生きてるだけで偉い
「生きてるだけで偉いよ」という言葉に底知れないやるせなさ、無自覚の偽善、現実がそうなっていないことへの諦念を感じる。
現実問題、生きてるだけでは生きていけない。だから社会へコミットする必要がある。百丈懐海という禅僧は「一日不作、一日不食」と言った。
僕は本当に「生きている」だけだ。働いてない。社会のお荷物、フリーライダーだと思う。人に迷惑しかかけてない。だから偉くないのか?
生きてるだけじゃ偉くないけど、偉くなくてもいいよ、というのはどうだろうか?それは「生きてるだけじゃ価値ないよ」と言ってくる社会へのアンチにしかならない気がする。憎悪、復讐の匂いがする。
社会は「生きてるだけじゃ価値がない」というメッセージを絶えず突き付けてくる。僕はそれをもう痛いほど知っている。9年間引きこもって来て、何度「死ね」「働け」「屑」などと言われてきたか分からない。
獲物を獲得できない欠陥品のハンターは、原始時代に、それこそ本当に生きてる価値がなかっただろう。仲間にボコボコにされたと思う。自分達の生死に関わるのだから。根本のところで、動物を狩れない人間は、「価値」がない。
動物を狩れない人間は価値がない。それはそう。それは認めるしかない。みんな動物を狩れなくなったら人類は絶滅するのだから。けれども現実問題、障害や病気などで動物を狩れない人間はいる。社会はそういう人間に向かって「死ねよ働け屑」と言う。僕の見てきた事例では、社会のそういう価値観を内面化して、自分のうちの社会的自我が、自分を責め立てていることが多かったように思う。働かなきゃいけない、と物凄く焦る躁うつ病の患者や、何もできないから死にたいと絶望している精神病者を見てきた。
僕は何度も書いているが、認知療法、瞑想、信仰、が幸福のキーだと思う。急に信仰の話をするが、「そのままでいいよ、ずっと側にいるよ」という「南無阿弥陀仏」には、欺瞞ではない「生きてるだけでいいよ」があるように思う。信仰が嫌いな人は認知療法や瞑想で自己肯定感をあげればいいが、それはいわゆる自力聖道門なのだと思う。僕は、世間の人がいう「生きてるだけで偉い」というのは欺瞞の偽善だと思う。阿弥陀仏の言う「あなたは生きてるだけで命が輝いてる」という言葉だけが、本当に自分の心に突き刺さり、命を輝かせて、そのままで、欠陥品のまんま、喜んで生きていける世界を開かせてくれると思う。
現実問題、生きてるだけでは生きていけない。だから社会へコミットする必要がある。百丈懐海という禅僧は「一日不作、一日不食」と言った。
僕は本当に「生きている」だけだ。働いてない。社会のお荷物、フリーライダーだと思う。人に迷惑しかかけてない。だから偉くないのか?
生きてるだけじゃ偉くないけど、偉くなくてもいいよ、というのはどうだろうか?それは「生きてるだけじゃ価値ないよ」と言ってくる社会へのアンチにしかならない気がする。憎悪、復讐の匂いがする。
社会は「生きてるだけじゃ価値がない」というメッセージを絶えず突き付けてくる。僕はそれをもう痛いほど知っている。9年間引きこもって来て、何度「死ね」「働け」「屑」などと言われてきたか分からない。
獲物を獲得できない欠陥品のハンターは、原始時代に、それこそ本当に生きてる価値がなかっただろう。仲間にボコボコにされたと思う。自分達の生死に関わるのだから。根本のところで、動物を狩れない人間は、「価値」がない。
動物を狩れない人間は価値がない。それはそう。それは認めるしかない。みんな動物を狩れなくなったら人類は絶滅するのだから。けれども現実問題、障害や病気などで動物を狩れない人間はいる。社会はそういう人間に向かって「死ねよ働け屑」と言う。僕の見てきた事例では、社会のそういう価値観を内面化して、自分のうちの社会的自我が、自分を責め立てていることが多かったように思う。働かなきゃいけない、と物凄く焦る躁うつ病の患者や、何もできないから死にたいと絶望している精神病者を見てきた。
僕は何度も書いているが、認知療法、瞑想、信仰、が幸福のキーだと思う。急に信仰の話をするが、「そのままでいいよ、ずっと側にいるよ」という「南無阿弥陀仏」には、欺瞞ではない「生きてるだけでいいよ」があるように思う。信仰が嫌いな人は認知療法や瞑想で自己肯定感をあげればいいが、それはいわゆる自力聖道門なのだと思う。僕は、世間の人がいう「生きてるだけで偉い」というのは欺瞞の偽善だと思う。阿弥陀仏の言う「あなたは生きてるだけで命が輝いてる」という言葉だけが、本当に自分の心に突き刺さり、命を輝かせて、そのままで、欠陥品のまんま、喜んで生きていける世界を開かせてくれると思う。
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