ハリボテ
火花は哲学の研究室から発火した。その火花は世界中の哲学オタクしか夢中にさせることはなかったが、徐々に世界を大渦に巻き込んでいった。それというのも、「本物の世界」があることが、証明されてしまったのだ。その証明のどこにも穴はなく、誰が見つけたのか分からない原理は、水が石を穿つように、世界に広がっていった。そして、その原理は、なんと「科学者」にも実証されてしまった。科学者が証明してしまうと、もう世界はあとには引けなくなった。哲学に関心のない日本にも「本物の世界」がある、というニュースがお茶の間に流れ、流通し、誰一人知らぬものはいないという状況になったのである。市井の人々は、それを福音だとも黙示録だとも考えなかった。神学者と哲学者だけが、喧々諤々の議論を戦わし、僕は今日もこの街で生きている。
僕がそのニュースを知ったのは、SNSからだった。【悲報】この世界、偽物だった、という記事をタップしてみると、ノーベル賞を貰っているような科学者が、これは世界がひっくり返るようなことです、とインタビューで答えていた。本当に悲報らしかった。難しい数式などは僕には分からなかったが、パラレルワールドといったものとも違うらしい、「本物の世界」がどこかにあることが証明されたらしい。それはプラトンという哲学者(僕は哲学という言葉を聞くだけでも嫌になる)が提唱したイデア界(哲学者は専門用語を使うから嫌いだ)というものによく似ているらしい。ふんふんと読んでその次の記事をタップした。また芸能人が不倫したらしい。夕飯時に、テレビを見ていると、なんとテレビにお坊さんが出ていた。浄土真宗という宗派のお坊さんで、仏教は元々この世は幻想だと説くとか、「本物の世界」とは極楽浄土だとか真如だということを言っていた。僕はさっぱり分からずに、チャンネルを変えて、歌番組を見た。
次の日の高校の教室は、いつもより二割ほどざわめいていた。席につくと、いつものように親友の翔太が駄弁りにやってくる。
「なあ、見たか?この世は偽物です、っつーニュース。」
「ああ、見たよ。でも僕には難しくて良く分からなかった」
「お前は馬鹿だなあ、この世は偽物なんだって」と翔太は少し語気を荒げて言う。
「だから、それが分からないんだよ。昨日と今日で、何か変わったか?何も変わらないじゃないか。本物の世界って言ったって、この世界が何も変わらないなら桃太郎と変わんないよ」
と自分で言いながら、そうだろうか?と自分の中で反問した。この翔太が偽物なら、僕は一体誰と喋っているんだ?そもそも僕が偽物なら、本物の僕はどこにいるんだ?しかし、「昨日と今日とで何も変わらないじゃないか」という自分の言葉を反芻し、僕は心に浮かんだ曇天を晴らそうとした。けれどもたちまち暗雲がたちこめ、僕はなんだか薄気味悪い気分になるのだった。
ホームルームでは、ニュースのことは気にしないで、受験勉強に集中しましょうという旨のことが言われた。大人たちが僕たちに何か隠しているようで、余計しゃくだった。十分休憩になると、また翔太と議論した。
「つまりな、この世界は偽物なんだ。それはさっき聞いたって顔してるな。偽物で何が困るんだっていう顔もしてるな。何も困らないよ。このまま日常が続いていくだけさ。でもな。偽物っていう概念は、本物という概念があってこそ成り立つんだ。」
ふんふんと僕は翔太の話を黙って聞いていた。あとから知ったのだけれど翔太の話は全てネットの受け売りだったらしいが。
「だから、人間とかだけじゃなくて、概念とかも、全部偽物になっちまうんだ。例えば、友情とかな」と言って翔太はこっちの方をチラっと見た。僕の意見を求めているようだった。
「例え僕たちの友情が偽物だったとしても、僕たちは友達じゃないか。それは変わらないだろう?僕たちは現に友達で、こうやって教室で話してるじゃないか。」
「その友達っていう概念も偽物なんだ。俺たちは「本物の世界」を知ることはできないが、きっとそこでの友情はもっと劇的なものなんだろうよ」と翔太は投げやりに言う。
「でもその「本物の世界」が僕たちに認識できない限り、本物と偽物を比べることはできないんじゃないか?」
「認識はできないけど、証明されたってのが問題なんだよ。イデアの問題なんだよ。」
「イデアってなに?」
「本物ってことさ」
僕にはまだ、何が問題なのかピンと来てなかった。僕たちは産まれてから十八年間この世界で生きてきて、なんの問題もなかったじゃないか。本物の世界が発見されたからって、日常の何が変わるのだろう?
