人生入門

人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
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再来年中に読むもの
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原口

眼前には一点も光を含まぬ大海が広がっている。死を連想させるその荒々しい黒さ。僕は今、やっと虚無と和解できたような気がする。こうやって、ぼうっと深夜の海の虚無と語らいながら、僕はいろいろなことを思い出した。僕は丸ごと虚無と化そうとしているのであるから、過去も清算せねばならぬ。この世に借金がある限り、死ぬことはできない。

僕は末っ子として産まれた。その時より僕の運命は決まっていたように思う。僕は赤子のときの記憶をはっきり持っている。お母さん、お母さんの乳ばかり吸っていた。僕が末っ子だったというのは本当に神様のいたずらだろう。僕はお母さんの胸で、百パーセントの愛と安心と曖昧さを味わいつくすことができた。兄たちの嫉視を、快感に換金して、僕は母親の胸を、全て食べつくした。僕はこの時代を幸福だとは呼びたくない。注釈付きでなら幸福と言ってもいいだろう。カギカッコつきの「幸福」だ。僕は甘やかされ過ぎたのだろう。一度も親から叱責を受けたことがない。僕はその時から嘘つきだった。腹も減ってないのに泣き出すことがよくあった。お母さんはまんまと騙されて、僕に、その豊満な乳房を差し出す。神人合一、子宮感情、口唇期固着、なんと言ってもいいが、僕は母親の甘すぎる愛の中で育った。全く甘すぎた。赤子に乳をあげている、銅像を見たことがある。その際、僕は、これは僕の幼児期を端的に表していると感じた。母親の乳房に噛みつきながら、親子でチョコレート塗れになっている僕たち…。僕が青年期になってから甘いものが苦手になったのも無理はない。
母親は僕が地獄へ堕ちないように、手で支えている。絶対的な安らぎ。安心感。僕の半生は、これらに反抗するためだけにあった

大学生活の話をしよう。僕には実際、この二つしか人生というものがないのだ。安心と虚無の間、チョコレートとナイフの間にあった期間は、僕にとって人生と呼べるものではなかった。中途半端で、生きる価値のない時間だった。
大学生になった僕は、詩を書くようになった。友人からも天性の詩人と言われ、僕は自分は詩を書くために生まれてきたのだと思った。僕はまだその頃安心と怯懦の中にいた。僕が「回心」したのは、先輩から聞いた、この言葉だった。
「君、ランボーこそ、男の中の男だよ」
僕の中で何かが弾けた。僕の心の中にあった、オアシスが全て枯れ、森が全て砂漠になってしまったようだった。頭が沸騰し、興奮し、あるいは勃起していたかもしれない。詩に回れ右をして立ち去ったランボー。僕は恥じた。己の虚栄心、怯懦、安逸を恥じた。パンパンに膨れ上がった風船ガムが割れる音がした。僕はこのとき割れたのだ。
 「君、ランボーこそ、男の中の男だよ」
という言葉によって、僕の「幸福」はご破算になったのだ。「男の中の男」によって僕の「幸福」に生えている木々は斧によって全てなぎ倒され、花畑は荒らされ、僕の精神は赤茶けたものになってしまった。砂漠。母親から貰った母乳は全て枯れてしまった。僕はもうこの時、死を決めたと言ってもいい。この時から、僕の公理は「純潔」であり、人生に回れ右をして立ち去ることだったのだから。
脳内のレコードを蓄音機に入れてみる。橋本とカフェで議論をしたときのことだ。
「君、君、僕が言っているのは思想ではないんだよ、もう現代に思想というものは死んでいるんだ。ただ、政治があるだけなんだ。だから自己主張をしようとするものは、政治力を持たねばならない。現代はソフィストの時代なんだ。そして僕は、ソフィスト中のソフィストと言ってもいいだろうね。自分の言っていることすら信じていないのだから。ただ、明確な敵は存在する。それは虚無、そして安心と幸福だ。それは分かるね、分かるね。そして思想で武装することはできないんだ。僕はもう自分の肌の感覚しか信じることしかできないんだ。」
「けれどもそれはニーチェ主義じゃないのかい。無思想といった思想という意味では原始仏教とも似ている。君は思想を持っているよ。主義すら持っている。無主義という主義をね」
「君、その言葉すら反転できるのだよ、僕は。俺は無主義主義だ!と叫ぶこともできるし、主義なんて言葉の綾だと言うこともできる。思想とは、表現なんだ。そして表現は無限にあるんだ。表現の可能性だけ、思想がある。ということはとある思想イコール表現の、全く逆さまの思想イコール表現も当然ありうるということになるね。そしてね、僕が肌の感覚と言ったのは身体的な意味ではないんだ。これは僕の発明した言葉なんだけれど、僕には「精神の肉体」がある。こいつはいつも眼をギョロギョロさせて、獲物を見つけようとしている。ある思想があると、そいつをトッ捕まえて、「批評」をしてしまうんだ、そいつは。そしてその思想をこねて団子にすることもできるし、反転させて爆殺することもできる。分かるね、つまりね、僕の精神の王座には「精神の肉体」が鎮座していて、全ての主義主張を冷笑することもできるし、さも着こなすこともできるし、自由自在なんだ。そしてね、僕は自殺すると言っただろう?それはこの精神の肉体を殺すためなんだ。だってね、卑怯じゃないか?自分は何もせずに座っているだけ、そして他者を、言葉を、思想を、冷笑して、着こなして、飽きたら捨てて、こねて、バラバラにして、煮込んで…。卑怯だ!僕は誠実に生きたいんだ。そのためには死も辞さない。生命より誠実さのほうが僕にとっては重要なんだ。これは思想じゃない。「徳」の話だ。」
「君は少し、青年特有の自意識過剰に陥っているんじゃないかと僕は思うよ。その、精神の肉体?だっけ?それが自由自在で卑怯だというのも、君がまだ、青年で、確固としたアイデンティティを確立していないからだと思うんだ。君は大学で教養をつけ、社会へ出ていくだろう。そして君はなんらかの役割を押し付けられる。精神の肉体は、その役割を着るまでは自由自在だが、一度家族でも持ってみなよ、君は精神の肉体ではなく、父親だぜ。」
「そうじゃないんだ、そうじゃない。否定してばかりで申し訳ないが、そうじゃないんだ。自意識は、必然性と妥協しないんだ。そしてそれが僕の唯一の行動原理なんだ。荘厳な場所、例えば葬式で卑猥な言葉を絶叫すること、これが自意識なんだ。精神の肉体なんだ。僕は今から、全裸になって、カフェの中でオナニーをすることもできる。」
「じゃあしてみろよ、できないじゃないか。それが必然性に妥協しているということだよ」
「いいだろう、してやる。」
と言って、僕はジャンパーを脱いだ。その時点では橋本はまだハッタリだと思っていたらしい。上着を脱いで、下着を脱いで、上裸になった。そしてズボンを脱いで、パンツ一丁になったところで、橋本が止めに入った。
 「君は少し頭がおかしいんじゃないか?失恋でもしたのか?荒れすぎだよ」
「言っただろう、僕はいずれ死ぬ男だ」

