手紙 | 人生入門

人生入門

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再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

手紙

 残念なお知らせがあるんだ。ドイツへ留学している君へは直接言えないから、手紙という形になってしまうが、僕はどうやらスキルス胃癌という、悪性の腫瘍らしい。スキルス胃癌というのは僕もよく分からないんだが、悪性の内でも更に悪性らしいんだ。どうやら僕の病院嫌いがたたったようで、自業自得のような気もするけれど、それはそれとして、僕のこの字を見てくれ。字が震えているだろう。手が震えて上手く文字が書けないんだ。僕はどうやら、今、強度の怒りの中にいるらしい。第一志望へも受かって、これから人生が始まるという時に、死の宣告を、いや、まだ死ぬと決まったわけじゃないんだ。ステージは2で、転移はしていないらしい。けれど大学へ通うのは不可能だと医者に言われてしまったよ。胃の中にできた小さなイボのせいで、受験勉強もキャンパスライフも全部パーだ。お釈迦だ。僕は生きるよ、生きる。とりあえず今日は、病状の報告まで。君は僕の分まで勉強しておくれよ。

お返事頂きました。ドイツでの生活、なかなか苦労しているようですね。カルチャーショックが多いと書いていたけど、僕もなかなか病院のカルチャーに適応するのに苦労しているんだ。まず毎朝、看護師が採血だのなんだのしてくる。これがいけない。僕は血が苦手なんだ。君も僕が幼稚園児の頃、自分の血を見て卒倒したのを覚えているだろう。採血はいけない。頭がくらあっとして、まるで魂を吸われてるみたいなんだ。僕は基本的に眼を瞑って採血しているんだが、昨日、眼を開けてしまってね。僕の血は黒かったよ。真っ黒だ。腹黒いから血も黒いのかもしれないな。
しかも毎週、胃の中のイボが転移してないか検診があるんだ。ドイツにはこんなカルチャーはないだろう?しかもね、同室の人たちがちょっと癖があるんだ。みんな同じ病人だから、悪くは言いたくないが、特に、ちょうど隣のベッドにいるお爺さん。こいつは駄目だ。一日中独り言を言っていて、狂人かと思っていたんだが、なんとずっと念仏を言ってるんだ。なんまんだぶ、なんまんだぶ、だぜ。全く気味が悪いよ。縁起が悪い。他にも「同居人」には変な奴が多いんだが、それはまた別の機会にでも書くよ。昨日ちょうど検診だったんだが、癌は大きくも小さくもなっていないってさ。ドイツはビールが美味いんだろ。僕もまた君と酒でも飲みたいな。じゃあこの前の手紙にも書いたと思うけど、君は僕の分まで勉強頑張ってくれよ。

 お返事読みました。君にしてはやけに短い手紙だったね。やっぱり勉強で忙しいんだろうね。全く羨ましいよ。幼馴染の君には泣き言を言ってもいいだろうか。母親なんかはよく見舞いに来てくれるんだけどね、やっぱり肉親に弱みを見せるのは恥ずかしいんだ。こういうときに恋人でもいればいいんだけれど。
ずっと字が震えているだろう?自分の抱いているものが、恐怖なのか、怒りなのか、悲しみなのかすらも分からないんだ。ただずっと頭にあるのは「不条理」という言葉で、この言葉が頭の中からガンガン叩いてくるんだ。「何も悪いことしてないのに」という思いが頭をガンガン殴ってくるんだ。あるいは、僕は何か悪いことをしたのかもしれない。君は僕が小学生の時に万引きをしたのを覚えているか。どうもそのことが忘れられないんだよ。
悪には罰がくだるのかもしれない。でも君だって女癖の悪さは一級品だぜ。最近隣の念仏お爺さんと仲良くなったんだけれどね、仏教には因果の道理って言って、悪いことをしたものには苦しみが、善いことをしたものには楽が与えられるって教えられるらしい。君も女遊びはほどほどにしておかないと、僕みたいに胃にイボができちまうぞ。僕もどうやら弱気の虫がわいて迷信深くなってきたらしい。例の邪悪なイボは転移も増大もしてないそうだ。じゃあ、また返信くださいね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 君の日本語ひどいぜ。ドイツに言って日本語を忘れちまったんじゃないか?「ご冥福をお祈りします」って最後に書いてあったぜ。僕はまだ死んじゃいないぞ。ただ最近、ひどく虚無的になることが多いんだ。ほんとに死んでいるのかもしれない。テレビはイヤホンをつければ見れるんだけどね。最近はずっと白い天井を眺めている。そして、たまに腕を天井に向かって伸ばして、手のひらを見るんだ。自分が生きてるのを確認するためにね。実際僕はもう死んでいるのかもしれない。誰のためにもならない生って、意味があるんだろうか。僕はこの年になって初めて淋しいという言葉の本当の意味を知ったよ。若い男性が、女の尻を追っかけるでもなく、勉学に励むのでもなく、グレるのでもなく、念仏を称えるお爺さんの横で真っ白い天井を見ているんだ。それが淋しいという言葉の意味だ。僕はひどく淋しいんだ。嫌な言い方だが、君には分からないだろう。僕はひどく淋しいんだ。僕はまだ絶望しちゃいない。希望を持っているよ。けれど、僕はひどく淋しいんだ。この手紙を受け取っただけでいいから、日本の東京の○○病院にいる僕のために祈ってくれないか。どうも弱気になっていけない。来週は手術をするそうだ。祈ってくれ。祈ってくれ。イエスにでも阿弥陀にでもシヴァにでもいいから祈ってくれ。