放課後、一人で東京を歩いてみる。人類のめざましい発展の象徴であるビル群が立ち並んでいる。これらの人類の歴史の堆積も偽物だったのだろうか?頭の中で翔太の声がする。
「歴史のイデアがあるんだよ」無言で立ち並んでいるビル群を僕は眼で触るように見ながら歩く。「本物の世界」があるとしたら、この灰色の屹立した物体とは別の物が見えるんだろうか。「本物の世界」を一目見てみたいと思ったが、ビルを触りながら、この手触りが偽物であることがあるだろうか?と不思議に思った。だって、僕は今このビルの手触り、コンクリートのごつごつしてざらざらした感覚を感じているじゃないか、これは事実ではないだろうか?僕の手のひらと、ビルの間にあるこの言語化できない感覚、これは偽物なのだろうか?偽物の本物なのか?いや、本物の偽物なのか。頭がこんがらがってきた。僕は考えるのをやめて、帰途についた。
母親が妙によそよそしかった。「あんたなんて偽物の息子なのよ!」とでも言われると思ったが、さすがにそんなことは言われなかった。昼のワイドショーを見て、この気が沈む新思想をさぞ吸い込んだのだろう。しきりに自分の手のひらを眺めていた。僕はその手のひらを新奇な眼で見るという行為を、学校の人間や道ゆく人がしていたのを思い出した。手は身体のうちでも一番自由がきき、人体の要になる場所だ。僕は人々が偽物という概念と戦っているのをただ見ていた。「本物の世界」から溢れる光は、確実に僕たちを蝕んでいた。「本物の世界」から放射される光は、僕たちを全て影の如きものにしてしまうのだ。
胸騒ぎがする。脆い人間は、この耐えがたき思想をかわせるのだろうか。この思想は人をニヒルに引っ張っていく力があるのではないだろうか。「本物の世界」と「虚無」との間の、どこに僕たちは位置するのだろうか。人々はみな、僕のように震えているに違いない。胸騒ぎがする。
「ジャーン、今日はハンバーグよ」母は明るさを装っているがやはり顔には不安の皺が刻まれている。僕は狼狽している人たちの心の声が聞こえる気がする。つまり
「これも偽物なのか?」
という絶叫に近い呟きであり、それは人から生きる力を奪うものに思えた。
「"本物"のハンバーグよ、ゆっくり食べてね、今日はいい肉を使ったから」母親は本物という言葉を少し強く言った。それがおかしくて僕は笑った。僕の不安を和らげようとしたのだろう。この偽物の息子の僕の偽物の不安を。
翌日から、テレビではこのニュースは一切放送されなくなった。やはり危険思想だとみなされたのだろう。これは国民の不安を煽る思想だ。ただ、一度放たれたミームは、インターネットや口コミを通じて、無限に増殖していく。世界が、日本が、街が、どんどんおかしくなっていった。
まず、一か月ほどして、新興宗教が乱立した。触れ込みはこうだ。「本物の世界を知りたくありませんか?」もしくは「本物のあなたになりませんか?」一晩にして偽物にされた僕たちは、当然の帰結の如く「本物の世界」を望んだ。「本物の世界」の本物の自分になることを望んだ。それが宗教的形態をとるのも頷ける。どちらも見えない世界を取り扱うからだ。けれどその新興宗教はお粗末なものが多かった。教祖の体液を摂取すれば本物の自分になれるだの、一千万円喜捨すれば本物の世界が見えるだの、詐欺に近いものが多かった。実際に訴訟事件もたくさん起こった。こういうくだらない、新興宗教が客をとるためにそこかしこで宣伝をしていてとても目ざわりだった。目ざわりで済めばよかったが、凄惨な事件が起きてしまった。テレビは厳重な報道規制がかかっているようであまり放送されなかったが、詳細はネットで簡単に見ることができた。
