生きてる意味
仏教に「戯論」という言葉がある。仏教によれば、全ての言説は「戯論」である。戯れの論である。人間は言語という眼鏡をかけて世界を見ているが、その眼鏡も「戯論」である。その戯論が寂滅することを「涅槃」という。
生きてる意味は、「言葉の中」にはない。言語を絶した風光を見た人は「意味性」のようなものを体得しているんだろうけれど、そうでなくとも、「言葉の外」に出るのは可能じゃないか。
「沈黙を信じない人は、スタイルだけを信じればいい。」これは原口統三の箴言だが、沈黙にこそ意味があるといえるし、そうでなくともスタイル、文体に意味があるのかもしれない。否定神学みたいな思考方法だけれど、僕は「生きる意味」というのは「理性」や「言語」の外にある「非合理的」なものだと思う。それを一身に担うのが宗教であって、例え宗教を持っていなくとも、通勤中に百合の花がおじぎをしているのを見れば、僕の言っていることが分かるだろう。生きる意味というのは「語る」ものではなくて「示す」ものなのだと思う。語れば語るほど遠ざかる。冷暖自知。
「なぜ世界は無でなくて有なのか?」世界が有の時点で世界は非合理である。カミュは「人間の、狂おしいほどの理解したいという欲望」と「冷徹な世界」の「関係」が「不条理」だと言っていたが、僕は非合理こそが「意味」だと思う。
今、窓の外を見たら、青空に雲がかかっていた。窓際には猫が座っていて、前足を舐めていた。何も「理解」できない。言葉にしても何も分からない。でも世界が「そうなっている」。なぜ?分からない。何も語れない。沢木興道も、「残念じゃが、真理は本の中にはない」と言っていた。
神社を散歩する。神様がいて、アリがいて、近所の子供の落書きがあって、地元の人とすれ違って、念仏して、世界は非合理=意味を分泌する機械だ。
生きてる意味は、「言葉の中」にはない。言語を絶した風光を見た人は「意味性」のようなものを体得しているんだろうけれど、そうでなくとも、「言葉の外」に出るのは可能じゃないか。
「沈黙を信じない人は、スタイルだけを信じればいい。」これは原口統三の箴言だが、沈黙にこそ意味があるといえるし、そうでなくともスタイル、文体に意味があるのかもしれない。否定神学みたいな思考方法だけれど、僕は「生きる意味」というのは「理性」や「言語」の外にある「非合理的」なものだと思う。それを一身に担うのが宗教であって、例え宗教を持っていなくとも、通勤中に百合の花がおじぎをしているのを見れば、僕の言っていることが分かるだろう。生きる意味というのは「語る」ものではなくて「示す」ものなのだと思う。語れば語るほど遠ざかる。冷暖自知。
「なぜ世界は無でなくて有なのか?」世界が有の時点で世界は非合理である。カミュは「人間の、狂おしいほどの理解したいという欲望」と「冷徹な世界」の「関係」が「不条理」だと言っていたが、僕は非合理こそが「意味」だと思う。
今、窓の外を見たら、青空に雲がかかっていた。窓際には猫が座っていて、前足を舐めていた。何も「理解」できない。言葉にしても何も分からない。でも世界が「そうなっている」。なぜ?分からない。何も語れない。沢木興道も、「残念じゃが、真理は本の中にはない」と言っていた。
神社を散歩する。神様がいて、アリがいて、近所の子供の落書きがあって、地元の人とすれ違って、念仏して、世界は非合理=意味を分泌する機械だ。
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