海が風にさらわれる音がする。精神の肉体は自分で自分を持ち上げられないのだ。自分の眼を自分で見ることはできないのだ。他者だけを裁き、己については盲目というのは、端的に卑怯だ。そしてそれは人間の根本構造なんだ。キリスト教ではそれを原罪と言い、仏教では無明という。しかし僕に救済はない。救済というのは、他者に己を許してもらうことだ。それは他人が自己に介入することを許容することだ。僕は許容を憎む。なぜなら許容は許容を生むからだ。

 海は、青くても黒くても、お母さんの乳房を思い出させる。僕はいずれ死ぬ男だ…。

 誠実さ、誠実さの切っ先が僕の心臓に向かう。僕は生きすぎた。僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
 沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。

ハリボテ

火花は哲学の研究室から発火した。その火花は世界中の哲学オタクしか夢中にさせることはなかったが、徐々に世界を大渦に巻き込んでいった。それというのも、「本物の世界」があることが、証明されてしまったのだ。その証明のどこにも穴はなく、誰が見つけたのか分からない原理は、水が石を穿つように、世界に広がっていった。そして、その原理は、なんと「科学者」にも実証されてしまった。科学者が証明してしまうと、もう世界はあとには引けなくなった。哲学に関心のない日本にも「本物の世界」がある、というニュースがお茶の間に流れ、流通し、誰一人知らぬものはいないという状況になったのである。市井の人々は、それを福音だとも黙示録だとも考えなかった。神学者と哲学者だけが、喧々諤々の議論を戦わし、僕は今日もこの街で生きている。
僕がそのニュースを知ったのは、SNSからだった。【悲報】この世界、偽物だった、という記事をタップしてみると、ノーベル賞を貰っているような科学者が、これは世界がひっくり返るようなことです、とインタビューで答えていた。本当に悲報らしかった。難しい数式などは僕には分からなかったが、パラレルワールドといったものとも違うらしい、「本物の世界」がどこかにあることが証明されたらしい。それはプラトンという哲学者(僕は哲学という言葉を聞くだけでも嫌になる)が提唱したイデア界(哲学者は専門用語を使うから嫌いだ)というものによく似ているらしい。ふんふんと読んでその次の記事をタップした。また芸能人が不倫したらしい。夕飯時に、テレビを見ていると、なんとテレビにお坊さんが出ていた。浄土真宗という宗派のお坊さんで、仏教は元々この世は幻想だと説くとか、「本物の世界」とは極楽浄土だとか真如だということを言っていた。僕はさっぱり分からずに、チャンネルを変えて、歌番組を見た。

次の日の高校の教室は、いつもより二割ほどざわめいていた。席につくと、いつものように親友の翔太が駄弁りにやってくる。
「なあ、見たか?この世は偽物です、っつーニュース。」
「ああ、見たよ。でも僕には難しくて良く分からなかった」
「お前は馬鹿だなあ、この世は偽物なんだって」と翔太は少し語気を荒げて言う。
「だから、それが分からないんだよ。昨日と今日で、何か変わったか?何も変わらないじゃないか。本物の世界って言ったって、この世界が何も変わらないなら桃太郎と変わんないよ」
と自分で言いながら、そうだろうか?と自分の中で反問した。この翔太が偽物なら、僕は一体誰と喋っているんだ?そもそも僕が偽物なら、本物の僕はどこにいるんだ?しかし、「昨日と今日とで何も変わらないじゃないか」という自分の言葉を反芻し、僕は心に浮かんだ曇天を晴らそうとした。けれどもたちまち暗雲がたちこめ、僕はなんだか薄気味悪い気分になるのだった。
ホームルームでは、ニュースのことは気にしないで、受験勉強に集中しましょうという旨のことが言われた。大人たちが僕たちに何か隠しているようで、余計しゃくだった。十分休憩になると、また翔太と議論した。
「つまりな、この世界は偽物なんだ。それはさっき聞いたって顔してるな。偽物で何が困るんだっていう顔もしてるな。何も困らないよ。このまま日常が続いていくだけさ。でもな。偽物っていう概念は、本物という概念があってこそ成り立つんだ。」
ふんふんと僕は翔太の話を黙って聞いていた。あとから知ったのだけれど翔太の話は全てネットの受け売りだったらしいが。
「だから、人間とかだけじゃなくて、概念とかも、全部偽物になっちまうんだ。例えば、友情とかな」と言って翔太はこっちの方をチラっと見た。僕の意見を求めているようだった。
「例え僕たちの友情が偽物だったとしても、僕たちは友達じゃないか。それは変わらないだろう?僕たちは現に友達で、こうやって教室で話してるじゃないか。」
「その友達っていう概念も偽物なんだ。俺たちは「本物の世界」を知ることはできないが、きっとそこでの友情はもっと劇的なものなんだろうよ」と翔太は投げやりに言う。
「でもその「本物の世界」が僕たちに認識できない限り、本物と偽物を比べることはできないんじゃないか?」
「認識はできないけど、証明されたってのが問題なんだよ。イデアの問題なんだよ。」
「イデアってなに?」
「本物ってことさ」
僕にはまだ、何が問題なのかピンと来てなかった。僕たちは産まれてから十八年間この世界で生きてきて、なんの問題もなかったじゃないか。本物の世界が発見されたからって、日常の何が変わるのだろう?

放課後、一人で東京を歩いてみる。人類のめざましい発展の象徴であるビル群が立ち並んでいる。これらの人類の歴史の堆積も偽物だったのだろうか?頭の中で翔太の声がする。
「歴史のイデアがあるんだよ」無言で立ち並んでいるビル群を僕は眼で触るように見ながら歩く。「本物の世界」があるとしたら、この灰色の屹立した物体とは別の物が見えるんだろうか。「本物の世界」を一目見てみたいと思ったが、ビルを触りながら、この手触りが偽物であることがあるだろうか?と不思議に思った。だって、僕は今このビルの手触り、コンクリートのごつごつしてざらざらした感覚を感じているじゃないか、これは事実ではないだろうか?僕の手のひらと、ビルの間にあるこの言語化できない感覚、これは偽物なのだろうか?偽物の本物なのか?いや、本物の偽物なのか。頭がこんがらがってきた。僕は考えるのをやめて、帰途についた。

 母親が妙によそよそしかった。「あんたなんて偽物の息子なのよ!」とでも言われると思ったが、さすがにそんなことは言われなかった。昼のワイドショーを見て、この気が沈む新思想をさぞ吸い込んだのだろう。しきりに自分の手のひらを眺めていた。僕はその手のひらを新奇な眼で見るという行為を、学校の人間や道ゆく人がしていたのを思い出した。手は身体のうちでも一番自由がきき、人体の要になる場所だ。僕は人々が偽物という概念と戦っているのをただ見ていた。「本物の世界」から溢れる光は、確実に僕たちを蝕んでいた。「本物の世界」から放射される光は、僕たちを全て影の如きものにしてしまうのだ。
胸騒ぎがする。脆い人間は、この耐えがたき思想をかわせるのだろうか。この思想は人をニヒルに引っ張っていく力があるのではないだろうか。「本物の世界」と「虚無」との間の、どこに僕たちは位置するのだろうか。人々はみな、僕のように震えているに違いない。胸騒ぎがする。
 「ジャーン、今日はハンバーグよ」母は明るさを装っているがやはり顔には不安の皺が刻まれている。僕は狼狽している人たちの心の声が聞こえる気がする。つまり
「これも偽物なのか?」
という絶叫に近い呟きであり、それは人から生きる力を奪うものに思えた。
「"本物"のハンバーグよ、ゆっくり食べてね、今日はいい肉を使ったから」母親は本物という言葉を少し強く言った。それがおかしくて僕は笑った。僕の不安を和らげようとしたのだろう。この偽物の息子の僕の偽物の不安を。