松戸五郎、という男が教祖(信者には自分のことをトゥルーマンと呼ばせていた)の「善白教(ぜんぱくきょう)」という宗教が社会的事件を起こした。どうもこの教団の教義は「死後に本物の世界がある」というもので、荒唐無稽なものだったが、むしろキリスト教や浄土教(僕はこの一か月、受験勉強をサボって、宗教や哲学の勉強をした)という世界宗教と比べて宗教のあり方に忠実であったとも言える。死後に真実の神の国があるというのは伝統的宗教が教えるところだ。善白教が問題になったのは、死こそ「本物の世界」へ至る唯一の通路だと説いて、一般人を積極的に殺害することが奨励されていたことだ。善白教の教徒は、積極的に家族殺しをした。一番に「本物の世界」へ行って欲しいのは家族なのだから、当たりまえだろう。善白教の検挙が遅れたのは、この頃家族殺しや一家心中が増えていたからだ。そして、善白教は生物兵器を作って、日本人を全て「本物の世界」へ導くという目標を建てた。信者の喜捨で作った、細菌兵器工場からの異臭騒ぎで、警察が介入し、トゥルーマンは逮捕された。トゥルーマンは常々こう言っていた。
「計画が失敗すれば、速やかに自殺をし、自分だけでも本物の世界へ行くこと」
トゥルーマンが逮捕され、善白教の信者は全員自殺した。八百人も死ねば、テレビ局も放送せざるを得ない。この事件は一大センセーションになり、国民の頭に「本物の世界」=死という観念を植え付ける要因になったようだ。実際に、それから自殺者が相次いだ。偽物の世界で生きていても仕方がないと言って死ぬもの、偽物の人間関係しかないなら意味がないといって死ぬもの、偽物の労働しかないならといって死ぬもの。死ぬ理由には事欠かなかった。そして、僕の兄の郁夫も自殺した。
「お父さん、お母さん、いや、あなたたちが本当に親なのかどうかも分からない。偽物の親なのだから。僕は気が変になってしまったのかもしれません。世界の何を見ても、例えば花を見ても、森を歩いても、夜空を見上げても、僕にはなんの感興も湧かない。むしろ僕にはそれが酷く虚しく感じるんです。全ての美が偽物ならば、生きている意味があるでしょうか。全ての友情が虚妄ならば、人と手を繋ぐ意味があるでしょうか。全ての愛が、この場合の愛は親子愛のことですが、親子愛も偽物ならば、僕はなぜこの遺書を書いているのでしょうか。僕は今酷く絶望的な感情に襲われているのですが、それすらも偽物で、その観念により絶望感が倍化されて、無限に偽物の絶望感が繁殖していきます。芸大に通っている僕にとっては、美こそが全ての基準でした。けれどあの美しいギリシャの彫刻ですら偽物なのです。僕が共鳴した、あの美しい殉教者達ですら、偽物なのです。僕に光は消えました。偽物の太陽、という字面ですら僕の生命を奪うのに充分でしょう。あの生の象徴である太陽、あの太陽が偽物ならば、僕たちはいますぐ死ぬべきです。僕は馬鹿です。「本物の世界」という「観念」のために死んでゆきます。論理的仮構物、いや、論理的実在物のために死んでゆきます。偽物の僕は死んでいきます。僕は宗教を持っていないので、死後に「本物の世界」があるとも思っていません。僕は死んでいきますが、泣かないでください。それは偽物の涙なのですから あなた方の偽物の息子より」
けだし、僕は思うのだが、全てが偽物であるならば"死もまた偽物であるのではないだろうか?"
