浄土真宗の非宗教性
浄土真宗はもちろん宗教だ。けれど、ここで宗教の定義を「religion」ということにしよう。
なぜこんな記事を書いているかというと、宗教のことを「虚構主義」だと言っている反出生主義者がいたからである。浄土真宗は虚構主義ではない。
僕の好きな歌にこういうのがある。「願海は 信ずるでなし聞くでなし ただ名号の響き渡れり」これを少し説明すると、「信心」とは「信じる」ことではなくて、ただ口から「南無阿弥陀仏」が世界に響いている状態。そのことを信心という。
安心小話という書物にこういう言葉がある。
「又いわく。仰せで安心せよ。仰せを聞いて、それを我が機へもどして安心しようというのは、深く弥陀をたのんだのでない。仰せだけで安心して仕舞うのが、ふかく弥陀をたのんだのじゃ。」
これも説明が必要だと思う。仰せというのは、人の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」である。「我が機」というのは自分の心という意味で、「仰せだけで安心して仕舞う」というのは、「お前を助けるぞと聞こえたな、よし、これでおれの往生は安心だな」と自分の心へ仰せを入れるのではなくて、ただ耳に仰せを聞くだけで、心には何も入れずに安心しろという意味である。
僕は信心をまだ得ていないけれど、ニセ信心は得たことがある。その時は、本当に「心の中」は空っぽだった。ただ自分の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に「ああ、ありがたいな」と思うだけだった。「心の中」に何も打ち立てるものがない。これを聞即信という。浄土真宗というのは「南無阿弥陀仏」を称えて聞くだけで、それ以上でもそれ以下でもない。何も信じるものはない。
むしろ、反出生主義のようなものこそreligionに思える。この言葉の原義は「結び付ける」という意味らしい。「堅く守るもの、魂を打ち込んでいるもの」自分達の「出生は悪」という教義を固く固く「心の中」に入れて、それを信じ込んでいる。言葉という虚構で作った言説をあたかも真理のように信じ込んでいる。
僕には反出生主義という、言語で作った積み木のほうが、虚構主義に思える。
宗教、(特定の)宗教、宗旨、…教、信心、信仰、(カトリックの)修道生活、(信仰のように)堅く守るもの、魂を打ち込んでいるもの
なぜこんな記事を書いているかというと、宗教のことを「虚構主義」だと言っている反出生主義者がいたからである。浄土真宗は虚構主義ではない。
僕の好きな歌にこういうのがある。「願海は 信ずるでなし聞くでなし ただ名号の響き渡れり」これを少し説明すると、「信心」とは「信じる」ことではなくて、ただ口から「南無阿弥陀仏」が世界に響いている状態。そのことを信心という。
安心小話という書物にこういう言葉がある。
「又いわく。仰せで安心せよ。仰せを聞いて、それを我が機へもどして安心しようというのは、深く弥陀をたのんだのでない。仰せだけで安心して仕舞うのが、ふかく弥陀をたのんだのじゃ。」
これも説明が必要だと思う。仰せというのは、人の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」である。「我が機」というのは自分の心という意味で、「仰せだけで安心して仕舞う」というのは、「お前を助けるぞと聞こえたな、よし、これでおれの往生は安心だな」と自分の心へ仰せを入れるのではなくて、ただ耳に仰せを聞くだけで、心には何も入れずに安心しろという意味である。
僕は信心をまだ得ていないけれど、ニセ信心は得たことがある。その時は、本当に「心の中」は空っぽだった。ただ自分の口から出る「南無阿弥陀仏(お前を助けるぞ)」に「ああ、ありがたいな」と思うだけだった。「心の中」に何も打ち立てるものがない。これを聞即信という。浄土真宗というのは「南無阿弥陀仏」を称えて聞くだけで、それ以上でもそれ以下でもない。何も信じるものはない。
むしろ、反出生主義のようなものこそreligionに思える。この言葉の原義は「結び付ける」という意味らしい。「堅く守るもの、魂を打ち込んでいるもの」自分達の「出生は悪」という教義を固く固く「心の中」に入れて、それを信じ込んでいる。言葉という虚構で作った言説をあたかも真理のように信じ込んでいる。
僕には反出生主義という、言語で作った積み木のほうが、虚構主義に思える。
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