人生入門

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生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
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信心入門
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詩入門
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小説 結構頻繁に更新します
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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

 たしかこんな話がある。
 釈尊が弟子に、「無常の風はいつ吹くか分かるか」と仰ったときにある弟子は「一か月後でしょうか」「違う」別の弟子は「来週でしょうか」「違う」別の弟子は「明日でしょうか」「違う」別の弟子は「次の呼吸を吸い込んだ時でしょうか」「我が意を得たり」
 人間は、自分は死なないと思っている。僕も思っている。人間が、自分の死に直面すると、今までの価値観が全て崩壊して、絶望の淵に立つ。そんな人間は生きていけないので、「俺は平均寿命までは生きる」という思考を持った人間が生き残って来たんだろう。
 この心をどうするかが問題で、僕は心の奥では「明日も死なずに本を読んでるだろう」と思っているが、死を毎日瞑想することで、「追いつめられること」ができた。哲学者の池田晶子が言っていたが、死は人間にとって一番重要なことなので、それを考えることを抜きにした人生は、本当に虚しい。
 僕が「死」をいくら連呼しても、恐らく生物学的にインプットされた「俺はまだ死なない」に跳ね返される。しかし「俺はまだ死なない」をぶち壊して「俺は近いうちに死ぬ」にしないと、「本当」の人生が見えてこない。ハイデガー風に言うと、死を自覚することで、自分の有限性を自覚することができて、有象無象の可能性を捨てて、本当の自己を生きられるようになる。
 だが「死を自覚すること」など不可能だ。初期仏教に死随観というのがあるが、それは腐っていく死体を毎日観察し続けるという瞑想だ。それぐらいやって、ようやく死を自覚することができる。普通に生きてて死を自覚することなど不可能だ。
 人間は死を自覚しなければならない。ハイデガーもそう言っている。ただ生物学的な防衛反応のせいで、死を自覚することは本当に難しい。壊れない。

 死を本当に自覚できるのって、身近な人の死、ぐらいだろうか。僕の「お前は死ぬ」はどこにも届かない。僕にも届いてない。僕は明日も生きてるだろう、と思っている。VR技術で、死ぬ体験などができるようになることを願う。

 友達に、死は何色か、と聞いたら「真っ白」と答えていた。僕と正反対だった。その友達は宗教嫌いなんだけど、死は救いだと思っている節がある。確かに死が白いならば、救いかもしれない。僕も今は死を光でイメージするようになった。死というのは「色」がある。多分みどり色だという人はいないだろう。青色という人はいるかもしれない。死には色がある。極楽には物凄く心地よい音楽が流れているそうだ。死は楽しい。プラトンやモンテーニュは哲学は死の修練と言っているが、本当の意味で死と仲良くなることが、安心に繋がるのだと思う。死には色があって、音があって、名前もつけたらいいんじゃないか。しーちゃん。
 みんなに死というものを考えて欲しい。あまりにもみんな平然と「生」きている。僕は人に宗教は押し付けないけれど、「死」の押し売りはしたい。
 

選民思想

「自分たちだけが真理を独占しているなんて選民思想でしょ」と言われた。以前ひろゆきがQちゃん牧師に似たようなことを言っていたのを覚えている。
 臼杵和上という僕が尊敬しているお坊さんがいるのだが、「浄土真宗という宗派を立てるのが悪い」と仰っていた。阿弥陀の「無量寿」「無量光」の中に生き物は生きているというのは、宗派に関わらない事実である。イスラム教の人にも阿弥陀の慈悲はかかっているし、キリスト教の人にもかかっているし、禅の人にもかかっているし、無宗教の人にもかかっている。「浄土真宗」が真理を独占しているわけではない。全ての生き物は、無量寿、無量光の中に生きている。それに気づくか気づかないかだけで、真理は世界に充満している。「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」ここでは「念仏の衆生」と言っているが「一声でも念仏をしたものを助ける」というのは「無条件」と同じ意味なので、全ての生き物は阿弥陀の中に生きている。
 キリスト教徒も恐らく同じようなことを言うだろう。全ての人は神の子だと。全ての人は神に愛されていると。真理は独占できない。イスラム教徒も同じようなことを言うだろう。
 ユダヤ教だけは「いつかユダヤ人がめちゃくちゃ栄える国ができる」と信じている選民思想を持っている。まあ好きにしたらいいと思うけど…。
 
