解決する妙法である。
ここ最近でこの話を2人ほどとしたのだけれど、2人ともあると言っていた。僕はないと思うんだけれど。
「100億年後には全ては無になっている」「自分が死ねば世界も死ぬ」「作り上げた作品も関係も全て無常で無になる」といったことを熱弁したのだが、納得して貰えなかった。その人たちが言うには「例え人類が滅亡するにしても、今現在、誰かに影響を与えたり、楽しいことをしているから、意味がある」そうだ。
例え話だけれど、例えばオンラインゲームをしているとしよう。めちゃくちゃ頑張って、ギルドにも貢献して、課金もしまくって、有名人になってるとしよう。ところが突然キャラクターがBANされて、二度とログインできなくなる。僕はこれを「全て意味がなかった」と見なす。「あなたがどれだけ頑張っても、いつのことかは明示しませんが、突然BANしますよ」という警告をされたオンラインゲームをしたいと思うだろうか?僕はしたくない。
人みな骨になるならば、という本に、人間は虚無だから、宗教や社会や様々な文化を作ってその「カプセル」の中に住むようになったと書いてあった。本当は、宇宙は虚無が吹きすさんでいるんだけれど、人間はそれに耐えられないから、文化というカプセルを作った。けれどそれは幻想に過ぎない。「意味がある」と言っている人の意味とは、めちゃくちゃ好意的に見ても僕には「幻想」にしか見えない。
死という突破不可能だと思われた岩盤を掘り進むと、南無阿弥陀仏に突き当たった。ここが奥の奥で、これ以上の奥はないのだと思う。南無阿弥陀仏を掘ることはできない。死を発破解体すると南無阿弥陀仏という金剛石が出てきた。
これからは南無阿弥陀仏の周りをぐるぐる周り続けながら生きるのだと思う。南無阿弥陀仏の歴史、西田幾多郎や清沢満之による哲学的解釈、日常生活での称名。なんにせよ奥の奥だと思っていた死に、まだ奥があってよかった。
パスカルは人間の生を「動性」のうちに見た。つまりマグロみたいなものだ。止まると死んでしまう。だからなんとかして動こうとする。動かなければ、たちまち「倦怠」に襲われ、自己が虚無で悲惨であることを自覚してしまうからだ。これは僕の実体験だが、人は止まると自分の境遇が悲惨だと知ってしまう。それは僕がひきこもりだからであるだろうけれど、僕はこのことに一番気づきやすい人は「不眠症」の人だと思う。僕も自分がいつか死んで一切が無に帰して世界が無意味なことを悟ったのは布団の中だった。僕は寝つきが悪い子供だった。世界で一番厭世的な思想家であるシオランが不眠症だったのは頷ける。夜、真っ暗な中、天井を見ている。眠れない。考えるのは自己のことしかない。俺って結局死ぬじゃないか、生きてる意味ってなんなんだ。このような思考をしないために、人は常に自己から目を逸らして生きている。現実逃避だ。自己は死ぬという現実から逃げるために、現実に逃避している。中3の頃からブログに書いていることだけど、哲学なんか現実逃避だと言われることが多い。でも自分の足元の現実、一寸先は闇、次の瞬間には地獄に堕ちるという根源的な現実から目を背けているほうがよっぽど現実逃避だと思う。絶対にお前は死ぬ。全ては過ぎ去る
金子大栄の本を読んでいると「人生に於ける問題」と「人生そのものの問題」という区別が出てきた。前者は恋愛や経済などの問題で、後者はこの人生は一体なんなのだ、という問題である。後者が問題になるのは僕のようなひきこもりか、余程感受性の強い人か、病気でまもなく死ぬ人などだろう。でも僕たちは普通に明日死ぬ。
人を一人部屋に閉じ込める。部屋の四方に「お前は必ずいつか死ぬ」と真理を書いた張り紙を張る。これが人間の原的な姿だと僕は思う。
死刑囚に坊さんや神父がつくのに、普通の人間につかないのはおかしい。人間は全員死刑囚だ。止まれ!自己を、死を直視しろ!と僕が言っても誰にも響かないのだけれど
一切仏教の関係ない家に生まれて人に誘われたわけでもなく浄土真宗をしているのなんて日本で多分僕ぐらいだろう。若い人は新興宗教をすると思う。ご利益があるから。
浄土真宗にご利益は一切ない。だからしなくていい。高光大船という真宗人は「捨てたがよい、宗教は一文にもならぬ」と言ったらしい。味のある言葉だけれど、もう文字通りとっていいんじゃなかろうか。宗教は一文にもならない。
みんな救われようとか思わなくていいんじゃないか。それぐらい強いんだから。僕は強度の孤独と死の恐怖、及び死による人生の徹底的無意味さに耐えかねて救われようと頑張ったけど、みんな強いんだから救われなくていいんじゃないか。
僕は信仰のない人は、自分が癌だと分かった時に物凄く絶望すると思っているけど、そうでもないのかもしれない。祖父と母親の例しか知らないし。この2人がとても絶望していたのは知っている。けれど他の人は絶望しないのかもしれない。みんな強いから救われなくていいんじゃねって思うようになった。
強い人たち、どうせ死ぬけど頑張って生きてね。
僕のめちゃくちゃ好きな言葉に「この生死は仏の御いのち也」という道元禅師の言葉があるのだけれど、それについて散歩中につらつら考えたことを書く。
僕のいのちは僕のものだ。でもそれは社会的次元での話なのだと思う。次元が違う。レイヤーが違う。
「朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう——————金子みすゞ」
いわしのいのちは誰のものなのか?人間のものなのか?人間の所有物になったイワシは人間に生殺与奪権を握られる。そして海の中では殺されていったイワシの弔いをする。古代や中世は奴隷が主人の所有物だった。強いものが、弱いもののいのちを所有するのがこの世の習いなのか?
初めから考える。僕のいのちは僕のものだとしよう。でも僕のいのちは僕にはどうにもできない。朝には紅顔ありて夕べには白骨となる。これで所有してると言えるのか?僕は言えないと思う。社会的な次元では「ぼくのいのち」の権利を主張するのは大事だが、もっと深い層では、いのちは誰のものでもないと思う。
誰のものでもない。つまり無に所有されている。全ての命は無に所有されている。無とは無我だ。無我とは仏だ。全てのいのちは仏に所有されている。
この生死は仏の御いのち也