公案
僕は実存に対する哲学的に一番深い問いは「自殺するべきかどうか」だと思うが、世界に対する一番深い問いは「なぜ無ではなく、何かがあるのか」だと思う。
禅の公案のようなものだ。「両手をうてば声がするが、隻手(片方の手)には何の音があるか」これと同じような問いだ。考えるだけで頭がショートする。
この事実を「不可解」と言って自殺した青年もいるし、同じく「不可解」と言いながら仏智に帰依していった僧もいる。ただこれは世界のこの問いをどの角度から見るかによって、世界に対する態度も変わると思う。
理性によって、理解しようとすれば「不可解」と言いながら自殺するしかないだろう。ただこの「不可解」という言葉を様々に言い換えれば微妙なニュアンスで、世界への視線を変えることができると思う。例えば、不思議。例えば、神秘。
禅の公案は間違いなく宗教的営みだが、この「なぜ無ではなく、何かがあるのか」という合理主義哲学者のライプニッツが提出した問いも、深い意味では宗教的営みだと思う。この絶対的な「分からなさ」。圧倒的な分からなさの前に立つ。神託だと言ってもいいかもしれない。「無ではなく何かがある」というのは「厳粛」「神聖」な事実であり、それだけで世界を荘厳している。
なぜ何かがあるの?分からない。その絶望的な「分からなさ」の前で立ち尽くす。海がある!風がある!猫がいる!花がある!僕がいる!なぜ?分からない。僕はこの「分からなさ」に対する最適解は「合掌」であると思う。
禅の公案のようなものだ。「両手をうてば声がするが、隻手(片方の手)には何の音があるか」これと同じような問いだ。考えるだけで頭がショートする。
この事実を「不可解」と言って自殺した青年もいるし、同じく「不可解」と言いながら仏智に帰依していった僧もいる。ただこれは世界のこの問いをどの角度から見るかによって、世界に対する態度も変わると思う。
理性によって、理解しようとすれば「不可解」と言いながら自殺するしかないだろう。ただこの「不可解」という言葉を様々に言い換えれば微妙なニュアンスで、世界への視線を変えることができると思う。例えば、不思議。例えば、神秘。
禅の公案は間違いなく宗教的営みだが、この「なぜ無ではなく、何かがあるのか」という合理主義哲学者のライプニッツが提出した問いも、深い意味では宗教的営みだと思う。この絶対的な「分からなさ」。圧倒的な分からなさの前に立つ。神託だと言ってもいいかもしれない。「無ではなく何かがある」というのは「厳粛」「神聖」な事実であり、それだけで世界を荘厳している。
なぜ何かがあるの?分からない。その絶望的な「分からなさ」の前で立ち尽くす。海がある!風がある!猫がいる!花がある!僕がいる!なぜ?分からない。僕はこの「分からなさ」に対する最適解は「合掌」であると思う。
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