 阿弥陀と呼んでもいいよ、ヤハウェと呼んでもいいよ、アッラーと呼んでもいいよ、命、光、慈悲、の中に生きていることは否定できない。その事実は独占できない。全ての人は、僕は祝福されていると思う。それに気づくこと。気づく。「あ、そうだったんだ」と気づく。信仰って、これだけだ。

DIO 支配 愛

「人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる」
名声を手に入れたり 人を支配したり 金もうけをするのも安心するためだ
結婚したり 友人をつくったりするのも安心するためだ
人のために役立つだとか 愛と平和のためにだとか すべて自分を安心させるためだ
安心を求める事こそ人間の目的だ——————DIO

 少年漫画のセリフだけれど、僕は、これはパスカルが言ってもおかしくないセリフだと思う。DIOは圧倒的なカリスマ性で、人間をどんどん「支配」していくが、支配された人間は恐らく安心するんだろう。これは一神教の論理と似ている。キリスト教は少し違うかもしれないがユダヤ教とイスラム教は完全に神の奴隷だ。奴隷になる安心。絶対的な強者に服従する安心。だからDIOの手先はDIOの言いなりになったのだろう。
 仏教でも安心を求めるが、仏教は逆に、全ての支配から解放されて、恐怖から逃れる宗教である。思想という支配、煩悩という支配、そういったものを修行によって捨て去って、「涅槃」と呼ばれる安楽の境地に至る。この世の何もかも諦めれば、怖いもクソもない。

 キリスト教や、浄土真宗は、「愛」によって安心を求める宗教だと思う。キリスト教は少し支配が入ってるかもしれないが、真宗は純粋な愛だ。慈悲は、暖かい。イエスが幼子は天国へ入れるといったように、親の前で、赤ちゃんになって甘えるのがこの辺の宗教だと思う。

 そして全ての宗教に言えることだけれど、究極の恐怖である「死」を克服しているという点で、安心を得ているのだとも思う。目を瞑ったらお浄土だ、天国だ、楽園だ。

 人間は安心を求めて生きる。けれども家族は死ぬし、恋人とは別れるし、盛者必衰の理を現す。安心が欲しい。みんな安心が欲しい。セックスしたい、有名になりたい、結婚したい、子供が欲しい、本が読みたい、賢くなりたい、全ての煩悩の「どん底」には「安心したい」という化け物が巣くっている

 「親様ござる、なんのことないわい」
 
 

死は救済

 つらいことがあると、真昼間からベッドの中に入って、毛布を被り、目を瞑る。そして、心の中で、こう呟く。「僕は明日死ぬ。僕は今夜死ぬ。」死は救済というよりもおそらく清算で、人生の全ての罪を洗い流す一点だ。人生で楽しかったことも悲しかったことも、全てなかったことになる清算で、全ての借金は返済される。
 僕は今夜死ぬ。そう思うと、つらいことも既に清算された気分になって、腹の底から安心する。死、というのは究極の逃走だと思うけれど、逃走した先に、僕の帰る場所があるというのはとても安心する。死、は本来僕がいるべき場所へ行くための通路だ。
 死というのは、清算であり、逃走であり、救済である。本当に安心する。死を瞑想する。他力を瞑想する。

 僕は、今夜自殺する。このクソみたいな人生に、「ありがとうございました」と合掌をしながら。

僕はお母さんに何もできなかった

 第十八願に、五逆罪を犯すものは浄土へ入れないと書いてあるが、五逆罪の中に親を殺すというのがある。僕は親殺しだと思う。
 母親は胃癌でなくなったが、胃がんはストレスが原因のことが多いという。仕事のストレスもあっただろうけど、息子が引きこもって何もしないというのは大きなストレスだったと思う。ある日、親のパソコンの履歴を見ると、「引きこもり 原因」「引きこもり 治し方」などの検索履歴があった。そっとパソコンを閉じた。
 「親は子供が生きてるだけで幸せ」という勝手な論理で、僕は親に何もしなかった。肩もみも会話も何もしなかった。甘えたかったけれど甘えられなかった。喧嘩もしなかった。それでも母親は部屋にご飯を運んでくれた。母親の作るコロッケが一番おいしかった。僕は「ご飯を毎日作ってくれてありがとう」と一回も言えなかった。僕は母親に何もできなかった。
 僕は親殺しだと思う。心配だけかけて、ストレスをかけて、癌にして、殺して、僕のせいでお母さんは死んだ。僕のせいだけじゃないとは思うけれど、お祖母ちゃんにも「〇〇はあんたのことばっか心配しとったけんなあ」と言われた。何もできなくてごめんなさい。
 僕はお母さんに何もできなかった。親孝行、したいときに親はなし、というのは本当だと思う。お母さんはなんでもしてくれたけど、僕は何もしてあげられなかった。僕がこれからできるのは、せめて、宗教的な次元で救うことだと思う。母の日の手紙にも書いたけど、これしか言う言葉がないです。「ありがとう。ごめんなさい。」