 手術は無事終わりました。レントゲンで見えていた部分は取れたけれど、胃の中に転移していたらしい。けど他の臓器への転移はないから、まだ命は大丈夫だって言ってたよ。もしかしたら胃の全摘出をするかもしれないと言われた。まあ病気のことはいいんだ。医者に任せれば。だいぶ前の手紙で、「同居人」の話をすると言ったね。念仏お爺さん以外にも、同居人が二人いるんだ。まだ十六ぐらいの女の子と、アラサーに見える無口な男だ。気恥ずかしくて手紙には書いてなかったんだけれどね、この娘は僕に気があるかもしれない。僕が母親に病院食は不味い、肉だけは美味い、と言っていたのを聞いていたんだろうが、肉が出るたびに「私、お肉苦手なので食べてください」と言って肉をくれるんだ。本当に肉が嫌いなのかもしれないがね。女たらしの君は童貞の自意識過剰だと笑うかもしれない。実際にそうなのかもしれない。でも綺麗な子なんだ。少し影があってね、でも無邪気で可愛いんだ、基本的にはね。彼女も癌だそうだ。アラサーの男の方は、もっと何を考えているか分からない。サイコパスってこういう奴のことを言うんじゃないかと思うよ。急に夜中にみんなが寝静まっている中で「あいつらが全部悪いんだ」とか「殺してやる」とか叫ぶんだ。気持ち悪いだろう?僕はあまり関わらないことにしている。触らぬ神に祟りなしっていうだろう。

 今日の手紙は酷く短いものになるかもしれない。また字が震えているだろう。転移が見つかったんだ。

君、病院に電話をかけただろう。そういうことはよしてくれ。病院側は守秘義務があるから何も答えないよ。金輪際こういうことはやめてくれ。僕は怒っている。今回の手紙もこれまでだ。

 ドイツの暮らしぶりが眼に見えるような文章だったよ。僕が怒っているから君も長文で僕が楽しめるような手紙をよこしたのだろう。まるで小説みたいだったよ。ドイツ人の恋人ってのは可愛いのかい?今度写真でも同封してくれ。もう女遊びはするなよ。
 癌患者に言うお決まりのセリフがあるらしくてね、「今」を精いっぱい生きよう、ってのがあるんだ。僕はこいつが全く気に食わない。お前たちには未来がないって言ってるのと同じじゃないか。僕はまだ十九歳だぞ。今を生きるって言ったって、テレビを見るか真っ白い天井を眺めるかしかないんだ。生きるってなんだ?君はしっかり生きているように思う。好成績でドイツへ留学して、恋人も作って勉学に励んで、将来のために勤しんでいる。君は生きている。こう病室で何もやることがないとね、いろいろ考えるんだ。ただ心臓が動いていて呼吸をしているのは生きていると言わない。こういうのは植物的な生だ。そしてその上に動物的な生があって、そのまた上に君みたいに人間的な生があるんだ。僕は全く植物だ。人間と鉱物の間にあるんだ。いや、意識がはっきりしている分、植物より厄介な命かもしれない。僕は命をもてあましている。もう早く死んでしまいたいと思うことがあるよ。