翌日から、テレビではこのニュースは一切放送されなくなった。やはり危険思想だとみなされたのだろう。これは国民の不安を煽る思想だ。ただ、一度放たれたミームは、インターネットや口コミを通じて、無限に増殖していく。世界が、日本が、街が、どんどんおかしくなっていった。
まず、一か月ほどして、新興宗教が乱立した。触れ込みはこうだ。「本物の世界を知りたくありませんか?」もしくは「本物のあなたになりませんか?」一晩にして偽物にされた僕たちは、当然の帰結の如く「本物の世界」を望んだ。「本物の世界」の本物の自分になることを望んだ。それが宗教的形態をとるのも頷ける。どちらも見えない世界を取り扱うからだ。けれどその新興宗教はお粗末なものが多かった。教祖の体液を摂取すれば本物の自分になれるだの、一千万円喜捨すれば本物の世界が見えるだの、詐欺に近いものが多かった。実際に訴訟事件もたくさん起こった。こういうくだらない、新興宗教が客をとるためにそこかしこで宣伝をしていてとても目ざわりだった。目ざわりで済めばよかったが、凄惨な事件が起きてしまった。テレビは厳重な報道規制がかかっているようであまり放送されなかったが、詳細はネットで簡単に見ることができた。
松戸五郎、という男が教祖(信者には自分のことをトゥルーマンと呼ばせていた)の「善白教(ぜんぱくきょう)」という宗教が社会的事件を起こした。どうもこの教団の教義は「死後に本物の世界がある」というもので、荒唐無稽なものだったが、むしろキリスト教や浄土教(僕はこの一か月、受験勉強をサボって、宗教や哲学の勉強をした)という世界宗教と比べて宗教のあり方に忠実であったとも言える。死後に真実の神の国があるというのは伝統的宗教が教えるところだ。善白教が問題になったのは、死こそ「本物の世界」へ至る唯一の通路だと説いて、一般人を積極的に殺害することが奨励されていたことだ。善白教の教徒は、積極的に家族殺しをした。一番に「本物の世界」へ行って欲しいのは家族なのだから、当たりまえだろう。善白教の検挙が遅れたのは、この頃家族殺しや一家心中が増えていたからだ。そして、善白教は生物兵器を作って、日本人を全て「本物の世界」へ導くという目標を建てた。信者の喜捨で作った、細菌兵器工場からの異臭騒ぎで、警察が介入し、トゥルーマンは逮捕された。トゥルーマンは常々こう言っていた。
「計画が失敗すれば、速やかに自殺をし、自分だけでも本物の世界へ行くこと」
トゥルーマンが逮捕され、善白教の信者は全員自殺した。八百人も死ねば、テレビ局も放送せざるを得ない。この事件は一大センセーションになり、国民の頭に「本物の世界」=死という観念を植え付ける要因になったようだ。実際に、それから自殺者が相次いだ。偽物の世界で生きていても仕方がないと言って死ぬもの、偽物の人間関係しかないなら意味がないといって死ぬもの、偽物の労働しかないならといって死ぬもの。死ぬ理由には事欠かなかった。そして、僕の兄の郁夫も自殺した。
「お父さん、お母さん、いや、あなたたちが本当に親なのかどうかも分からない。偽物の親なのだから。僕は気が変になってしまったのかもしれません。世界の何を見ても、例えば花を見ても、森を歩いても、夜空を見上げても、僕にはなんの感興も湧かない。むしろ僕にはそれが酷く虚しく感じるんです。全ての美が偽物ならば、生きている意味があるでしょうか。全ての友情が虚妄ならば、人と手を繋ぐ意味があるでしょうか。全ての愛が、この場合の愛は親子愛のことですが、親子愛も偽物ならば、僕はなぜこの遺書を書いているのでしょうか。僕は今酷く絶望的な感情に襲われているのですが、それすらも偽物で、その観念により絶望感が倍化されて、無限に偽物の絶望感が繁殖していきます。芸大に通っている僕にとっては、美こそが全ての基準でした。けれどあの美しいギリシャの彫刻ですら偽物なのです。僕が共鳴した、あの美しい殉教者達ですら、偽物なのです。僕に光は消えました。偽物の太陽、という字面ですら僕の生命を奪うのに充分でしょう。あの生の象徴である太陽、あの太陽が偽物ならば、僕たちはいますぐ死ぬべきです。僕は馬鹿です。「本物の世界」という「観念」のために死んでゆきます。論理的仮構物、いや、論理的実在物のために死んでゆきます。偽物の僕は死んでいきます。僕は宗教を持っていないので、死後に「本物の世界」があるとも思っていません。僕は死んでいきますが、泣かないでください。それは偽物の涙なのですから あなた方の偽物の息子より」
けだし、僕は思うのだが、全てが偽物であるならば"死もまた偽物であるのではないだろうか?"

 昔から抱いていた、虚無の箱が開きかかっている。僕はどこの馬の骨か知らない哲学者の証明を待たなくても、この世が「本物の世界」から疎外されていることを知っていた気がする。兄さんは、率直に言えば、生に希望を持っていた。生きんと欲する意志があった。兄さんの生きる原理は美であり、美を基調にして生きていた。兄さんの死に不可思議なところは一つもない。兄さんにとって美こそが「本物の世界」だったのであり、それを生涯で認識することができないとすればあまりにも深い落胆と絶望が襲ってくるのは必至だろう。兄さんは生の原理で生きていた。だから死んだのだ。僕は死の原理で生きている。だから生きているのだ。この逆説。僕は「本物の世界」から疎外されてても一向に構わない。「もともと生なんてハリボテじゃないか」という僕の心に沈殿し、固着し、自分でも意識化できなかったものが意識できるようになっただけのことだ。しかし、しかし、絶望という、手垢のついた言葉を使えない僕は、しかし、しかし、「本物の世界」を夢想せざるを得ないのだ。兄さんの言っていたように、死すら偽物の世界では絶望すら偽物なのだ。しかし、絶望の反転、希望ですら偽物であり、「本物の世界」への憧憬すら偽物なのだ!真理への意志の欺瞞。全てが偽物になった世界で、唯一価値のあるものは、「生」もしくは「欲望」だけではないか?生は偽物ですら価値のあるものではないのか…?これは認識の問題であり、パースペクティヴの問題だった。けれども欲望が価値を決めるというのならば話は簡単なのだが、すでに「価値」は「本物の世界」に放擲されている。そして「本物の世界」への通路は固く閉ざされている。兄さん!僕は兄さんのことを思った。僕の思考過程が矛盾でしかない。僕は先ほど偽物の世界でも一向に構わないと言ったが、そのあとすぐ「本物の世界」を夢想せざるをえないと言っている。この世界と「本物の世界」はなんらの交通を持たないにも関わらず、僕たちの思考の根源を歪めてくる。兄さんは気が狂ったんだ。自分の持っている縄、そしてそれで首をくくる決意、そしてその行為そのもの、それらが全てフェイク、つまり劇場でのことなのだ。僕は全く途方にくれた。