虚無

 虚無というのは、一言で言えば「壁」である。絶対に超えられない、どこまでも広がっていて、上は天まで届いている壁である。人は「向こう側」まで行くことができない。どれだけ「向こう側」へ行こうとしても、どれだけテニスボールを壁に投げつけても、テニスボールは手元へ返ってくるだけだ。虚無という壁へ、「なぜ生きる」というボールを投げても、冷たく打ち返されるだけだ。「死にたくない、死なねばならぬ」という根本矛盾が壁である。どれだけ屈強な科学のドリルを持ってきても、論理の爆弾を持ってきても、壁が崩れることはない。
 向こう側へ行く方法が一つだけある。壁をぶち抜く方法が一つだけある。水よく石をうがつ。向こう側からの声を聞き続ける。そうすると壁がぶち抜かれてぶち抜いた水の上に浮かんで、どこへでも行くことができる。

 「死にたくない、死なねばならぬ」という根本矛盾がある。まずはそれに気づくこと。僕は虚無を啓蒙しているが、己の身に引きつけて聞いてもらえたことがない。虚無をぶち破るには、基本的に時間がかかる。けれど僕がいくら「お前は死ぬ、一切は無意味だ」と言っても、「それでいい」と言われる。壁の前で力尽きて、それで終わりでいいならそれでいい。
 47歳で癌になって死んだ母親の「宗教を持ってる人はいいなあ。死ぬのが大丈夫じゃから」という言葉が忘れられない。
 胸の中に根本矛盾を抱えて生きるのは「不自然」だ。生きたいけど、死ぬ、という矛盾を抱えて生きるのは不自然だ。僕は壁がなくなった人生のほうが自然だと思う。

アフォリズム

 僕はアフォリズムが好きだ。ニーチェ、シオラン、パスカル、ロシュフコー、ヴェイユ、芥川…etc。僕は、人生など体系化できるものではないと思っている。その瞬間瞬間に真理があり、真理の伽藍を建立することはできない。拙いけれど、この記事に、思いついたままアフォリズムを書き足していこうと思う。

一、人間は「誠実」に生きなければならないという原罪がある。ただし誠実に生きられる人などいないので、「赦し」が必要となる。

二、己の罪悪に不感症であるのが、一番の病気だ。

三、人生に意味などない、というところから出発していない思想は、全て遊戯にすぎない。

四、「一歩進んだ」のが、「信仰」である。

五、真理は書物の中にはない。ささやかなもの、もしくは無限なものに存在する。

六、自分に自信があると公言する人は、自分のことを見誤っている。

七、不誠実さへの、薬。坐禅、慰め、自殺。

八、真理に従う必要はない。真理が人間に従う。

九、「死者」というのは「まなざし」である。死者は充満する。いい意味でも悪い意味でも。

十、虚無という暗い大海に漂っている人、懐疑という嵐に翻弄されている人は、自分自身から逃れることができない。

十一、人生の意味というのは「他者へ尽くすこと」この一点である。

十二、信仰というのは生きる意味を与えるものではない。生の無意味さへの慰めである。

十三、母親が死んだ時に祖母が言った言葉。「なんでこんなことになってしまったんだろうねえ」それは母親が「産まれた」からだ。

十四、自分は狂っていないと豪語する人が、一番狂っていることがよくある。

十五、ダーウィンの進化論………人間は遺伝子の乗り物である。そして遺伝子に目的はない。この真理を通過していない人間は、唯物論の「恐ろしさ」を十二分にしっていない。ダーウィンの進化論を直視しては、1週間と生きられる人はいないだろう。

