無分別智 このまんま
禅ではよくこういうことが言われる。
1禅を学ぶ前には、その人にとって山は山であり、川は川であった。
2禅を学びはじめると、もはや山は山ではなく、川は川ではなかった。
3しかし、一度さとりの境地に達するや、ふたたび、山は山となり、川は川となった。
これを分かりやすく解説すると、1凡夫の目にはもちろん山は山であり、川は川である。けれど2の段階に至ると無分別智という智慧が手に入り、矛盾律が崩壊する、現実の論理が通用しなくなって、全てが浸透しあっているような言語を絶した風光を見る。3けれどもそこへ留まっていることは小乗的精神である。悟ったあとは、2をバックボーンとして、また1の世界へ戻り、菩薩行を開始する。
僕の信心の体験。仏とも法とも知らなかった。凡夫のまんま。だから疑いもない。けれども求道しているうちに疑いが湧いてくる、止めることができない。そしてあるとき気づく、「このまんま」だ、と。このまんまで救われていた。けれどもそれは最初の仏とも法とも知らなかった時の「このまんま」ではない。疑いを通過した「このまんま」だ。凡夫@から凡夫Aへ移行しただけなのだけれど、なにが違うのかと言えば、「南無阿弥陀仏」を信知したことである。親鸞はよく信心の智慧とか念仏の智慧とかいうが、信心は智慧である。先ほど禅の話をしていたときに出てきた「無分別」を知っている阿弥陀仏が、無分別を衆生に知らせようと思って言葉になったのが「南無阿弥陀仏」である。これを無分別後得智という。
先述のように、禅では
@山は山 川は川
A山は山ではない 川は川ではない
B山は山 川は川
だと言われる
真宗では
@このまんまの凡夫
Aこのまんま=南無阿弥陀仏になれない凡夫
Bこのまんま=南無阿弥陀仏の凡夫
という風に進む。聖道門も、浄土門も、Aをバックボーンにして@に帰るということは共通している。浄土真宗は、如来の無分別後得智=南無阿弥陀仏によって、真の凡夫になれる道である。
このまんまが、このまんまではなくなり、このまんまになる。でも3つ目のこのまんまは最初のこのまんまとは違う。これが仏法なのかもしれない。
このまんま救われている。本当にこのまんま。なんともないこのまんま。凡夫のまんま、しょうもないままで死んでいく。木村無相さんいわく、「信者面するのは色気」だそうだ。
1禅を学ぶ前には、その人にとって山は山であり、川は川であった。
2禅を学びはじめると、もはや山は山ではなく、川は川ではなかった。
3しかし、一度さとりの境地に達するや、ふたたび、山は山となり、川は川となった。
これを分かりやすく解説すると、1凡夫の目にはもちろん山は山であり、川は川である。けれど2の段階に至ると無分別智という智慧が手に入り、矛盾律が崩壊する、現実の論理が通用しなくなって、全てが浸透しあっているような言語を絶した風光を見る。3けれどもそこへ留まっていることは小乗的精神である。悟ったあとは、2をバックボーンとして、また1の世界へ戻り、菩薩行を開始する。
僕の信心の体験。仏とも法とも知らなかった。凡夫のまんま。だから疑いもない。けれども求道しているうちに疑いが湧いてくる、止めることができない。そしてあるとき気づく、「このまんま」だ、と。このまんまで救われていた。けれどもそれは最初の仏とも法とも知らなかった時の「このまんま」ではない。疑いを通過した「このまんま」だ。凡夫@から凡夫Aへ移行しただけなのだけれど、なにが違うのかと言えば、「南無阿弥陀仏」を信知したことである。親鸞はよく信心の智慧とか念仏の智慧とかいうが、信心は智慧である。先ほど禅の話をしていたときに出てきた「無分別」を知っている阿弥陀仏が、無分別を衆生に知らせようと思って言葉になったのが「南無阿弥陀仏」である。これを無分別後得智という。
先述のように、禅では
@山は山 川は川
A山は山ではない 川は川ではない
B山は山 川は川
だと言われる
真宗では
@このまんまの凡夫
Aこのまんま=南無阿弥陀仏になれない凡夫
Bこのまんま=南無阿弥陀仏の凡夫
という風に進む。聖道門も、浄土門も、Aをバックボーンにして@に帰るということは共通している。浄土真宗は、如来の無分別後得智=南無阿弥陀仏によって、真の凡夫になれる道である。
このまんまが、このまんまではなくなり、このまんまになる。でも3つ目のこのまんまは最初のこのまんまとは違う。これが仏法なのかもしれない。
このまんま救われている。本当にこのまんま。なんともないこのまんま。凡夫のまんま、しょうもないままで死んでいく。木村無相さんいわく、「信者面するのは色気」だそうだ。
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