懐疑
世の人は「私は自分しか信じない」という。さて、自分とは何か、分かってる人はいるのだろうか。「自由意志」の存在さえ危うくなってきたこの時代に、本当に「自分」が信じられるだろうか?スピノザは「人間は未だに身体が何をなしうるか知っていない」と言ったが、自分の身体、胃、肺、心臓、白血球、赤血球、脳、遺伝子、これらのものがなにをなしうるのか知っている人がいるのだろうか?自分とは何か?心って存在するのか?感性ってなに?直観とは?理性ってなんだろう?僕は自分のことを何も知らない。信じられるものだとも思わない。僕は僕のしたくないこともする。ダイエットが続かない。アルチュール・ランボーのいうように「「私」とは一人の他者なのです」
上座部仏教の勉強をしているときに、一番魅力的だったのは、苦しみが減ることでもなく、無常を観ずることができることでもなく、預流果という境地に至ると、有身見、戒禁取見、疑が消えると言う面だった。特にこの「疑」が消えるというのが物凄く魅力的だった。ウ・ジョーティカ師の「自由への道」という本へ詳しく書かれているが、瞑想修行をしていると、ある一定の悟りが得られたときに、「釈迦が言ってたことは本当だったんだ!今までは少し疑ってたけど、釈迦の言ってることは実体験できるし、この道を行けば必ず苦を断滅できる!」と「疑」がなくなるらしい。それが死ぬほど羨ましかった。だが僕はその境地に達することができなかった。
本当に頼りになるもの。本当に信用できるもの。聖道門の修行をして、全面的に釈尊に帰依することができれば、それは「大地」を持つことだろう。絶対に崩れない大地。何をしても崩れない大地。懐疑とは、小舟に乗って大海で揺さぶられ、心が不安になっている状態であると思う。「大地」に立たなければならない。
何もかも受け止める堅固な大地を持つこと。これが救いであると僕は思う。
上座部仏教の勉強をしているときに、一番魅力的だったのは、苦しみが減ることでもなく、無常を観ずることができることでもなく、預流果という境地に至ると、有身見、戒禁取見、疑が消えると言う面だった。特にこの「疑」が消えるというのが物凄く魅力的だった。ウ・ジョーティカ師の「自由への道」という本へ詳しく書かれているが、瞑想修行をしていると、ある一定の悟りが得られたときに、「釈迦が言ってたことは本当だったんだ!今までは少し疑ってたけど、釈迦の言ってることは実体験できるし、この道を行けば必ず苦を断滅できる!」と「疑」がなくなるらしい。それが死ぬほど羨ましかった。だが僕はその境地に達することができなかった。
本当に頼りになるもの。本当に信用できるもの。聖道門の修行をして、全面的に釈尊に帰依することができれば、それは「大地」を持つことだろう。絶対に崩れない大地。何をしても崩れない大地。懐疑とは、小舟に乗って大海で揺さぶられ、心が不安になっている状態であると思う。「大地」に立たなければならない。
何もかも受け止める堅固な大地を持つこと。これが救いであると僕は思う。
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