DIO 支配 愛
「人間は誰でも不安や恐怖を克服して安心を得るために生きる」
名声を手に入れたり 人を支配したり 金もうけをするのも安心するためだ
結婚したり 友人をつくったりするのも安心するためだ
人のために役立つだとか 愛と平和のためにだとか すべて自分を安心させるためだ
安心を求める事こそ人間の目的だ——————DIO
少年漫画のセリフだけれど、僕は、これはパスカルが言ってもおかしくないセリフだと思う。DIOは圧倒的なカリスマ性で、人間をどんどん「支配」していくが、支配された人間は恐らく安心するんだろう。これは一神教の論理と似ている。キリスト教は少し違うかもしれないがユダヤ教とイスラム教は完全に神の奴隷だ。奴隷になる安心。絶対的な強者に服従する安心。だからDIOの手先はDIOの言いなりになったのだろう。
仏教でも安心を求めるが、仏教は逆に、全ての支配から解放されて、恐怖から逃れる宗教である。思想という支配、煩悩という支配、そういったものを修行によって捨て去って、「涅槃」と呼ばれる安楽の境地に至る。この世の何もかも諦めれば、怖いもクソもない。
キリスト教や、浄土真宗は、「愛」によって安心を求める宗教だと思う。キリスト教は少し支配が入ってるかもしれないが、真宗は純粋な愛だ。慈悲は、暖かい。イエスが幼子は天国へ入れるといったように、親の前で、赤ちゃんになって甘えるのがこの辺の宗教だと思う。
そして全ての宗教に言えることだけれど、究極の恐怖である「死」を克服しているという点で、安心を得ているのだとも思う。目を瞑ったらお浄土だ、天国だ、楽園だ。
人間は安心を求めて生きる。けれども家族は死ぬし、恋人とは別れるし、盛者必衰の理を現す。安心が欲しい。みんな安心が欲しい。セックスしたい、有名になりたい、結婚したい、子供が欲しい、本が読みたい、賢くなりたい、全ての煩悩の「どん底」には「安心したい」という化け物が巣くっている
「親様ござる、なんのことないわい」
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