ニーチェはつまらない
最近スピノザやらニーチェやらの「生の哲学」を読んでいる。スピノザは己の体系に否定性、有罪性を認めなかったが、ニーチェは明らかにキリスト教の「生への侮辱」を攻撃している。キリスト教は人間は原罪を持っているという、そしてその原罪はイエス・キリストによって償われた。だが人間は罪深い。懺悔しながら生きなければならない。それがニーチェにとって吐き気をもたらすらしい。
ニーチェは徹底的にこの「生は罪」という思想を攻撃する。生は無垢であり、なんの有罪性もない。償われる必要もない。ニーチェにとって大事なのは「より強く!」であり、偉大な神という妄想と卑小な道徳を守って生きている弱者には吐き気がする。
ニーチェはつまらない。ニーチェ自身がよく説いている「深み」がない。ニーチェは他者の深層心理を見る観察眼に長けているが、自らの思想には全く深みがない。ニーチェは友達の誰かに自分の思想を「精神的貴族主義」と評されて喜んだらしいが、本当にそれだけでしかない。「卑小な道徳を超え、貴族として生きる」
僕は思想の「深み」というのは「否定」の契機がないと現れないと思う。生は素晴らしい!ダ・カーポ!より強く!というのは僕にとってつまらない。退屈ですらある。強くなってどうするんだ。自己満足の哲学じゃないのか。
スピノザの生にも有罪性はない。ただし神はいる。だから好きだ。現世を否定する「べき」だとは言わないけれど、「無責任」の哲学を説くのなら、僕は清沢満之のほうが深いと思う。自らの有罪性についての深い自覚と、それを背負ってくれる如来の存在。
そもそも、生を肯定している人に、思想なんていらないんじゃないか。思想は全て「否定」「攻撃」だ。反出生信仰を見るといい。
ただの否定も、ただの肯定もつまらない。否定を包む肯定。罪を抱擁する如来。
ニーチェから学ぶべきものは、そのつまらない「生信仰」ではなくて、意地の悪い眼光だ。
ニーチェは徹底的にこの「生は罪」という思想を攻撃する。生は無垢であり、なんの有罪性もない。償われる必要もない。ニーチェにとって大事なのは「より強く!」であり、偉大な神という妄想と卑小な道徳を守って生きている弱者には吐き気がする。
ニーチェはつまらない。ニーチェ自身がよく説いている「深み」がない。ニーチェは他者の深層心理を見る観察眼に長けているが、自らの思想には全く深みがない。ニーチェは友達の誰かに自分の思想を「精神的貴族主義」と評されて喜んだらしいが、本当にそれだけでしかない。「卑小な道徳を超え、貴族として生きる」
僕は思想の「深み」というのは「否定」の契機がないと現れないと思う。生は素晴らしい!ダ・カーポ!より強く!というのは僕にとってつまらない。退屈ですらある。強くなってどうするんだ。自己満足の哲学じゃないのか。
スピノザの生にも有罪性はない。ただし神はいる。だから好きだ。現世を否定する「べき」だとは言わないけれど、「無責任」の哲学を説くのなら、僕は清沢満之のほうが深いと思う。自らの有罪性についての深い自覚と、それを背負ってくれる如来の存在。
そもそも、生を肯定している人に、思想なんていらないんじゃないか。思想は全て「否定」「攻撃」だ。反出生信仰を見るといい。
ただの否定も、ただの肯定もつまらない。否定を包む肯定。罪を抱擁する如来。
ニーチェから学ぶべきものは、そのつまらない「生信仰」ではなくて、意地の悪い眼光だ。
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