生きる意味
世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。…。それは世界の外になければならない。—————論理哲学論考
生きる意味というのを、理性的に考えすぎていた気がする。例えば阿弥陀仏がいる。「で、それが何になるのだ?」神がいる。「で、それで?」
生きる意味というのを、「濃さ」とか、そういう概念で捉えたほうがいい気がしてきた。そういう意味で、僕は「濃さ」のプロトタイプを「ベッドで恋人と見つめあっている時」だと言いたい。
「意味性」の「濃さ」が「充満」しているときに生きている意味がある。例えば僕がベッドで阿弥陀を念じている時、そこは「世界の外にいる(見えない)他者」と見つめあっている「濃さ」がある。強い濃度がある。
理性は言う。「で、それがなんなのだ?」阿弥陀と見つめあっている僕はこう返すだろう。「これが生きている意味だ。」
夜、ふと空を見上げたときの神秘性。生きている意味とは、語るもの=知性で捉えるものじゃなくて、示すもの=生きることなんじゃないか。生きる意味というのは理性で捉えることのできない「非合理」で、世界の外にいる「非合理」と見つめあうことで「意味」が「供給」されるんじゃないか。僕はまだまだ生きなければならないので、こういう方向で拙い思索を進めたい。
コメントを書く...
Comments