昔から抱いていた、虚無の箱が開きかかっている。僕はどこの馬の骨か知らない哲学者の証明を待たなくても、この世が「本物の世界」から疎外されていることを知っていた気がする。兄さんは、率直に言えば、生に希望を持っていた。生きんと欲する意志があった。兄さんの生きる原理は美であり、美を基調にして生きていた。兄さんの死に不可思議なところは一つもない。兄さんにとって美こそが「本物の世界」だったのであり、それを生涯で認識することができないとすればあまりにも深い落胆と絶望が襲ってくるのは必至だろう。兄さんは生の原理で生きていた。だから死んだのだ。僕は死の原理で生きている。だから生きているのだ。この逆説。僕は「本物の世界」から疎外されてても一向に構わない。「もともと生なんてハリボテじゃないか」という僕の心に沈殿し、固着し、自分でも意識化できなかったものが意識できるようになっただけのことだ。しかし、しかし、絶望という、手垢のついた言葉を使えない僕は、しかし、しかし、「本物の世界」を夢想せざるを得ないのだ。兄さんの言っていたように、死すら偽物の世界では絶望すら偽物なのだ。しかし、絶望の反転、希望ですら偽物であり、「本物の世界」への憧憬すら偽物なのだ!真理への意志の欺瞞。全てが偽物になった世界で、唯一価値のあるものは、「生」もしくは「欲望」だけではないか?生は偽物ですら価値のあるものではないのか…?これは認識の問題であり、パースペクティヴの問題だった。けれども欲望が価値を決めるというのならば話は簡単なのだが、すでに「価値」は「本物の世界」に放擲されている。そして「本物の世界」への通路は固く閉ざされている。兄さん!僕は兄さんのことを思った。僕の思考過程が矛盾でしかない。僕は先ほど偽物の世界でも一向に構わないと言ったが、そのあとすぐ「本物の世界」を夢想せざるをえないと言っている。この世界と「本物の世界」はなんらの交通を持たないにも関わらず、僕たちの思考の根源を歪めてくる。兄さんは気が狂ったんだ。自分の持っている縄、そしてそれで首をくくる決意、そしてその行為そのもの、それらが全てフェイク、つまり劇場でのことなのだ。僕は全く途方にくれた。
僕は次第に学校へ通うのが億劫になっていった。僕もあの退廃的な思想にとりつかれる寸前なのかもしれない。「本物の世界」があり、ここは偽物の世界である。けれど、僕の十八年間はつつがなく過ぎていたではないかという思いも拭えない。けれど僕に影が出来始めたのは確実なようで、兄さんのように、花を見ても絵画を見ても星空を見ても、何も僕の心臓を高ぶらせるものはないのだった。次第に兄さんのようになっていく自分を感じて危険を感じた僕は、恋人のチエに会うことにした。
「久しぶりだね、最近どう?」
「どうもこうもないよ、兄さんは死ぬし、宗教の宣伝はうるさいし、みんな死んだような眼をしているし、僕まで気が参りそうだよ」
「ここ最近、不穏なことがずっと続いて嫌だね。たかが哲学者が何かを証明したって、何も私たちは変わることないのに」僕はチエが「こっち側」の人間であることに安堵した。
「何が偽物の世界よ、どうせ最初から偽物みたいだったじゃない、勝手に親が産んで、何も知らずに死んでいく、偽物で何が悪いのかしら。私は相変わらず偽物の世界でユカ達と楽しく遊んでいるわよ。それに健次もいるし、それじゃ駄目なのかしら?」
「でもユカも健次も偽物らしいぜ」
「楽しかったらなんでもいいの!」とチエはキスをしてきた。僕は性的興奮を覚えたが、これも偽物なんだろうか。チエは粛々と性交の準備を始めていく。服を脱いで、下着を脱いで、チエの裸体があらわになった。僕はなぜか兄さんの遺書の一節を思い出した。「ギリシャの彫刻の美も偽物だ」軽く愛撫して、何かを取り戻したいという思いで、すぐに挿入した。チエは艶めかしい声で鳴いている。それがひどく空疎に響いた。膣の襞で感じる快感も、中身が虫に食われているような快感だった。僕は早く射精したかったので、腰の動きを速めた。チエは何かの楽器のように思えた。目の前にある、裸体の生々しさに、僕が追いついていけなかった。この生々しさ、リアリティ、そういうものの速度に、僕は置いていかれる。裸体の速度についていけない。性器に熱い感覚がやってきて、僕は射精した。虫食いの快感が性器に集中した。僕はチエについていけない、と強く思った。偽物の世界では、点在する快楽を転々としながら生きければならない。僕はその速度に追いつけない。
