自然美
死んだ母親にこういう話をされたことがある。「中学生の頃、先生に「机の上に花を置いて毎日見なさい」と言われたことがある。その時は意味が分からなかったけど、この年になったらその意味がよくわかる。」僕もよく分かるよ。
鎌倉時代の、明恵上人だったか、解脱上人だったか忘れたけれど、道端に咲いている小さな花に合掌をして拝んでいたらしい。その花は仏であると。
概念的な話をすると、悟りを開いた釈尊の目には、一切衆生が成道して見えたらしいし、浄土真宗では信心を頂くとみんな仏の子に見えるので、自然がより「宗教的」になる。ただ僕はこういう風に「説明」をしても、何か物足りなさを感じる。
僕は植物が好きだ。花が好きだ。最近は花を見るだけで泣きそうになる。「あぁ、生きてる」と思う。僕の命と白い花の命が交差して、「あぁ、生きてる」という感情が生まれる。最近僕は論理哲学論考という本を読んだのだけれど、それに啓発されて「ゆるやかな神秘主義」という言葉を作った。本当は「神秘」という言葉ではなく「不思議」という言葉を使いたいのだけれど、まあどっちも意味は同じで「言葉にできない」ということだ。これを言葉にするのが詩人なんだろうけれど、詩人の排泄物を見るよりも、目の前にある百合の花を見たほうが何倍も魂が打ち震える。僕はこれはなんなんだろう、と思っていたけれど、「あ、これ"美"だな」と最近思った。ショーペンハウアーは美を「生きようとする意志を静めるもの」だと言ったが、そんなことはないと思う。少なくとも僕は自然美を見ると、「いのち」が踊りだす。僕は今まで概念の世界だけで生きてきたけれど、「美」というものも追及しなければならないなあと思った。美というのは主観的な体験だけれど、それを普遍化して、森岡正博の言葉を使えば「誕生肯定の哲学」のようなものを作るのは可能なんじゃないかと思う。
美、なんて、快楽主義的なものだと思っていたけれど、「深み」があるのかもしれない。地元の海を見るとそう思う。海は限りなく深い。みんな、花を見て、「あ、生きてる、嬉しい。」と思えればいい。
鎌倉時代の、明恵上人だったか、解脱上人だったか忘れたけれど、道端に咲いている小さな花に合掌をして拝んでいたらしい。その花は仏であると。
概念的な話をすると、悟りを開いた釈尊の目には、一切衆生が成道して見えたらしいし、浄土真宗では信心を頂くとみんな仏の子に見えるので、自然がより「宗教的」になる。ただ僕はこういう風に「説明」をしても、何か物足りなさを感じる。
僕は植物が好きだ。花が好きだ。最近は花を見るだけで泣きそうになる。「あぁ、生きてる」と思う。僕の命と白い花の命が交差して、「あぁ、生きてる」という感情が生まれる。最近僕は論理哲学論考という本を読んだのだけれど、それに啓発されて「ゆるやかな神秘主義」という言葉を作った。本当は「神秘」という言葉ではなく「不思議」という言葉を使いたいのだけれど、まあどっちも意味は同じで「言葉にできない」ということだ。これを言葉にするのが詩人なんだろうけれど、詩人の排泄物を見るよりも、目の前にある百合の花を見たほうが何倍も魂が打ち震える。僕はこれはなんなんだろう、と思っていたけれど、「あ、これ"美"だな」と最近思った。ショーペンハウアーは美を「生きようとする意志を静めるもの」だと言ったが、そんなことはないと思う。少なくとも僕は自然美を見ると、「いのち」が踊りだす。僕は今まで概念の世界だけで生きてきたけれど、「美」というものも追及しなければならないなあと思った。美というのは主観的な体験だけれど、それを普遍化して、森岡正博の言葉を使えば「誕生肯定の哲学」のようなものを作るのは可能なんじゃないかと思う。
美、なんて、快楽主義的なものだと思っていたけれど、「深み」があるのかもしれない。地元の海を見るとそう思う。海は限りなく深い。みんな、花を見て、「あ、生きてる、嬉しい。」と思えればいい。
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