原口 | 人生入門

人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

原口

眼前には一点も光を含まぬ大海が広がっている。死を連想させるその荒々しい黒さ。僕は今、やっと虚無と和解できたような気がする。こうやって、ぼうっと深夜の海の虚無と語らいながら、僕はいろいろなことを思い出した。僕は丸ごと虚無と化そうとしているのであるから、過去も清算せねばならぬ。この世に借金がある限り、死ぬことはできない。

僕は末っ子として産まれた。その時より僕の運命は決まっていたように思う。僕は赤子のときの記憶をはっきり持っている。お母さん、お母さんの乳ばかり吸っていた。僕が末っ子だったというのは本当に神様のいたずらだろう。僕はお母さんの胸で、百パーセントの愛と安心と曖昧さを味わいつくすことができた。兄たちの嫉視を、快感に換金して、僕は母親の胸を、全て食べつくした。僕はこの時代を幸福だとは呼びたくない。注釈付きでなら幸福と言ってもいいだろう。カギカッコつきの「幸福」だ。僕は甘やかされ過ぎたのだろう。一度も親から叱責を受けたことがない。僕はその時から嘘つきだった。腹も減ってないのに泣き出すことがよくあった。お母さんはまんまと騙されて、僕に、その豊満な乳房を差し出す。神人合一、子宮感情、口唇期固着、なんと言ってもいいが、僕は母親の甘すぎる愛の中で育った。全く甘すぎた。赤子に乳をあげている、銅像を見たことがある。その際、僕は、これは僕の幼児期を端的に表していると感じた。母親の乳房に噛みつきながら、親子でチョコレート塗れになっている僕たち…。僕が青年期になってから甘いものが苦手になったのも無理はない。
母親は僕が地獄へ堕ちないように、手で支えている。絶対的な安らぎ。安心感。僕の半生は、これらに反抗するためだけにあった

