会う
人はなんのために生まれてきたの、と念仏者に聞いたら「南無阿弥陀仏に出会うため」と答えるだろう。ということは、逆算すれば人は何かに出会うために生きてるんじゃないか。プチ南無阿弥陀仏に出会うために生きてるんじゃないか。
何に出会うのか。まず思い浮かぶのは人間だろう。法話で、急性白血病で亡くなった10歳の子供が「お母さんに出会うために生まれてきた」と言って死んでいったという話を聞いた。出会いとはそういう性質のもので、生の根源的意味を決めるんじゃないだろうか。
何に出会うんだろう。神社にいる蟻、神様、散歩している人。恋人、家族。仕事、哲学。もちろん出会いには別れがあるが、その自分を通過していくといった過程にも濃密な「意味」があるんじゃないだろうか。
僕のお母さんは死んでしまったけれど、いろんな人に出会った。僕はあえて、お母さんの生まれてきた意味は「僕に出会うため」だと言いたい。
何に出会うかが決定的で、ぼくは「無限なもの」に出会うのが「究極」だと思うけれど、僕の友達は恋人に出会ったり、研究職に出会ったりしている。恋人たちがよくいう「あなたに出会うために生まれてきた」というのが人間の根っこからの叫びなのかもしれない。
阿弥陀経に倶会一処という言葉がある。最終的にみんな浄土で会えるという意味である。あなたは何に出会いましたか。
何に出会うのか。まず思い浮かぶのは人間だろう。法話で、急性白血病で亡くなった10歳の子供が「お母さんに出会うために生まれてきた」と言って死んでいったという話を聞いた。出会いとはそういう性質のもので、生の根源的意味を決めるんじゃないだろうか。
何に出会うんだろう。神社にいる蟻、神様、散歩している人。恋人、家族。仕事、哲学。もちろん出会いには別れがあるが、その自分を通過していくといった過程にも濃密な「意味」があるんじゃないだろうか。
僕のお母さんは死んでしまったけれど、いろんな人に出会った。僕はあえて、お母さんの生まれてきた意味は「僕に出会うため」だと言いたい。
何に出会うかが決定的で、ぼくは「無限なもの」に出会うのが「究極」だと思うけれど、僕の友達は恋人に出会ったり、研究職に出会ったりしている。恋人たちがよくいう「あなたに出会うために生まれてきた」というのが人間の根っこからの叫びなのかもしれない。
阿弥陀経に倶会一処という言葉がある。最終的にみんな浄土で会えるという意味である。あなたは何に出会いましたか。
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