僕は次第に学校へ通うのが億劫になっていった。僕もあの退廃的な思想にとりつかれる寸前なのかもしれない。「本物の世界」があり、ここは偽物の世界である。けれど、僕の十八年間はつつがなく過ぎていたではないかという思いも拭えない。けれど僕に影が出来始めたのは確実なようで、兄さんのように、花を見ても絵画を見ても星空を見ても、何も僕の心臓を高ぶらせるものはないのだった。次第に兄さんのようになっていく自分を感じて危険を感じた僕は、恋人のチエに会うことにした。

「久しぶりだね、最近どう?」
「どうもこうもないよ、兄さんは死ぬし、宗教の宣伝はうるさいし、みんな死んだような眼をしているし、僕まで気が参りそうだよ」
「ここ最近、不穏なことがずっと続いて嫌だね。たかが哲学者が何かを証明したって、何も私たちは変わることないのに」僕はチエが「こっち側」の人間であることに安堵した。
 「何が偽物の世界よ、どうせ最初から偽物みたいだったじゃない、勝手に親が産んで、何も知らずに死んでいく、偽物で何が悪いのかしら。私は相変わらず偽物の世界でユカ達と楽しく遊んでいるわよ。それに健次もいるし、それじゃ駄目なのかしら?」
「でもユカも健次も偽物らしいぜ」
「楽しかったらなんでもいいの!」とチエはキスをしてきた。僕は性的興奮を覚えたが、これも偽物なんだろうか。チエは粛々と性交の準備を始めていく。服を脱いで、下着を脱いで、チエの裸体があらわになった。僕はなぜか兄さんの遺書の一節を思い出した。「ギリシャの彫刻の美も偽物だ」軽く愛撫して、何かを取り戻したいという思いで、すぐに挿入した。チエは艶めかしい声で鳴いている。それがひどく空疎に響いた。膣の襞で感じる快感も、中身が虫に食われているような快感だった。僕は早く射精したかったので、腰の動きを速めた。チエは何かの楽器のように思えた。目の前にある、裸体の生々しさに、僕が追いついていけなかった。この生々しさ、リアリティ、そういうものの速度に、僕は置いていかれる。裸体の速度についていけない。性器に熱い感覚がやってきて、僕は射精した。虫食いの快感が性器に集中した。僕はチエについていけない、と強く思った。偽物の世界では、点在する快楽を転々としながら生きければならない。僕はその速度に追いつけない。
「どう?"本当"に気持ちよかったでしょ?」
「うん、多分…。」

その夜、総理大臣が会見を開いた。「本物の世界」の説は間違いだったこと。証明に穴があったこと。
僕は何も分からない。これは思想統制なのかもしれないし、本当に哲学的に間違いがあったのかもしれない。
でももう手遅れだった。人民の頭にはもう、「本物の世界」への憧憬と、偽物の世界への侮蔑しか残っていない。「本物の世界」の僕は、うまくやってるんだろうか、と思いながら、僕は自分の手のひらを眺めた。

創作の悪について

「就職していたときは創作意欲があったのだけれど、仕事をやめてから創作意欲がなくなった。どうしたらいいですか?」という相談を見た。じゃあ創作なんてしなければいいんじゃないか?と思った。

 創作というのは邪悪である。偽善である。欺瞞である。自らの誠実さを裏切る行為である。虚栄心の結晶である。金銭欲の塊である。

 昨日は美術館へ行ってきた。北魏の時代や唐の時代の仏像が置いてあった。作者の名前はもちろん分からないが、とても千年前に作られたとは思えないほど精巧だった。
 芸術家は傲慢というのは通説に近いが、自分の内面世界を売ってチヤホヤされて金にしようと思ってる連中なんて薄汚いに決まってるだろう。なんでこの自覚がないんだろうか?

 僕は今創作をしているが、悪をしているという感覚はない。ただ純粋に楽しい。ただ冷静に考えると創作は悪だ。煩悩と言ってもいい。ある人は小説家というのは煩悩を文章にする人だ、と言っていたがその通りだ。自らを鍛えるために書いてるとかいう言い訳も見たけれど、だったら発表しなければいい。発表した時点で「チヤホヤされたい」という絶対的な悪が見えている。

 それぐらいの人間観察もできない人間が小説を書いて何が面白いんだろうと思う。小説を書くことは創作とは何か?虚栄心とは何か?欲望とは何か?罪とは何か?自分とは何か?を問うていくことであり、創作=悪だと思っていない薄っぺらい人間が面白いものをかけるとは僕は思わない。

スタッフロールは流れない

 スーパーファミコンの名作、スーパードンキーコングのラスボス、キングクルールは姑息な手段を使ってくる。体力が減ると、死んだふりをして、偽物のスタッフロールが流れる。こちらが油断していると、また復活して主人公のドンキーコングを攻撃してくる。

僕の一番古い母親の記憶は、眼鏡の奥で怒りを燃やしながら、僕を椅子に座らせようとしている記憶だ。なんでも、幼稚園に行くまでに五十音が書けないと、幼稚園で恥をかくらしい。幼いながらに、誰が恥をかくのだろう、と思った。僕にはまだ恥という高級な感情はなく、裸体で夫人の前に出ても平気だった。五十音を書けない恥…。母親の、貝殻の奥の肉が食い破られる恥…。恥というのは敗北宣言であり、石化されることだった。自分の分身が劣等動物で、動物園にいる猿に向けるようなまなざしを向けられ、裏で嘲笑される。母親の恥は大きなものではなくごく小さなもので、それは動物を〆る時の罪悪感、キュと鶏の首を〆る時の「音」が恥だった。母親にとって、自分は哀れな鶏であり、他人のまなざしは自分を〆ようとする屠殺人に見えたのだろう。とにかく僕は五十音を必死に覚えた。上手く書けないときは、僕は母親にぶたれたような気もする。
「やの次はゆでしょ!こんなことも分からないの?恥ずかしい!」
母は屠殺されないように必死に僕を屠殺していたのだと、今になっては思う。大人の世界では恥をかくということは石になり、木になり、鶏になることだった。
これが僕の最古の記憶だ。クラスで五十音を一番に覚えた賞を貰っても、何も起きなかった。

小学生になっても、母親の屠殺は続いた。テストの度に、椅子に座らせて、必ず百点をとらせようとするのだ。けれど、テスト前以外は自由に遊ばせてくれた。広い牧草地で草を食む牛のように僕はたくさん遊んだ。父親の教育方針も取り入れられるようになったらしい。けれど中学受験のときは今になって思い返しても酷かった。帰ったら毎日、勉強机に向かわされ、母親の買ってきたドリルと過去問を解かされ、僕は消耗して二回倒れた。倒れても母親は病院へ連れていくことはせず、眼が醒めると僕を勉強机に座らせるのだった。友人と牧草地を悠々と歩いているほうが楽しいのに、なぜ勉強をしなければならないのかと尋ねると、
「これはケンジのためなのよ。この中学に入れば全部上手くいくから」と言われた。それは驚くべきことに、愛だったのだ。僕は紛れもなく愛されていたし、この年齢になると恥という感情も分かってくる。自分の裸体をクラスメイトの女子に見せるのが恥ずかしいというぐらいのことは分かる。給食で、苦手な椎茸を食べたとき、嘔吐した。男子は嘲笑し、女子は悲鳴をあげた。僕はこの時初めて母親のいう恥というものがどれほど恐ろしいものか知った。それは自分では如何ともしがたいという意味で運命に似ており、急所を的確に殺戮してくると言う意味では屠殺に似ていた。僕も底辺中学へ行くのは恥ずかしいので、必死に勉強をした。

