いのちの所有権
僕のめちゃくちゃ好きな言葉に「この生死は仏の御いのち也」という道元禅師の言葉があるのだけれど、それについて散歩中につらつら考えたことを書く。
僕のいのちは僕のものだ。でもそれは社会的次元での話なのだと思う。次元が違う。レイヤーが違う。
「朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう——————金子みすゞ」
いわしのいのちは誰のものなのか?人間のものなのか?人間の所有物になったイワシは人間に生殺与奪権を握られる。そして海の中では殺されていったイワシの弔いをする。古代や中世は奴隷が主人の所有物だった。強いものが、弱いもののいのちを所有するのがこの世の習いなのか?
初めから考える。僕のいのちは僕のものだとしよう。でも僕のいのちは僕にはどうにもできない。朝には紅顔ありて夕べには白骨となる。これで所有してると言えるのか?僕は言えないと思う。社会的な次元では「ぼくのいのち」の権利を主張するのは大事だが、もっと深い層では、いのちは誰のものでもないと思う。
誰のものでもない。つまり無に所有されている。全ての命は無に所有されている。無とは無我だ。無我とは仏だ。全てのいのちは仏に所有されている。
この生死は仏の御いのち也
僕のいのちは僕のものだ。でもそれは社会的次元での話なのだと思う。次元が違う。レイヤーが違う。
「朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう——————金子みすゞ」
いわしのいのちは誰のものなのか?人間のものなのか?人間の所有物になったイワシは人間に生殺与奪権を握られる。そして海の中では殺されていったイワシの弔いをする。古代や中世は奴隷が主人の所有物だった。強いものが、弱いもののいのちを所有するのがこの世の習いなのか?
初めから考える。僕のいのちは僕のものだとしよう。でも僕のいのちは僕にはどうにもできない。朝には紅顔ありて夕べには白骨となる。これで所有してると言えるのか?僕は言えないと思う。社会的な次元では「ぼくのいのち」の権利を主張するのは大事だが、もっと深い層では、いのちは誰のものでもないと思う。
誰のものでもない。つまり無に所有されている。全ての命は無に所有されている。無とは無我だ。無我とは仏だ。全てのいのちは仏に所有されている。
この生死は仏の御いのち也
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