「どう?"本当"に気持ちよかったでしょ?」
「うん、多分…。」
その夜、総理大臣が会見を開いた。「本物の世界」の説は間違いだったこと。証明に穴があったこと。
僕は何も分からない。これは思想統制なのかもしれないし、本当に哲学的に間違いがあったのかもしれない。
でももう手遅れだった。人民の頭にはもう、「本物の世界」への憧憬と、偽物の世界への侮蔑しか残っていない。「本物の世界」の僕は、うまくやってるんだろうか、と思いながら、僕は自分の手のひらを眺めた。
僕がそのニュースを知ったのは、SNSからだった。【悲報】この世界、偽物だった、という記事をタップしてみると、ノーベル賞を貰っているような科学者が、これは世界がひっくり返るようなことです、とインタビューで答えていた。本当に悲報らしかった。難しい数式などは僕には分からなかったが、パラレルワールドといったものとも違うらしい、「本物の世界」がどこかにあることが証明されたらしい。それはプラトンという哲学者(僕は哲学という言葉を聞くだけでも嫌になる)が提唱したイデア界(哲学者は専門用語を使うから嫌いだ)というものによく似ているらしい。ふんふんと読んでその次の記事をタップした。また芸能人が不倫したらしい。夕飯時に、テレビを見ていると、なんとテレビにお坊さんが出ていた。浄土真宗という宗派のお坊さんで、仏教は元々この世は幻想だと説くとか、「本物の世界」とは極楽浄土だとか真如だということを言っていた。僕はさっぱり分からずに、チャンネルを変えて、歌番組を見た。
次の日の高校の教室は、いつもより二割ほどざわめいていた。席につくと、いつものように親友の翔太が駄弁りにやってくる。
「なあ、見たか?この世は偽物です、っつーニュース。」
「ああ、見たよ。でも僕には難しくて良く分からなかった」
「お前は馬鹿だなあ、この世は偽物なんだって」と翔太は少し語気を荒げて言う。
「だから、それが分からないんだよ。昨日と今日で、何か変わったか?何も変わらないじゃないか。本物の世界って言ったって、この世界が何も変わらないなら桃太郎と変わんないよ」
と自分で言いながら、そうだろうか?と自分の中で反問した。この翔太が偽物なら、僕は一体誰と喋っているんだ?そもそも僕が偽物なら、本物の僕はどこにいるんだ?しかし、「昨日と今日とで何も変わらないじゃないか」という自分の言葉を反芻し、僕は心に浮かんだ曇天を晴らそうとした。けれどもたちまち暗雲がたちこめ、僕はなんだか薄気味悪い気分になるのだった。
ホームルームでは、ニュースのことは気にしないで、受験勉強に集中しましょうという旨のことが言われた。大人たちが僕たちに何か隠しているようで、余計しゃくだった。十分休憩になると、また翔太と議論した。
「つまりな、この世界は偽物なんだ。それはさっき聞いたって顔してるな。偽物で何が困るんだっていう顔もしてるな。何も困らないよ。このまま日常が続いていくだけさ。でもな。偽物っていう概念は、本物という概念があってこそ成り立つんだ。」
ふんふんと僕は翔太の話を黙って聞いていた。あとから知ったのだけれど翔太の話は全てネットの受け売りだったらしいが。
「だから、人間とかだけじゃなくて、概念とかも、全部偽物になっちまうんだ。例えば、友情とかな」と言って翔太はこっちの方をチラっと見た。僕の意見を求めているようだった。
「例え僕たちの友情が偽物だったとしても、僕たちは友達じゃないか。それは変わらないだろう?僕たちは現に友達で、こうやって教室で話してるじゃないか。」
「その友達っていう概念も偽物なんだ。俺たちは「本物の世界」を知ることはできないが、きっとそこでの友情はもっと劇的なものなんだろうよ」と翔太は投げやりに言う。
「でもその「本物の世界」が僕たちに認識できない限り、本物と偽物を比べることはできないんじゃないか?」
「認識はできないけど、証明されたってのが問題なんだよ。イデアの問題なんだよ。」
「イデアってなに?」
「本物ってことさ」
僕にはまだ、何が問題なのかピンと来てなかった。僕たちは産まれてから十八年間この世界で生きてきて、なんの問題もなかったじゃないか。本物の世界が発見されたからって、日常の何が変わるのだろう?
