不眠症 止マレ!
パスカルは人間の生を「動性」のうちに見た。つまりマグロみたいなものだ。止まると死んでしまう。だからなんとかして動こうとする。動かなければ、たちまち「倦怠」に襲われ、自己が虚無で悲惨であることを自覚してしまうからだ。これは僕の実体験だが、人は止まると自分の境遇が悲惨だと知ってしまう。それは僕がひきこもりだからであるだろうけれど、僕はこのことに一番気づきやすい人は「不眠症」の人だと思う。僕も自分がいつか死んで一切が無に帰して世界が無意味なことを悟ったのは布団の中だった。僕は寝つきが悪い子供だった。世界で一番厭世的な思想家であるシオランが不眠症だったのは頷ける。夜、真っ暗な中、天井を見ている。眠れない。考えるのは自己のことしかない。俺って結局死ぬじゃないか、生きてる意味ってなんなんだ。このような思考をしないために、人は常に自己から目を逸らして生きている。現実逃避だ。自己は死ぬという現実から逃げるために、現実に逃避している。中3の頃からブログに書いていることだけど、哲学なんか現実逃避だと言われることが多い。でも自分の足元の現実、一寸先は闇、次の瞬間には地獄に堕ちるという根源的な現実から目を背けているほうがよっぽど現実逃避だと思う。絶対にお前は死ぬ。全ては過ぎ去る
金子大栄の本を読んでいると「人生に於ける問題」と「人生そのものの問題」という区別が出てきた。前者は恋愛や経済などの問題で、後者はこの人生は一体なんなのだ、という問題である。後者が問題になるのは僕のようなひきこもりか、余程感受性の強い人か、病気でまもなく死ぬ人などだろう。でも僕たちは普通に明日死ぬ。
人を一人部屋に閉じ込める。部屋の四方に「お前は必ずいつか死ぬ」と真理を書いた張り紙を張る。これが人間の原的な姿だと僕は思う。
死刑囚に坊さんや神父がつくのに、普通の人間につかないのはおかしい。人間は全員死刑囚だ。止まれ!自己を、死を直視しろ!と僕が言っても誰にも響かないのだけれど
金子大栄の本を読んでいると「人生に於ける問題」と「人生そのものの問題」という区別が出てきた。前者は恋愛や経済などの問題で、後者はこの人生は一体なんなのだ、という問題である。後者が問題になるのは僕のようなひきこもりか、余程感受性の強い人か、病気でまもなく死ぬ人などだろう。でも僕たちは普通に明日死ぬ。
人を一人部屋に閉じ込める。部屋の四方に「お前は必ずいつか死ぬ」と真理を書いた張り紙を張る。これが人間の原的な姿だと僕は思う。
死刑囚に坊さんや神父がつくのに、普通の人間につかないのはおかしい。人間は全員死刑囚だ。止まれ!自己を、死を直視しろ!と僕が言っても誰にも響かないのだけれど
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