大学生活の話をしよう。僕には実際、この二つしか人生というものがないのだ。安心と虚無の間、チョコレートとナイフの間にあった期間は、僕にとって人生と呼べるものではなかった。中途半端で、生きる価値のない時間だった。
大学生になった僕は、詩を書くようになった。友人からも天性の詩人と言われ、僕は自分は詩を書くために生まれてきたのだと思った。僕はまだその頃安心と怯懦の中にいた。僕が「回心」したのは、先輩から聞いた、この言葉だった。
「君、ランボーこそ、男の中の男だよ」
僕の中で何かが弾けた。僕の心の中にあった、オアシスが全て枯れ、森が全て砂漠になってしまったようだった。頭が沸騰し、興奮し、あるいは勃起していたかもしれない。詩に回れ右をして立ち去ったランボー。僕は恥じた。己の虚栄心、怯懦、安逸を恥じた。パンパンに膨れ上がった風船ガムが割れる音がした。僕はこのとき割れたのだ。
 「君、ランボーこそ、男の中の男だよ」
という言葉によって、僕の「幸福」はご破算になったのだ。「男の中の男」によって僕の「幸福」に生えている木々は斧によって全てなぎ倒され、花畑は荒らされ、僕の精神は赤茶けたものになってしまった。砂漠。母親から貰った母乳は全て枯れてしまった。僕はもうこの時、死を決めたと言ってもいい。この時から、僕の公理は「純潔」であり、人生に回れ右をして立ち去ることだったのだから。
脳内のレコードを蓄音機に入れてみる。橋本とカフェで議論をしたときのことだ。
「君、君、僕が言っているのは思想ではないんだよ、もう現代に思想というものは死んでいるんだ。ただ、政治があるだけなんだ。だから自己主張をしようとするものは、政治力を持たねばならない。現代はソフィストの時代なんだ。そして僕は、ソフィスト中のソフィストと言ってもいいだろうね。自分の言っていることすら信じていないのだから。ただ、明確な敵は存在する。それは虚無、そして安心と幸福だ。それは分かるね、分かるね。そして思想で武装することはできないんだ。僕はもう自分の肌の感覚しか信じることしかできないんだ。」
「けれどもそれはニーチェ主義じゃないのかい。無思想といった思想という意味では原始仏教とも似ている。君は思想を持っているよ。主義すら持っている。無主義という主義をね」
「君、その言葉すら反転できるのだよ、僕は。俺は無主義主義だ!と叫ぶこともできるし、主義なんて言葉の綾だと言うこともできる。思想とは、表現なんだ。そして表現は無限にあるんだ。表現の可能性だけ、思想がある。ということはとある思想イコール表現の、全く逆さまの思想イコール表現も当然ありうるということになるね。そしてね、僕が肌の感覚と言ったのは身体的な意味ではないんだ。これは僕の発明した言葉なんだけれど、僕には「精神の肉体」がある。こいつはいつも眼をギョロギョロさせて、獲物を見つけようとしている。ある思想があると、そいつをトッ捕まえて、「批評」をしてしまうんだ、そいつは。そしてその思想をこねて団子にすることもできるし、反転させて爆殺することもできる。分かるね、つまりね、僕の精神の王座には「精神の肉体」が鎮座していて、全ての主義主張を冷笑することもできるし、さも着こなすこともできるし、自由自在なんだ。そしてね、僕は自殺すると言っただろう?それはこの精神の肉体を殺すためなんだ。だってね、卑怯じゃないか?自分は何もせずに座っているだけ、そして他者を、言葉を、思想を、冷笑して、着こなして、飽きたら捨てて、こねて、バラバラにして、煮込んで…。卑怯だ!僕は誠実に生きたいんだ。そのためには死も辞さない。生命より誠実さのほうが僕にとっては重要なんだ。これは思想じゃない。「徳」の話だ。」
「君は少し、青年特有の自意識過剰に陥っているんじゃないかと僕は思うよ。その、精神の肉体?だっけ?それが自由自在で卑怯だというのも、君がまだ、青年で、確固としたアイデンティティを確立していないからだと思うんだ。君は大学で教養をつけ、社会へ出ていくだろう。そして君はなんらかの役割を押し付けられる。精神の肉体は、その役割を着るまでは自由自在だが、一度家族でも持ってみなよ、君は精神の肉体ではなく、父親だぜ。」
「そうじゃないんだ、そうじゃない。否定してばかりで申し訳ないが、そうじゃないんだ。自意識は、必然性と妥協しないんだ。そしてそれが僕の唯一の行動原理なんだ。荘厳な場所、例えば葬式で卑猥な言葉を絶叫すること、これが自意識なんだ。精神の肉体なんだ。僕は今から、全裸になって、カフェの中でオナニーをすることもできる。」
「じゃあしてみろよ、できないじゃないか。それが必然性に妥協しているということだよ」
「いいだろう、してやる。」
と言って、僕はジャンパーを脱いだ。その時点では橋本はまだハッタリだと思っていたらしい。上着を脱いで、下着を脱いで、上裸になった。そしてズボンを脱いで、パンツ一丁になったところで、橋本が止めに入った。
 「君は少し頭がおかしいんじゃないか?失恋でもしたのか?荒れすぎだよ」
「言っただろう、僕はいずれ死ぬ男だ」

海が風にさらわれる音がする。精神の肉体は自分で自分を持ち上げられないのだ。自分の眼を自分で見ることはできないのだ。他者だけを裁き、己については盲目というのは、端的に卑怯だ。そしてそれは人間の根本構造なんだ。キリスト教ではそれを原罪と言い、仏教では無明という。しかし僕に救済はない。救済というのは、他者に己を許してもらうことだ。それは他人が自己に介入することを許容することだ。僕は許容を憎む。なぜなら許容は許容を生むからだ。

 海は、青くても黒くても、お母さんの乳房を思い出させる。僕はいずれ死ぬ男だ…。

 誠実さ、誠実さの切っ先が僕の心臓に向かう。僕は生きすぎた。僕はもう自分を誠実であったとも言うまい。
 沈黙の国に旅立つ前に、深く謝罪しよう。
「僕は最後まで誠実ではなかった」と。

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