放課後、一人で東京を歩いてみる。人類のめざましい発展の象徴であるビル群が立ち並んでいる。これらの人類の歴史の堆積も偽物だったのだろうか?頭の中で翔太の声がする。
「歴史のイデアがあるんだよ」無言で立ち並んでいるビル群を僕は眼で触るように見ながら歩く。「本物の世界」があるとしたら、この灰色の屹立した物体とは別の物が見えるんだろうか。「本物の世界」を一目見てみたいと思ったが、ビルを触りながら、この手触りが偽物であることがあるだろうか?と不思議に思った。だって、僕は今このビルの手触り、コンクリートのごつごつしてざらざらした感覚を感じているじゃないか、これは事実ではないだろうか?僕の手のひらと、ビルの間にあるこの言語化できない感覚、これは偽物なのだろうか?偽物の本物なのか?いや、本物の偽物なのか。頭がこんがらがってきた。僕は考えるのをやめて、帰途についた。
母親が妙によそよそしかった。「あんたなんて偽物の息子なのよ!」とでも言われると思ったが、さすがにそんなことは言われなかった。昼のワイドショーを見て、この気が沈む新思想をさぞ吸い込んだのだろう。しきりに自分の手のひらを眺めていた。僕はその手のひらを新奇な眼で見るという行為を、学校の人間や道ゆく人がしていたのを思い出した。手は身体のうちでも一番自由がきき、人体の要になる場所だ。僕は人々が偽物という概念と戦っているのをただ見ていた。「本物の世界」から溢れる光は、確実に僕たちを蝕んでいた。「本物の世界」から放射される光は、僕たちを全て影の如きものにしてしまうのだ。
胸騒ぎがする。脆い人間は、この耐えがたき思想をかわせるのだろうか。この思想は人をニヒルに引っ張っていく力があるのではないだろうか。「本物の世界」と「虚無」との間の、どこに僕たちは位置するのだろうか。人々はみな、僕のように震えているに違いない。胸騒ぎがする。
「ジャーン、今日はハンバーグよ」母は明るさを装っているがやはり顔には不安の皺が刻まれている。僕は狼狽している人たちの心の声が聞こえる気がする。つまり
「これも偽物なのか?」
という絶叫に近い呟きであり、それは人から生きる力を奪うものに思えた。
「"本物"のハンバーグよ、ゆっくり食べてね、今日はいい肉を使ったから」母親は本物という言葉を少し強く言った。それがおかしくて僕は笑った。僕の不安を和らげようとしたのだろう。この偽物の息子の僕の偽物の不安を。
翌日から、テレビではこのニュースは一切放送されなくなった。やはり危険思想だとみなされたのだろう。これは国民の不安を煽る思想だ。ただ、一度放たれたミームは、インターネットや口コミを通じて、無限に増殖していく。世界が、日本が、街が、どんどんおかしくなっていった。
まず、一か月ほどして、新興宗教が乱立した。触れ込みはこうだ。「本物の世界を知りたくありませんか?」もしくは「本物のあなたになりませんか?」一晩にして偽物にされた僕たちは、当然の帰結の如く「本物の世界」を望んだ。「本物の世界」の本物の自分になることを望んだ。それが宗教的形態をとるのも頷ける。どちらも見えない世界を取り扱うからだ。けれどその新興宗教はお粗末なものが多かった。教祖の体液を摂取すれば本物の自分になれるだの、一千万円喜捨すれば本物の世界が見えるだの、詐欺に近いものが多かった。実際に訴訟事件もたくさん起こった。こういうくだらない、新興宗教が客をとるためにそこかしこで宣伝をしていてとても目ざわりだった。目ざわりで済めばよかったが、凄惨な事件が起きてしまった。テレビは厳重な報道規制がかかっているようであまり放送されなかったが、詳細はネットで簡単に見ることができた。
