僕は5年ほど独学で哲学をして、哲学に見切りをつけて、仏教を勉強し始めた。哲学は批判と懐疑の歴史であり、「信」というものは出てくる余地がない。最初に学んだテーラワーダ仏教は、カーラーマ経という懐疑的なお経や、釈尊の遺言である「汝自身を灯とせよ」と言う言葉とは裏腹に、歴史上のゴータマ・シッダールタに対する絶大な信頼の上に成り立っていた。けれども無常や無我というのは抗えない事実であり、実際に自分で瞑想して確かめると言う部分では科学的な思考であると思った。瞑想をしていくうちに、経典に書いてあることが自分で確かめられ、「信」が増長していくというシステムらしい。
キリスト教はあまり深く勉強していないが、「信」という事に対してあまり深く考察していないように思える。統一もない。パウル・ティリッヒという最近の神学者は懐疑すらも信仰の一つだ、と言っている。
浄土真宗は「信」というものを多角的に考察していて、例えば信は、他力回向の信心である。弥陀仏から頂く信心である。例えば信は聞である。南無阿弥陀仏と聞いたままが信である。こういう風に明確な定規がある。そして「信」というのは「糊」なのだと思う。清沢満之は、宗教とは有限と無限の一致であると言ったが、その一致させる「糊」が「信」なのだと思う。仏凡一体と言って、信心決定すると、仏の命と凡夫の命が一つになる。や、違う気がする。もともと仏の命と凡夫の命は一つなのだけれど、「疑い」という仕切りで離されている。疑いがなくなれば、「この生死は仏の御いのちなり」ということが自覚される。
僕は哲学している時や、テーラワーダ仏教をしている時、「信」というものをはっきり言って軽蔑していたが、今は「信」こそが「通路」だと思っている。「信」というのは知性や感性ではとらえ切れない、言語化できない、生命の奥の深い部分に眠っているものだ。それを揺さぶって起こすのが如来の本願であり、南無阿弥陀仏という呼びかけなのだと思う。「信」というのは、真理への通路足りうる。