合格番号の貼りだしに、自分の番号があった。けれど何も起こらなかった。

高校へ入ると、この恥のゲームが次第に嫌になってきた。コードに従った変なことをすれば、面白い奴だが、微妙にでもコードを外れると、「まなざし」が急所を、闘牛士のように突き刺してくる。僕はこの「まなざし」が嫌になった。急所、秘所を隠すのが疲れてしまった。僕は次第に引きこもるようになった。引きこもりというのはコードから完全に逸脱していて、学校にいる「普通」の人たちが僕のことを見下し、あざ笑っているのは分かっていたけれど、僕はそのゲームから降りた。母親はそんな僕に何も言わず、ただただ泣いていた。僕がゲームを放棄することは、母親もゲームを放棄することだ。僕は母親のこの時の涙は、安堵の涙だったんじゃないかと思うことがある。
「別にケンジとずっと家で暮らしても何も問題ないもんね」というようなことをしきりに言うようになった。母親の中で恥の果実が弾けたのだと思う。学校をやめても、何も起こらなかった。

受験では何も起こらない、と思った僕は女を求めるようになった。ネットで顔のいい女を見つけては、家に押しかけたり、ホテルへ行ったりした。僕は童貞だったので、初めては風俗へ行った。乳首を舐めると、ゴムのような味がした。ただの肌の味がした。これなら自分の指を舐めてるのと何も変わらないじゃないか、と一人心の中で笑った。ゴムの味がする乳首を舐めると、風俗嬢は感じてもないのに声を出す。喜劇だった。挿入しても、なんの感動も起こらなかった。しばらく腰をふっていると、ところてんのように精子がぐにゅりと出てきた。慎ましい快感と、目の前にある人体への嫌悪感。驚くほど何も起こらなかった。友達に相談すると
「それは、好きな人とセックスしてないからだよ」と言われたので、僕は恋愛することにした。ネットで適当に気の合う人を見つけて、好きになった。好きだと伝えると、向こうも好きだと返して来たので、会うことにした。
デートで美術館へ行った。芸術には何かあるかもしれない、と思った。コローの絵も見たしセザンヌの絵も見たしゴーギャンの絵も見た。なんの感興も起きなかった。芸術というのは味のしないガムのようだなと思った。何も始まらないし、何も終わらない。美術館で何かが始まる、もしくは終わると思っていた僕は、少しイラついてきて、部屋へ彼女を連れ込んで、セックスをした。その日は、クリスマスだった。好きな人の乳首も、ゴムのような味だった。けれど、好きな人に生で挿入するのは流石に興奮した。確かに、何かが沸騰しそうな気配はあった。ただ、いつものようにぐにゃりと精液が出ると、慎ましい快楽と目の前の媚態に嫌悪感がわいてきて、「何も起こらなかった」。
僕は疑うようになった。何も始まらないし、何も終わらないんじゃないか?中学受験をしても高校受験をしても芸術品を見てもセックスをしても何も始まらないし何も終わらないんじゃないか?
多分、人を殺しても終わらないだろう。多分、財産を築いても何も終わらないだろう。多分、名声を得ても何も終わらないだろう。
残ってるのは死ぐらいだ。僕は今この手記を、死んだあとに書いている。僕は十月九日に自殺した。スタッフロールは流れなかった。ここはどうやら死後の世界らしく、天使らしきものがときどき家に訪ねてくる。スタッフロールは流れない。

砂糖水は出来上がらない

退屈は犯罪です、という文字が眼に入った。僕は顔には出さず心の中で笑って、じゃあ僕は死刑かもしれないな、と思った。

家族が全員、十月九日に死んだ。事故だった。僕は家族旅行など行くタチではないので、家で読書をしていたのだが、飲酒運転の車と正面衝突して、全員即死だった。即死だったのが幸いだなと思う。苦しむ親族の姿は見たくない。葬式も穏便に済ませて、さあ僕の身はどうするか、という話になった。僕の世話をしてくれる親戚など誰もいなかったので、僕は学校をやめた。十九歳の頃の話だ。そして九年間、ずっと生活保護を受給しながら引きこもって生活をしている。

二十八歳になった僕には、希望もなく、夢もなく、絶望すらもなかった。ただ、時間があった。砂糖水を作るには、水に砂糖を入れて、砂糖が溶けるのをじっと見ておかなければいけない。時間は早めることもできないし、飛ばすこともできない。僕にはただ持続する時間だけがあって、ただそれだけだった。退屈というのは、一種の空白であり、苦痛であり、それを埋めるための手段が必要であったが、僕にはその手段がなかった。インターネットをして、図書館で借りた哲学書を読んで、オナニーをするぐらいが関の山だった。退屈に関する哲学書で、こんな話を読んだことがある。あるところに念仏者のおじいさんがいるんだけれど、死んでしまう。おばあさんは悲しむけれど、十年後ぐらいにおばあさんも死んでしまう。そして極楽浄土で再会して、二人は懐かし話をしたりして盛り上がるんだけれど、日を経るごとにだんだんトーンが下がって行ってしまう。その時お婆さんがぽつりと「地獄ってどんな場所なのかしらねえ」と呟く。その瞬間、お爺さんの眼に輝きが戻るという話だ。極楽という場所は、地獄よりも地獄的な場所なのかもしれない。永遠というのは監獄であるのかもしれない。僕には苦痛もハプニングもなく、九年間毎日同じ生活をしている。いっそ気が狂ったら、とも思うけれど、人間の気はそんな簡単に狂わないらしく、いつだって正気で時間に負け続けている。一気に老後まで飛ばせるボタンというのが目の前にあるなら、間違いなく押すだろう。ただ現実は砂糖が溶けるのを待つ必要がある。じゃあいっそのこと自殺してしまえ、と思われるかもしれないが、最初に書いた通り、僕は絶望もしていない。世界には時間があり、僕には退屈があるだけだった。コップの中には水があり、砂糖水ができるにはまだまだ時間がかかりそうだった。

いつものようにインターネットをしていると、少しふれていることが掲示板に書かれてあった。
『十九歳女 一人暮らしの人いませんか?今から家に行くので、同棲しましょう』
僕はこの女にすぐメッセージを送った。僕はこの募集文で、この女が男に棄てられた直後であること、そして境界性人格障害だということを確信していた。そしてこいつは、初対面なのに重い話をしてくるだろう。コンタクトを取り、通話をした。案の定だった。親に棄てられて、男の家を転々としていて、手首は傷だらけとのこと。僕は自宅の近くの飲食店の住所を教え、明日ここに来いと言った。

