心臓 墓場
ツァラトゥストラかく語りきの中で、ニーチェは精神よりも肉体を重視する思想をツァラトゥストラに語らせている。けれどもそれは肉体の欲望を肯定するための作戦だ。精神よりも肉体のほうが根本だとする視線は僕もその通りだと思う。この「意識」がなんなのかは未だに謎だけれど、この「意識」が「自分そのもの」と思ってしまう思い込みはよくない。その「肉体」がどこから来ているかという視点はニーチェにはなかった。
僕の身体は、一から十まで僕のものではない。父親の精子と母親の卵子が合体して、そこに母親から栄養が送られ、3キログラムぐらいの物体として出産される。この時の「僕」は一から十までへその緒を伝わって送られる母親の栄養によって出来ている。乳児期は一から十まで母親の乳からできている。モノを食べるようになると、有機物、つまり他の命で一から十までできている。米や肉や魚が僕の身体の「100パーセント」を占めている。僕の身体の情報、つまり遺伝子も最初の生命からずっと繋がってきたもので、「100パーセント」僕のものはない。
僕の身体は僕のものではない。他の命で出来ている。他の命は、死にたくないのに僕のために死んだ。僕の身体とは、他の生命の墓場ではないのか。僕とは、動く墓場だ。
僕は他の生命の墓場だ。鶏、牛、豚、魚、米、野菜。それを僕の「精神」のいう「死にたい」で殺してしまっていいのか。墓石を蹴ってもいいのか。生命の「墓場」は心臓を打っている。僕はこれが根本だと思う。人間とは、心臓が鼓動を打つ墓場だ。だから「精神」の意志で、勝手に死んではいけない。墓石を蹴ってはいけない。
命と死の混濁した墓場で、一つの心臓が鼓動を打っている。これ以上の神秘主義を、僕は知らない。
僕の身体は、一から十まで僕のものではない。父親の精子と母親の卵子が合体して、そこに母親から栄養が送られ、3キログラムぐらいの物体として出産される。この時の「僕」は一から十までへその緒を伝わって送られる母親の栄養によって出来ている。乳児期は一から十まで母親の乳からできている。モノを食べるようになると、有機物、つまり他の命で一から十までできている。米や肉や魚が僕の身体の「100パーセント」を占めている。僕の身体の情報、つまり遺伝子も最初の生命からずっと繋がってきたもので、「100パーセント」僕のものはない。
僕の身体は僕のものではない。他の命で出来ている。他の命は、死にたくないのに僕のために死んだ。僕の身体とは、他の生命の墓場ではないのか。僕とは、動く墓場だ。
僕は他の生命の墓場だ。鶏、牛、豚、魚、米、野菜。それを僕の「精神」のいう「死にたい」で殺してしまっていいのか。墓石を蹴ってもいいのか。生命の「墓場」は心臓を打っている。僕はこれが根本だと思う。人間とは、心臓が鼓動を打つ墓場だ。だから「精神」の意志で、勝手に死んではいけない。墓石を蹴ってはいけない。
命と死の混濁した墓場で、一つの心臓が鼓動を打っている。これ以上の神秘主義を、僕は知らない。
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