十六、引きこもりだけが分かる真理というものもある。孤独は意味を産まないが、価値を産む。

十七、姉に子供が生まれた。これほど明瞭に反出生主義を論駁したものがいただろうか。

十八、人生は死ぬのにも値しないといって、頭を打ちぬいたダダイスト。彼の意識は常に覚醒していた。

十九、ユートピアは、過去か未来にしか存在しない。無邪気なあの頃か、来るべき共産主義。現在はいつも、地獄である。

二十、僕の意識は薬でぼんやりとしている。自殺をするのは、きまって醒めきった人だけだ。「ぼんやり自殺をする」、こいつは恐らく何か企んでいる。

二十一、答えはなかった。正解はなかった。ただ、「声」があった。

二十二、大衆は、終末論的言説を好む。イエスが終末を説いてから、二千年も経っているのに。おそらく、人は、己の死のあとの世界が許せないのだろう。世界との心中。

二十三、畜生は、自分の死ぬことを知らない。この世の大多数の人も、自分の死ぬことを知らない。

二十四、承認欲求というのは「自分が誰なのか教えてくれ」という叫びである。

二十五、「思想」や「科学」にかかずらってはいけない。「死神」というおとぎ話のほうが真理を開いてくれる。

二十六、恥の多い生涯を送ってきました——————過去形ではなく、現在進行形で書くべきである。

二十七、僕が今までの人生でしてきたことと言えば、一つだけ、死ぬ準備である。

二十八、人間は動物に嫉妬を覚えるものだし、動物は植物に、植物は鉱物に嫉妬を覚えるものだ。

二十九、愛は手段ではなく、目的である。人間の道具化から、全ての愛の堕落が始まる。

三十、プラトンは、イデアを垣間見ていたに違いない。恋人を通じてイデアを想起できない恋愛は、堕落している。

三十一、恋愛と道徳と宗教は一致しない。どれか一つしか選ぶことはできない。決断。

三十二、一切は許されている—————誰に?

三十三、「目的」を、「自己」から、他者や神にすげかえる。聖者は、どんな手品を使っていたのか。

三十四、教条主義が狂気であるなら、全ての人間は狂人である。教条を持ってない人間など存在するだろうか。魔女狩りをしていた中世の人と、知性を誇っている現代人とは、何も変わらない。悪の陳腐さ。

三十五、沈黙。それだけが、生きるに値するスタイルだ。ところで、釈迦牟尼の牟尼とは、沈黙を守る人という意味だ。

三十六、恋愛の本質は、想起である。過去だけが永遠であるから。

三十七、自動人形に愛されても、惚れ薬を使った女に愛されても、男は満たされない。相手の「自由」によって愛されるのでなければ。だが、その自由がその男を不安にさせる。「彼を愛さない自由」を女は持っている。お互いの生殺与奪権をいつ使うかが、このゲームの勝敗を決める。

三十八、全人類が有罪、全人類が無罪、どちらかである。いくらかの人間だけが有罪というのはありえない。僕は人類が、全員有罪であるほうに賭ける。なぜなら僕が罪人だから。

三十九、「僕」というのはユークリッド幾何学的な点である。経験的なものではなく、理念的だものだ。内容がなく、あるのは強度の形式である。

四十、当人以外、誰の眼にも触れなかった作品を、僕は「図鑑に載らなかった古代生物」と呼ぶ。図鑑に載れるように頑張っている人たちを、僕は軽蔑した。

四十一、思考は、無限すら内包する。ただそれよりも重要なのは、思考を抱擁する無限である。

四十二、身体は、自分の所有物ではない。身体が自分の所有物であるという幻想から、自殺する権利などという狂気が現れる。首を吊ろうとしている男の心臓は、いつもより速く鼓動をうつ。

四十三、「真理を、女のようなものだと考えてはどうだろう?」というニーチェの誘い。僕は、真理を母のようなものだと考える。

四十四、キルケゴールによれば、絶望を意識していない人が、一番癒されがたい絶望にいる。人間は、限りなく先鋭に絶望を意識するために生まれてきた。すなわち、神を信じるように。