「始めまして」華奢、というよりどうみても拒食症の女だった。顔は整っている方だと思うが、なにせ肉がないので頬がこけて病人みたいで、整う整ってない以前の問題だった。
「あのお、なんでコンタクト送ってくれたんですかあ?」
「暇だったからだよ」
「ほんとですかあ?お兄さんも寂しいんでしょお?」下品な喋り方だったが、こういう女は嫌いではなかった。

家に招いて、まず、自己紹介をした。僕たちはまだお互いの本名も知らない。健次です、と僕は名乗った。そして家族が全員事故で即死したこと。九年間全く外へ出ていない引きこもりだということ。正直女性と喋るのが久々なので緊張していることなど。女はチエ、というらしい。本名かどうかは知らない。
「九年間も引きこもりって、ちょっと危なくないですかあ?お兄さん危ない人お?」
「僕は君を危ないかもしれないと思ってるし、お互い様だろう。」
「そうだけどお、暇じゃない?」
「そうなんだ、退屈で死にそうだから君に連絡をとったんだ、さっきもそう言っただろ」
「そうだったっけえ」
酒でも飲んでるんじゃないかというぐらい呂律が回っていないが、酒の匂いはしなかった。薬でもやってるのかもしれない。
家に入ると突然キスをしてきた。
「お兄さん、好きい」
「僕も好きだよ」と言って舌を絡める。完全に病気の女だ。
「ここ、触ってえ」と言って僕の手を胸に持っていく。けれども拒食症なので全く肉がなく、日光で焼けた本を触っているようだった。僕のペニスを触ろうとしてきたので、さすがに制止しようと思ったが、自分の人生のことを考えて、やめた。暇つぶしだ。
チエは全裸になって僕の上に乗って鶏みたいに喘いでいる。体も痩せすぎた鳥のようだった。
「私、お兄さんのこと好きかもお」
「僕も好きだよ」と言って寝る支度を粛々と進める。こいつはほんとに僕のことが好きなのだ。病気だからしょうがない。ベッドに二人入って、またキスをした。僕はこの女の病気を利用している。衝動性が強く、すぐ男に依存するということ。ただそんなのどうでもよかった。今日は時間が進むのが早く感じられた。ワンナイトラブでもインスタントラブでもなんでもよかった。

眼を開けると、チエが料理をしていた。
「ちょっと待っててね、ハムエッグ作るから」
「わざわざスーパーに材料買いに行ったの?」
「そうだよ、お兄さん、弁当ばっかりで可哀そうだなあと思って」
昨日はやはり薬をやっていたらしい。今日は呂律が回っている。向こうも緊張していたようで、紛らわすために大麻を吸ったそうだ。
チエのハムエッグは美味だったが、チエが一緒に食べてくれないのが少し残念だった。
 「お兄さん、九年間引きこもってるんでしょ?どこか外行こうよ」
「足がないよ」
「私、ここまでオートバイで来たんだ。隣の県だしさ」
チエのペースに乗せられて、僕たちはどこかへ行くことになった。外へ出ると日光が眩しく眼球がえぐられるように痛い。
「ここにこんなのあるんだね」と言ってチエはアパートの管理人が育てている花壇の方へ走った。日光が花びらに食い込み、花びらが内からめくれているような印象を受けた。チエは僕のことなどすっかり忘れたように花に見惚れていて、僕はそんなチエの横顔に見惚れていた。花の上にふわりふわりと蝶々が飛んでいる。チエはいつまでたっても見飽きないようで、丸一時間ほど花壇の前に二人で立っていた。
 「お兄さん、ちゅーしよ」といってキスをした。昨日から何回したか分からない。この女が男なら誰でも発情するし依存することは知っているけれど、それでも少し征服感を感じた。僕はこの女に踏まれていく男の一人に過ぎないんだろうと思うと少し感傷的に嫉妬したが、そこは割り切らねばならない。僕は本当は十月九日に死んでいたはずなのだ。
オートバイに乗って、水族館へ行くことになった。速度が光に近づくほど時間は進むのが遅くなる、というのを聞いたことがあるが、速度、というのは麻薬的なものだった。速度という抽象的なものを、ここまで具体的に感じたのは産まれて初めてだった。風が流線形になって、僕たちの後ろへ走り、前の車を追い越す。速度というのは高揚感や万能感も催すようで、僕は立ってしまいたいほどだった。僕の家族も速度に殺されたんだ。速度は人を殺す、故にここまで麻薬的なんだろう。
「お兄さん、怖くない?」
「凄く気持ちいいよ、昨日のセックスより気持ちよい」
「なにそれ、最悪」と言ってチエは笑った。
 目的地の水族館に着いて、僕たちはカップルのように手を繋いでデートをした。途中でチエがぐにぐにと手を食い込ませてきて、恋人繋ぎになった。
 「見て!クラゲ!綺麗だね」といってチエは年相応にはしゃいでいる。けれどクラゲは本当に綺麗だった。館内のクラゲブースだけ真っ暗で、発光するクラゲが展示されていて、まるで天の川のようだった。チエはまた鑑賞モードに入ったようで、クラゲを飽きることもなく一時間以上も見ていた。僕はその間チエの体を触ったりして時間を潰した。

水族館から帰ると、またチエの症状が出てきて、好き好き言ってきた。僕も好きだよ、というとニンマリして嬉しそうにする。子供みたいだった。キスをしてセックスをして、二人で抱き合って寝た。

次の日「お兄さん、別の人から連絡来たからその人のとこ言ってくるわ」と言ってチエはオートバイでどこかへ消えた。夢だった気がする。長くてリアルな夢を見ていた。
コップに入っている水に入れた砂糖は相変わらず溶けずに、砂糖水は未だに完成しなさそうだった。僕はまた砂糖が溶けるのを待つ生活に戻った。

インセル

「女たちが俺に性的魅力を感じさえすれば幸せな人生になっていたのにと考えると、身体中が憎しみに燃え上がる」

「女どもが俺から幸せな人生を奪った。だから仕返しに、あいつらの人生すべてを奪ってやる。それでやっと公平になる」

 男は、米国の有名なインセルの声明文を拡大印刷して、部屋に貼っていた。まるで若者がスターのプロマイドを部屋に飾るように、男は連続殺人鬼の言葉を部屋に貼っていた。母親はそれを快く思っていなかったが、剥がせ、などというと暴力を振るわれる恐れがあったので何も言わなかった。時々、息子の友人が集まって「女たちが俺に性的魅力を感じさえすれば幸せな人生になっていたのにと考えると、身体中が憎しみに燃え上がる」
「女どもが俺から幸せな人生を奪った。だから仕返しに、あいつらの人生すべてを奪ってやる。それでやっと公平になる」と唱和するのも不気味だった。ただ男の母親には、それを止める政治力がなかった。

 男の名前を龍という。顔立ちは悪い方ではなかったが、顔中に刻まれた陰気さのせいで、今までセックスをしたことがない。女を飯に誘ったことはあるが、女のせいで会話が弾まず、ホテルまで行くことはなかった。女は会話が下手くそだ。これは彼の口癖でもあった。女は会話が下手くそだ、話題作りが下手くそだ。それを仲間たちはうんうんと頷いて聞いているのだった。だろ?俺たち男同士で酒を飲めばわいわい盛り上がる(その話題のほとんどは女の悪口だったが)のに、女と飲むと全く話が盛り上がらない。女は生物学的に共感能力だけが発達して、論理的な会話ができないから、話もつまらないんだ。そうだろ?というと仲間はうんうんと頷くのだった。女が男より劣っているのは明白だった。