松戸五郎、という男が教祖(信者には自分のことをトゥルーマンと呼ばせていた)の「善白教(ぜんぱくきょう)」という宗教が社会的事件を起こした。どうもこの教団の教義は「死後に本物の世界がある」というもので、荒唐無稽なものだったが、むしろキリスト教や浄土教(僕はこの一か月、受験勉強をサボって、宗教や哲学の勉強をした)という世界宗教と比べて宗教のあり方に忠実であったとも言える。死後に真実の神の国があるというのは伝統的宗教が教えるところだ。善白教が問題になったのは、死こそ「本物の世界」へ至る唯一の通路だと説いて、一般人を積極的に殺害することが奨励されていたことだ。善白教の教徒は、積極的に家族殺しをした。一番に「本物の世界」へ行って欲しいのは家族なのだから、当たりまえだろう。善白教の検挙が遅れたのは、この頃家族殺しや一家心中が増えていたからだ。そして、善白教は生物兵器を作って、日本人を全て「本物の世界」へ導くという目標を建てた。信者の喜捨で作った、細菌兵器工場からの異臭騒ぎで、警察が介入し、トゥルーマンは逮捕された。トゥルーマンは常々こう言っていた。
「計画が失敗すれば、速やかに自殺をし、自分だけでも本物の世界へ行くこと」
トゥルーマンが逮捕され、善白教の信者は全員自殺した。八百人も死ねば、テレビ局も放送せざるを得ない。この事件は一大センセーションになり、国民の頭に「本物の世界」=死という観念を植え付ける要因になったようだ。実際に、それから自殺者が相次いだ。偽物の世界で生きていても仕方がないと言って死ぬもの、偽物の人間関係しかないなら意味がないといって死ぬもの、偽物の労働しかないならといって死ぬもの。死ぬ理由には事欠かなかった。そして、僕の兄の郁夫も自殺した。
「お父さん、お母さん、いや、あなたたちが本当に親なのかどうかも分からない。偽物の親なのだから。僕は気が変になってしまったのかもしれません。世界の何を見ても、例えば花を見ても、森を歩いても、夜空を見上げても、僕にはなんの感興も湧かない。むしろ僕にはそれが酷く虚しく感じるんです。全ての美が偽物ならば、生きている意味があるでしょうか。全ての友情が虚妄ならば、人と手を繋ぐ意味があるでしょうか。全ての愛が、この場合の愛は親子愛のことですが、親子愛も偽物ならば、僕はなぜこの遺書を書いているのでしょうか。僕は今酷く絶望的な感情に襲われているのですが、それすらも偽物で、その観念により絶望感が倍化されて、無限に偽物の絶望感が繁殖していきます。芸大に通っている僕にとっては、美こそが全ての基準でした。けれどあの美しいギリシャの彫刻ですら偽物なのです。僕が共鳴した、あの美しい殉教者達ですら、偽物なのです。僕に光は消えました。偽物の太陽、という字面ですら僕の生命を奪うのに充分でしょう。あの生の象徴である太陽、あの太陽が偽物ならば、僕たちはいますぐ死ぬべきです。僕は馬鹿です。「本物の世界」という「観念」のために死んでゆきます。論理的仮構物、いや、論理的実在物のために死んでゆきます。偽物の僕は死んでいきます。僕は宗教を持っていないので、死後に「本物の世界」があるとも思っていません。僕は死んでいきますが、泣かないでください。それは偽物の涙なのですから あなた方の偽物の息子より」
けだし、僕は思うのだが、全てが偽物であるならば"死もまた偽物であるのではないだろうか?"
