死
たしかこんな話がある。
釈尊が弟子に、「無常の風はいつ吹くか分かるか」と仰ったときにある弟子は「一か月後でしょうか」「違う」別の弟子は「来週でしょうか」「違う」別の弟子は「明日でしょうか」「違う」別の弟子は「次の呼吸を吸い込んだ時でしょうか」「我が意を得たり」
人間は、自分は死なないと思っている。僕も思っている。人間が、自分の死に直面すると、今までの価値観が全て崩壊して、絶望の淵に立つ。そんな人間は生きていけないので、「俺は平均寿命までは生きる」という思考を持った人間が生き残って来たんだろう。
この心をどうするかが問題で、僕は心の奥では「明日も死なずに本を読んでるだろう」と思っているが、死を毎日瞑想することで、「追いつめられること」ができた。哲学者の池田晶子が言っていたが、死は人間にとって一番重要なことなので、それを考えることを抜きにした人生は、本当に虚しい。
僕が「死」をいくら連呼しても、恐らく生物学的にインプットされた「俺はまだ死なない」に跳ね返される。しかし「俺はまだ死なない」をぶち壊して「俺は近いうちに死ぬ」にしないと、「本当」の人生が見えてこない。ハイデガー風に言うと、死を自覚することで、自分の有限性を自覚することができて、有象無象の可能性を捨てて、本当の自己を生きられるようになる。
だが「死を自覚すること」など不可能だ。初期仏教に死随観というのがあるが、それは腐っていく死体を毎日観察し続けるという瞑想だ。それぐらいやって、ようやく死を自覚することができる。普通に生きてて死を自覚することなど不可能だ。
人間は死を自覚しなければならない。ハイデガーもそう言っている。ただ生物学的な防衛反応のせいで、死を自覚することは本当に難しい。壊れない。
死を本当に自覚できるのって、身近な人の死、ぐらいだろうか。僕の「お前は死ぬ」はどこにも届かない。僕にも届いてない。僕は明日も生きてるだろう、と思っている。VR技術で、死ぬ体験などができるようになることを願う。
友達に、死は何色か、と聞いたら「真っ白」と答えていた。僕と正反対だった。その友達は宗教嫌いなんだけど、死は救いだと思っている節がある。確かに死が白いならば、救いかもしれない。僕も今は死を光でイメージするようになった。死というのは「色」がある。多分みどり色だという人はいないだろう。青色という人はいるかもしれない。死には色がある。極楽には物凄く心地よい音楽が流れているそうだ。死は楽しい。プラトンやモンテーニュは哲学は死の修練と言っているが、本当の意味で死と仲良くなることが、安心に繋がるのだと思う。死には色があって、音があって、名前もつけたらいいんじゃないか。しーちゃん。
みんなに死というものを考えて欲しい。あまりにもみんな平然と「生」きている。僕は人に宗教は押し付けないけれど、「死」の押し売りはしたい。
釈尊が弟子に、「無常の風はいつ吹くか分かるか」と仰ったときにある弟子は「一か月後でしょうか」「違う」別の弟子は「来週でしょうか」「違う」別の弟子は「明日でしょうか」「違う」別の弟子は「次の呼吸を吸い込んだ時でしょうか」「我が意を得たり」
人間は、自分は死なないと思っている。僕も思っている。人間が、自分の死に直面すると、今までの価値観が全て崩壊して、絶望の淵に立つ。そんな人間は生きていけないので、「俺は平均寿命までは生きる」という思考を持った人間が生き残って来たんだろう。
この心をどうするかが問題で、僕は心の奥では「明日も死なずに本を読んでるだろう」と思っているが、死を毎日瞑想することで、「追いつめられること」ができた。哲学者の池田晶子が言っていたが、死は人間にとって一番重要なことなので、それを考えることを抜きにした人生は、本当に虚しい。
僕が「死」をいくら連呼しても、恐らく生物学的にインプットされた「俺はまだ死なない」に跳ね返される。しかし「俺はまだ死なない」をぶち壊して「俺は近いうちに死ぬ」にしないと、「本当」の人生が見えてこない。ハイデガー風に言うと、死を自覚することで、自分の有限性を自覚することができて、有象無象の可能性を捨てて、本当の自己を生きられるようになる。
だが「死を自覚すること」など不可能だ。初期仏教に死随観というのがあるが、それは腐っていく死体を毎日観察し続けるという瞑想だ。それぐらいやって、ようやく死を自覚することができる。普通に生きてて死を自覚することなど不可能だ。
人間は死を自覚しなければならない。ハイデガーもそう言っている。ただ生物学的な防衛反応のせいで、死を自覚することは本当に難しい。壊れない。
死を本当に自覚できるのって、身近な人の死、ぐらいだろうか。僕の「お前は死ぬ」はどこにも届かない。僕にも届いてない。僕は明日も生きてるだろう、と思っている。VR技術で、死ぬ体験などができるようになることを願う。
友達に、死は何色か、と聞いたら「真っ白」と答えていた。僕と正反対だった。その友達は宗教嫌いなんだけど、死は救いだと思っている節がある。確かに死が白いならば、救いかもしれない。僕も今は死を光でイメージするようになった。死というのは「色」がある。多分みどり色だという人はいないだろう。青色という人はいるかもしれない。死には色がある。極楽には物凄く心地よい音楽が流れているそうだ。死は楽しい。プラトンやモンテーニュは哲学は死の修練と言っているが、本当の意味で死と仲良くなることが、安心に繋がるのだと思う。死には色があって、音があって、名前もつけたらいいんじゃないか。しーちゃん。
みんなに死というものを考えて欲しい。あまりにもみんな平然と「生」きている。僕は人に宗教は押し付けないけれど、「死」の押し売りはしたい。