龍は大学の非公認のサークルのリーダーだった。サークルというより、同好会いや、同嫌会と言ったほうがいいかもしれない。龍はその憎悪と思想の強さから、チーム内のメンバーから一目置かれていた。若者にはエネルギーがありあまっている、と龍は言う。そして俺らのエネルギーは憎悪だ。資本主義への憎悪でもない、俺らは金がある。社会への憎悪でもない、俺らは一流大学生だ。あの、けがれた馬鹿な女達への憎悪だ。発散することのできないリビドーが、体内へ逆流する。性器から逆流したリビドーは、全身を巡って憎悪になり、思想として紡がれる。

初めは仲間内の飲み会から始まった。
「女、欲しいっすよねえ」と拓が何気なく言う。
「そうだなあ、俺たち全員童貞だもんな。ヤラハタってやつか。でも宮沢賢治だって童貞で死んだって言うぜ。俺たちは雨には負けないな」というと場に乾いた笑いが響いた。
「しかしなあ、大学ってのは勉強する場所じゃないのか、どこを見てもカップルカップルカップル。全く反吐が出るよ。連中は俺たちのことを馬鹿にしてるに決まってる!」健次が拳に力を入れて言う。少し酔いが回ってきたようだ。
「でも健次、お前この前、女できそうって嬉しそうに言ってたじゃないか。」と龍が陰気な眼でねめつけながらいう。
「それが、飯まではなんとかこぎつけたんですが、途中で帰られたんですよ、ひどくないですか?こういう風に電話する振りしてさ、そんな演技バレバレなのに、ゴメンヨウジガデキチャッタ!だってさ。やになりますよほんと。」
「まあそこで女が出来てたらもう健次は俺たちの仲間じゃないからな。よかったよ」この飲みグループの間には、暗黙の了解があった。成文化するとこうだ。「女が出来た奴は立ち去れ」現に、志茂という男と、翔太という男は、女ができてから飲み会に参加しなくなった。その方がお互いのためだろう。自然とモテない男性だけが残ることになり、憎悪は倍化されていった。

次第に、龍の家に集まるようになった。そこでは宗教的とも言ってもいいような行為がなされた。クラスメイトの写真を印刷して、真っ赤に塗りつぶして、びりびりに破る。「女たちが俺に性的魅力を感じさえすれば幸せな人生になっていたのにと考えると、身体中が憎しみに燃え上がる」
「女どもが俺から幸せな人生を奪った。だから仕返しに、あいつらの人生すべてを奪ってやる。それでやっと公平になる」と唱和する
。女の形をした人形を殴ったあとにハサミで切る。女の人形から綿を取り出して、それを臓腑に見立てて切り刻んだ。
 次第に行為が激化していった。彼らは酒を飲んでいるからという理由で女への憎悪を吐き出していたが、それらの言葉は彼ら自身に跳ね返り、合わせ鏡のように無限に増幅し、彼らの心の襞に押し入り、思想というものに昇華されていった。彼らは次第に女性のことをフィーモイドと呼ぶようになった。フィーモイドというのは「魅力的な女性」というスラングだが、「女はセックスと権力欲に駆られる、人間以下の生き物」という意味が込められた言葉でもある。他にもチャド(chad) 性的魅力があって女性とのセックスに不自由しない男性
ステイシー(stacy) チャドの魅力になびく女性
およびチャドと同様に男性に不自由しない女性
 という専門用語を使うようになった。
彼らはここで初めての犯罪を犯すことになる。龍が以前に振られた、大学のマリという女のアダルトなコラージュ画像を作り、2ちゃんねる、ツイッター、および大学関係者にばら撒いた。男たちは、これをテロと呼んだ。
そう、これはテロ行為なのだ。フィーモイドやチャド達に抑圧されている民衆の一揆なのだ。必要悪だ。
 「ははっ、ざまあねえな、フィーモイド風情が、学校に通ってんじゃねえよ。ここはな、人間が通う場所なんだ。」龍は非常にPCの技術に長けており、犯人がバレることはなかった。マリはもちろん学校に来れなくなった。しかしこれは自業自得というもので、セックスと権力欲になびく女に生まれついたのが悪いのだ。完全にマリの自業自得だった。
龍たちは誰がチャドで、誰がフィーモイドなのかノートにまとめていた。ここはアメリカとは違い、銃を乱射することはできないので、フィーモイドを一人ずつ「暗殺」することにした。俺たちは忍者だ。
例えば、チャドになれはててしまった翔太の家に小型ビデオカメラを置いて、セックスを盗撮した。翔太は男たちの正義を理解できそうだったので、龍の家へ連れ込んで、ビデオを見せて、女と別れろと脅迫した。
「お前たち、頭がおかしくなったんじゃないのか、マリの件もお前たちだったのか。どうせ振られた腹いせだろ。モテなさすぎて頭がイカれちまったんじゃないか?俺はリカとは別れないし、お前らの仲間にもならない。なんだ?この気持ち悪いポスターは。お前たち、おかしいよ、ほんと」
「じゃあこの動画をネットに流すけど?」
「それはやめてくれ。じゃあこうしよう、俺は、お前たちの犯罪を知っている。それは口外しない。その代わりに、お前たちはそのビデオを壊してくれ。」
「分かった。残念だ。」
龍はその日に、動画をネット上にばら撒いた。翔太とフィーモイドは学校でたちまち噂になり、退学した。龍は証拠不十分で逮捕されなかった。正義は必ず勝つ、というのは本当のようだった。

「このところ健次の様子がおかしくないか?」
「俺もそう思う。集まりにも来ないし、たまに来たと思ったら、女物の香水の匂いがするし」
「裏切りか」
「まだ断定はできないでしょう。拓を尾行させます。」

「拓、どうだった」
「健次は黒です。女の家に入っていきました」
「そうか、残念だ。あいつはもう人間じゃない。フィーモイドの犬だ。畜生以下の畜生だ。セックスに負ける猿だ、犬だ、豚だ。本当に残念だ、正しいことをしてた奴が間違った道に進むのは。」と龍は一息に言った後、一言。
「処刑だな。」

男たちは毎日のようにフィーモイドを暗殺する計画を練っていた。抑圧された非モテ男子に祝福を!権力欲の豚のフィーモイドに死を!エリオット・ロジャー万歳!
そして、その日は久々に健次がやってきた。
「健次、俺たちに隠してることはないか?」
龍の眼光を見て、全てが見透かされていると悟った健次は瞬時に
「すみません、すみません、女とは別れます」と言った。
瞬間、後ろから鉄パイプで拓が健次の左肩を殴った。
「痛っ!」
拓は執拗に左肩をなぐりつづける。がっがっと骨がおれる生々しい音がする。骨はもうつぶれたクッキーのようになっているだろう。
それでも執拗に左肩を殴り続ける。骨が露出してきた。神経も出ているだろう。あまりの痛みに健次は気絶した。
 「どうします?このチャド」
「殺すしかないだろう。俺らの内情を全部知っているわけだし。しかも間違った思想を持って生きるのは不幸だ。」
「殺すたって、死体はどうするんですか」
「山に埋めよう」

女が悪い。これはもはや思想ではなく、事実だった。顔の良い女に産まれるだけで、男からチヤホヤされて、承認欲求も性欲も満たせる。少し欲を出せば、男から貢がせるのなんて赤子の手をひねるようなものだろう。そしてそういう女たちは、俺たちのような男を選ばない。なぜか?権力欲に塗れているからだ。古来より男尊女卑をしてきたのは合理的なことなのだ。男は尊くて、女は卑しいのだから。男は貴族であり、女は奴隷だ。それを男女平等だの言って、リベラリストやフェミニストが人類の自然な形態を破壊してしまった。権力欲にまみれて、俺たちを不本意に禁欲させている女は「死ぬべき」だ!被害者が加害者を殺すのは正当防衛だ。俺たちは抑圧されている。今こそ団結を!今こそ革命を!