昔から抱いていた、虚無の箱が開きかかっている。僕はどこの馬の骨か知らない哲学者の証明を待たなくても、この世が「本物の世界」から疎外されていることを知っていた気がする。兄さんは、率直に言えば、生に希望を持っていた。生きんと欲する意志があった。兄さんの生きる原理は美であり、美を基調にして生きていた。兄さんの死に不可思議なところは一つもない。兄さんにとって美こそが「本物の世界」だったのであり、それを生涯で認識することができないとすればあまりにも深い落胆と絶望が襲ってくるのは必至だろう。兄さんは生の原理で生きていた。だから死んだのだ。僕は死の原理で生きている。だから生きているのだ。この逆説。僕は「本物の世界」から疎外されてても一向に構わない。「もともと生なんてハリボテじゃないか」という僕の心に沈殿し、固着し、自分でも意識化できなかったものが意識できるようになっただけのことだ。しかし、しかし、絶望という、手垢のついた言葉を使えない僕は、しかし、しかし、「本物の世界」を夢想せざるを得ないのだ。兄さんの言っていたように、死すら偽物の世界では絶望すら偽物なのだ。しかし、絶望の反転、希望ですら偽物であり、「本物の世界」への憧憬すら偽物なのだ!真理への意志の欺瞞。全てが偽物になった世界で、唯一価値のあるものは、「生」もしくは「欲望」だけではないか?生は偽物ですら価値のあるものではないのか…?これは認識の問題であり、パースペクティヴの問題だった。けれども欲望が価値を決めるというのならば話は簡単なのだが、すでに「価値」は「本物の世界」に放擲されている。そして「本物の世界」への通路は固く閉ざされている。兄さん!僕は兄さんのことを思った。僕の思考過程が矛盾でしかない。僕は先ほど偽物の世界でも一向に構わないと言ったが、そのあとすぐ「本物の世界」を夢想せざるをえないと言っている。この世界と「本物の世界」はなんらの交通を持たないにも関わらず、僕たちの思考の根源を歪めてくる。兄さんは気が狂ったんだ。自分の持っている縄、そしてそれで首をくくる決意、そしてその行為そのもの、それらが全てフェイク、つまり劇場でのことなのだ。僕は全く途方にくれた。
僕は次第に学校へ通うのが億劫になっていった。僕もあの退廃的な思想にとりつかれる寸前なのかもしれない。「本物の世界」があり、ここは偽物の世界である。けれど、僕の十八年間はつつがなく過ぎていたではないかという思いも拭えない。けれど僕に影が出来始めたのは確実なようで、兄さんのように、花を見ても絵画を見ても星空を見ても、何も僕の心臓を高ぶらせるものはないのだった。次第に兄さんのようになっていく自分を感じて危険を感じた僕は、恋人のチエに会うことにした。
「久しぶりだね、最近どう?」
「どうもこうもないよ、兄さんは死ぬし、宗教の宣伝はうるさいし、みんな死んだような眼をしているし、僕まで気が参りそうだよ」
「ここ最近、不穏なことがずっと続いて嫌だね。たかが哲学者が何かを証明したって、何も私たちは変わることないのに」僕はチエが「こっち側」の人間であることに安堵した。
「何が偽物の世界よ、どうせ最初から偽物みたいだったじゃない、勝手に親が産んで、何も知らずに死んでいく、偽物で何が悪いのかしら。私は相変わらず偽物の世界でユカ達と楽しく遊んでいるわよ。それに健次もいるし、それじゃ駄目なのかしら?」
「でもユカも健次も偽物らしいぜ」
「楽しかったらなんでもいいの!」とチエはキスをしてきた。僕は性的興奮を覚えたが、これも偽物なんだろうか。チエは粛々と性交の準備を始めていく。服を脱いで、下着を脱いで、チエの裸体があらわになった。僕はなぜか兄さんの遺書の一節を思い出した。「ギリシャの彫刻の美も偽物だ」軽く愛撫して、何かを取り戻したいという思いで、すぐに挿入した。チエは艶めかしい声で鳴いている。それがひどく空疎に響いた。膣の襞で感じる快感も、中身が虫に食われているような快感だった。僕は早く射精したかったので、腰の動きを速めた。チエは何かの楽器のように思えた。目の前にある、裸体の生々しさに、僕が追いついていけなかった。この生々しさ、リアリティ、そういうものの速度に、僕は置いていかれる。裸体の速度についていけない。性器に熱い感覚がやってきて、僕は射精した。虫食いの快感が性器に集中した。僕はチエについていけない、と強く思った。偽物の世界では、点在する快楽を転々としながら生きければならない。僕はその速度に追いつけない。
「どう?"本当"に気持ちよかったでしょ?」
「うん、多分…。」
その夜、総理大臣が会見を開いた。「本物の世界」の説は間違いだったこと。証明に穴があったこと。
僕は何も分からない。これは思想統制なのかもしれないし、本当に哲学的に間違いがあったのかもしれない。
でももう手遅れだった。人民の頭にはもう、「本物の世界」への憧憬と、偽物の世界への侮蔑しか残っていない。「本物の世界」の僕は、うまくやってるんだろうか、と思いながら、僕は自分の手のひらを眺めた。
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