四十五、虚無で酒を醸造する人間は、今すぐ自殺すべきだ。それを矜持と言う。

四十六、信仰にまで至らない絶望は、未熟な絶望である。てっぺんからつま先まで絶望に溺れている人間は、藁を掴む。

四十七、相対主義は、相対主義すら相対化する。相対主義は無限後退する。無限の先にあるものは、神しか知らない。

四十八、思想と洋服は似ている。僕は飾っている人間が一番嫌いだ。

四十九、言葉とは、「鳴き声」である。協力、敵対、誘惑、威嚇…etc。どんなに洗練された言葉でも、全ては動物的なパフォーマンスに過ぎない。

五十、真理に至る2つの道。すなわち、知性と意志。知性は挫折せざるをえない(挫折した数々の哲学者を見よ)。命の拍動こそ、真理に至る唯一の道である。

五十一、この生死は仏の御いのちなり。命の責任を、仏に預ける。自分の人生に無責任でいいというのは、僕にとって大いなる福音である。

五十二、近代の機械論は、アリストテレス的、キリスト教的な目的論を亡きものにした。けれど、究極的な無目的(無功徳!)は、垂直の聖なる次元を開く。

五十三、根拠の根拠は、神と愛だけだ。

五十四、虚無を見つめることは、死を見つめること。死を見つめることは、鏡を見つめること。鏡を見つめることは、自己を見つめること。自己を見つめることは、罪を見つめること。罪を見つめることは、神を見つめること。

五十五、人の見ていないところでする善行、見返りのない善行だけが、僕の潔癖症をかいくぐる。僕は、玄関に散らかっている靴を、誰も見ていないところで揃えることにしている。(もうこれで、全て台無しだ)

五十六、自己の罪悪は、自己だけでは絶対に知られない。

五十七、主義を持つと、人間の魂は汚れる。生活に、主義はいらない。これを無主義主義という。これが人間の救われがたさの一つだ。

五十八、救われがたい人間ほど、救われるべきである。これを大乗仏教では煩悩即菩提という。

五十九、世界を呪うというのは行き過ぎている。世界は呪うのにも値しない。世界は黒ではなく、透明である。

六十、「批評する自分」は一生批評されない。それを苦にして自殺した青年がいるらしい。彼には唯一つ、「赦し」が必要だった。誠実に生きようとする人間は、自殺をするか、赦されるかしかない。

六十一、羞恥というのは、己に対する唯一の健全な認識である。他者のまなざしのうちに自己が開示されるのが羞恥という認識であり、超自然的なまなざしの前で裸になることが、自己を見出すということである。

六十二、小鳥のさえずりに、アスファルトに咲く花に、超自然的なものを感じる。瞬間、命が充満するフィールドへ入る。ああ、生まれてきてよかった。よろず生きとし生けるもの 山河草木吹く風立つ波の音までも 念仏ならずと言ふことなし。

六十三、憧憬というものは、必ず失望を具す。「私が欲しかったのはこんなものだったのか」失望を、絶望を引き起こさない憧憬というのは、超自然的なものへの憧憬だけだ。超自然的なものを手に入れる(手に入れられる)ことだけが、永遠の歓喜を具す。

六十四、人間が睡眠時に夢を見る生き物でなかったら、哲学や宗教は今より薄味だったに違いない。

六十五、傲慢なものほど、死を恐れる。秦の始皇帝は、不死の薬を求めた。エジプト王は、ピラミッドを作った。謙虚なものほど、死を受容する。傲慢なものは、世界から遠い。謙虚なものは、世界に近い。王になってはいけない、神になってはいけない。ブッダになってはいけない。

六十六、知性の真の意義は、知性の限界を知ることである。

六十七、知性の限界を知ったものがすることは、自殺しかない。物理的な自殺。知性的な自殺=信仰。感性的な自殺=不条理への不感症。

六十八、人間が自殺する理由は一つしかない。即ち、自分自身であることの、疲労。

六十九、哲学者を「弁護士」と揶揄したニーチェ。思想を「弁解」だと言い切った原口。彼らはどちらも正しい。思想を持つ前に、思想とは何か?と問うべきである。思想とは、己の道徳の弁護である。思想とは、己の生き方の弁解である。

七十、植物の美徳は「無口」というところだろう。素直で、無口だ。薔薇が自分の美しさを喋りだしたら、魅力は限りなくゼロに近づく。

七十一、僕が神であったら、真っ先に「時間」というものを消してしまうだろうに。

七十二、真理を捕まえたと思っている人々は、自分が真理に掴まれていることを知らない。

七十三、現代人が哲学を嗜む理由は一つしかない。その「妖しさ」だ。

七十四、鈍感さという徳を大いに育てるがいい。それだけがこの世界に耐える唯一の方法なのだから。

七十五、罪がある。人を殺したこともないし、盗みをしたこともない。罪があることだけは分かる。

七十六、既に持っているものを欲望する道、賢者の道。
いまだに持っていないものを欲望する道、勇者の道。
仕向けられたものを欲望する道、愚者の道。
なにも欲望しない道、仏の道。
何を欲望すればいいか分からない道、思春期の道。