龍は今、フィーモイドを一斉に殺すための、爆弾を作っている最中だ。正義は必ず勝つと信じながら。

「女たちが俺に性的魅力を感じさえすれば幸せな人生になっていたのにと考えると、身体中が憎しみに燃え上がる」

「女どもが俺から幸せな人生を奪った。だから仕返しに、あいつらの人生すべてを奪ってやる。それでやっと公平になる」

誕生日

 二年前の八月二日にも、三年付き合った恋人と別れた。今年の八月二日にも二年付き合った恋人と別れた。なんかあるんだろう。
 二十五歳になったわけだけれど、二十五歳がもう限界かなと思っていたので、今年は死に方を模索する年になるのかなあ、となんとなく思っている。

充分

 「私、この頃、もう充分生きたかなって思うことがあるのよ。あなたはない?そう思う事。私は三島由紀夫やソクラテスが死に抵抗することのなかった理由が分かる気がするのよ。彼らは充分に生きたという自負があったんじゃないかしら。人が死に赴くのに必要なのは、充分に生きたという誇りと、ほんの少しの疲労じゃないか、って思うのよね。」と言って私は自分の少しニヒルの混じった告白を誤魔化すようにタバコの煙を吐いた。ああ、この煙のように消えてしまえたら。
「僕はそうは思わないな。確かに君は同年代の女の子と比べたらたくさんの経験をしている。それは認めよう。けれどうちの母親と比べたらただの小娘だぜ。経験は量じゃなくて質って言いたいんだろう、君は。けど量ってのも大事だと思うぜ。例えば君は中絶したことがあるだろう。うちの母親は三回も中絶したんだ。一回目の中絶と、二回目の中絶と、三回目の中絶は、やっぱり質の違うものだと思うよ。僕はまだ自分が充分に生きたなんて思えない。僕は夢があるんだ。その夢を無視して自分だけ死ぬなんて考えられないな。」
ケンジは軽率に私の中絶の話を出したことを誤魔化すようにタバコの煙を吐いた。お互いの煙はセックスするみたいに絡み合って、夜空へ昇って行った。
「私はもう、余生を生きている気がするのよ。分かるかしら。充分に生きたっていうのはそういうことよ。決して絶望してるわけではないわ。ただ、希望や期待がないっていうだけなの。全てがデジャヴュのような感覚。私は充分にやったわ。今の毎日は凄く楽しい。ユミコたちもいるし、こうやってケンジも愚痴を聞いてくれるしね。さっき余生と言ったけれど、今が人生の黄金期だという気もするの。芥川風に言うと、将来に対する唯ぼんやりした不安。今より充実した生が自分に降りかかるとは思えない。あはは、ごめんね。暗い話して。」田舎の夜景は、都会の夜景より酔いやすいな、田舎の夜はただの暗闇で、身体が溶け出す予兆のようだった。私はすでに自殺するのにとっておきの場所を見つけていた。自殺するのに作られたような場所。ケンジも、顔はいいけどつまらない男だなと思う。夢なんて、叶えてもただの現実でしかない。その子供らしい純真さが羨ましいな、と思うこともあるけれど。きっと私は自分に持っていないものを持っているからケンジに心を許しているだろう。
「ま、そんな暗いこと言わずにさ。酒でも飲もうよ。」と言ってケンジは私に缶チューハイを渡してきた。すでにぬるくなっていて、私の人生を暗示しているようだった。ぬるい人生の中で酔っている…。早めに決行しようと思った。

自殺のための場所というのは校舎のことで、私はここから飛び降りて何人も自殺したことを知っている。私は自分の人生に誇りを持っているし、逃げるために死ぬわけじゃない。「もう結構です」というのが私の自殺の理由だった。もう充分だった。
ケンジが帰ったあと、私は校舎に行って、空を飛んだ。

『12日午前10時半ごろ、さいたま市の中学校の校舎の下で、中学2年の女子生徒が倒れているのが見つかり、死亡した。 女子生徒の遺書には、「いじめや家族間のトラブルではない。楽しいままで終わりたい」などと書いてあったということで、校舎から飛び降り自殺したとみられている。』

信仰 その後

 最近、ブログやツイッターなどであまり信仰の話をしなくなった。人間は欲しかったものが手に入るともうその話はしなくなるのだろう。今思えば、もともと持っていたものを見つけただけなのだけれど。
 口から出る南無阿弥陀仏が耳に南無阿弥陀仏と聞こえる。それだけでいい。疑いなど介在する余地がない。真宗は身体的信仰ではないかと思うことがある。「声」が信仰というのは、奇特な宗教である。

 永遠の昔に法蔵菩薩という方が出られ、世自在王仏という仏のもとで出家され、五劫の間思惟して、永遠のように長い修行をして、南無阿弥陀仏になった。だから南無阿弥陀仏が我らの助かる証拠だ。というのは普通「信じられない」無理。不可能。僕は人間には不可能だと思う。その不可能が可能になったのを信仰というので、真宗は奇跡ということを一切言わないが、唯一奇跡があるとすれば、絶対に不可能な信仰が可能になるという奇跡がある。

 僕は信仰をすれば虚無感が晴れると思っていたが、晴れない。阿弥陀仏は虚無感を癒す仏ではなく、僕を救う仏なので当たりまえだが、虚無感が晴れない。どうしようもないと思う。早く死んでしまいたいと思う。僕はそこで綺麗ごとを言わないのが真宗のいいところだと思う。せっかく貰った命だからとか、自殺したら地獄へ行くとか言わずに、ただ「そのまま救う」しか言わない。阿弥陀仏は壊れたラジオだ。「そのまま救う」しか言わない。その言葉に身が震えるほどの喜びを感じることもあるが、夜になると自律神経の調子が悪くなるのか、死にたくなる。でも「そのまま救う」と絶えず言っている。

 最近は小説をずっと読んでいる。創作意欲もわいてきた。阿弥陀仏のことを考えることは減ってきたが、阿弥陀仏は僕のことを絶えず考えているのだろう。そしてみんな浄土へ行くのだろう。みんな出会える場所があるのだろう。信仰をすることで、「つじつまがあった」僕は生きられる気がする。僕は生きられる。

ショートショート

 ショートショートの賞に応募しているんだけれど、受賞作品を見てみたら夢だの希望だのくだらない作品ばっかだったので、絶対に受からなさそうなショートショートはここに供養しようと思います。創作するのは結構楽しいですが、才能が伴っていないので、たくさん書いて訓練しようと思います
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