七十七、虚無という裁判官に、必死に弁解をしている人間。 悲しい哉、どれだけお喋りをしても、死刑は免れない。

七十八、「専門用語」を作り出す教祖達に幸あれ
造語を作ることは教団を作ることだ。

七十九、すべての詩は、サルの鳴き声の、比喩だ
すべての絵画は、クジャクの羽の、比喩だ

八十、発達心理学は、人間の人生がパロディに過ぎないことを証明しようと試みている

八十一、存在の無根拠性を、習慣というトートロジーで覆い隠すこと、すなわち生活

八十二、僕は呼吸をするのにも理由が必要な人間だった

八十三、言葉を吐く者は全て、母を求める乳児である。という精神分析家の神話は、恐らく正しい。

八十四、人生は、それ自体、悲劇でも喜劇でもない。その事実が悲劇的である。

八十五、最も荘厳な場面で、卑猥な言葉を絶叫すること。これが自意識である。

八十六、無垢な赤子の純粋な戯れ、などという幻想は捨てるべきだ。赤子は常に飢えて泣いているではないか

八十七、人生とはなぜかくも悲しいのだろう と書く者の満足気な表情 読む者の安心感

八十八、全ては(任意の言葉を入力)である

八十九、天井にいる、顔のように見える、木目模様が、明朗さの混じった悪意を吐き出す
「お前は死ぬ」

九十、孤独の「効用」「価値」「優越」を説く者は、芯からの寂しがりだということは明白ではないか?
真の信仰者は、自分の信仰を説明しないものだ

九十一、「詠み人知らず」それだけが尊敬に値する「名前」だ。

九十二、あらゆる言葉の「祈り」的性質。コンクリートが屹立する世界で、祈りは誰にも届かない。ここに「孤独」の深い意味がある。

九十三、全ての愛は「南無阿弥陀仏」の翻訳である。

人間の演劇的構造

 演劇には3つの要素がある。役者、役柄、観客。
 役者とは何か?役者とは人間である。人間とは何か?人間とは、煩悩である。欲しい、可愛い、憎い、好き、嫌い、ウザい、憎い、が人間である。役者とは欲望と言ってもいい。「中の人」は欲望である。
 役柄とは何か?仮面である。欲望を糊塗して他人に提出することである。人間の根源的煩悩は、社会には絶対受け入れられない。先生の前では生徒になる、恋人の前ではかっこつける、親の前では子供になる。
 
 そして観客。この観客がいる人間といない人間がいる。「自己」という演劇を見ている観客が脳内にいる人。「自己」という演劇を外から批評する人。一番外部にいる人。自己を公正に批評することは不可能なのだけれど、観客は批評する。批評することによって、「役柄」の無媒介性がなくなる。「役柄」は「素直」といった性格をなくし、「見られる」ことによって変質する。「役柄」は宙に浮いたものとなり、下には虚無が覗いている。
 観客がいない人間は幸福だ。観客がいる人間は不幸だ。自分が芝居をしていると自覚している人間は、「生きづらい」。

信仰とは何か

 白いひげをはやしたお爺さんという「観念」を、実在すると「思い込む」のが信仰だと思ってる人が多いんじゃないか。
 僕は信仰というのは、愛が心の中にぶち込んで来ることだと思う。自分の心の中には、他者は絶対に入ってこれない。どれだけ愛し合ってる男女でも、どれだけ子煩悩の母親でも、他人の心の中には絶対に入れない。だから人間は根本的に孤独だ。
 信仰というのは何かイメージの観念の実在を思い込むことではなくて、愛が心をぶち破って入ってくることだ。その愛のことを阿弥陀仏とかイエスキリストとか言うんだろう。だからそれらは目に見えない。愛そのものだから。慈悲そのものだから。
 「信じる」という言葉が悪いとも思う。宇宙に充満している愛が「疑い」をぶち破って心の中に入ってくる。その時人間は本当に癒えるんだろう。
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