病室内での会話が気になると手紙に書いていたね。実は僕は病室内では結構社交的でね、意外だろう?昨日の会話をできるだけ思い出して書いてみようか。
「お爺さん、そんなに絶えず念仏称えてて疲れないんですか」
「そら疲れるわ」
「たまには称えない日もあっていいんじゃないですか?」
「わしからこれとりあげたら、煩悩しか残らん。阿弥陀様に助けてもらうんだから、しっかりお礼せんといかん」
「念仏ってお礼だったんですか、僕も念仏称えれば極楽浄土へ行けますかね?」
「そりゃな、信心がないといかれん。」
「なんで阿弥陀様は僕を助けてくれないんですか」
「そりゃ阿弥陀様に出会わなきゃ、助けるも何もないでな」
かなり端折っているが、こういう神学問答をやった。僕は仏教というものに点で縁がないもんで、お爺さんの言ってることはさっぱり分からん。どうやら信じれば浄土へ行けるらしいが、もう老人しか信じていない迷信だろう。古い思想だ。僕らには関係ない。死んだら浄土で楽ができると信じれたらどれだけ幸福だろう!しかし僕が癌に強姦されて死んでも、そこは茫漠たる虚無なのだ。ああ、淋しい。
 例の少女との会話も再現してみようか。
「今日のワイドショー見ました?」
「音だけ聞いてたよ」
「まさかあの人が不倫するとは思いませんでしたね」
「不倫してから名前を知ったよ、俳優なのか?」
「最近結婚したばっかりのお笑い芸人ですよ」
「僕も不倫ぐらい、人生でやってみたかったなあ」
「不倫は駄目です!禁止です!」
例によって端折ったが、こんな感じだ。つまらん会話と思うだろう。実際つまらんよ。僕は早く退院して、君みたいに女と遊びたい。

 恐らく僕は死ぬだろう。君はいつも歯に何か挟まったような書き方をする。僕に遠慮しているんだろう。自分だけ悠々自適にドイツで過ごして、僕は病気でこんなんなんだから。僕に遠慮する必要はないよ。君が罪悪感を覚える必要は全くない。僕の運が悪かっただけさ。でもね、こうやってもう死を半分受け入れているような自分が嫌いなんだ。分かるだろう?僕は希望を棄てたくないんだ。生きたい。君の率直な意見が聞きたい。君の思想が聞きたい。

 返事読みました。忌憚のない意見をありがとう。僕のために毎日祈っているとのこと。最近は感情が鈍麻していますが、涙が出ました。
 君はどんな生にも価値があると断言した。死産した赤子にも価値があると断言した。これは決して僕への慰めではあるまい。君の思想というか、美学であろう。巷では、生産性のない人間は切り捨てるべき、という思想が流行っているが、君はそうではないのだね。僕は君がそういう人間だということを知っている。君は誰にでも祈る男だ。けれどそれは、生命というものへの信仰ではあるまいか。死ぬべき人間もいる、と断言する勇気が君には欠けているのではないかと思う。君はヒトラーの生命の価値を信仰できるか。僕にはできない。それは盲目というものだ。君は少しナイーヴすぎる。僕も、病人が病人であるだけで死ぬべきとは思わない。ただ、君の生命賛歌は幼稚なものだ。生命とはもともと殺し合って生きているものだろう。君は、無自覚な信仰者だ。盲目的に生命を信仰する阿呆だ。気を悪くさせてしまったらすまん。明日に手術が迫っていて、少しカリカリしているんだ。君が念仏を盲目的に信じるお爺さんと同じでないことを願うよ。

手術は可もなく不可もなくと言った感じで、僕はこれから抗がん剤治療をするかもしれない。
君は死すらも肯定するというのだね。極めて東洋的だ。君は悟りでも開いているのか。君は死が眼前に迫ってないからそういうことが言えるのだろうと僕は思うよ。君もいつか癌になったら分かるさ。震えて文字が書けなくなるさ。君が死を肯定すると安易に考えているのは正直癪に障る。僕には見えているものが、君には見えていない。死は絶対的な否定なんだ。全てを肯定することなんて不可能だ。君は挫折の経験がない。人間の心の暗い部分を知らない。君は昼のことはよく知っているが、夜のことは知らない。入院してから、眠れないことが増えたんだ。そういうとき、暗闇に身体が溶けるように感じるんだ。身体が溶け切ったあと、胃のイボだけがキュッと存在を主張するんだ。君の思想は、理想主義的で、浅いよ。けれどそれが君の長所なのかもしれない。僕はもう寝る。

サイコパスの奴、田代って言うんだけどね、ちょっとした事件を起こしたんだ。その日僕は病院の外にある池でも見ようと思って、外に出ようとしたんだが、田代に呼び止められてね、こう言うんだ
「念仏は好きか?」
僕はなんと答えていいか分からないから
「好きでも嫌いでもありません」
って言ったんだ。そうすると田代が女の子、この女の子もついでに名前を言っておくと佐藤というんだけど、佐藤さんにも同じことを聞くんだ
「念仏は好きか?」
佐藤さんはしどろもどろになって、けど何かを決意したようにこう言ったんだ。
「あんまり好きじゃないです。なんか死を連想するので」って。
「止めてやろうか?あの念仏機械」機械と言ったんだ、あのお爺さんのことを。ああ、お爺さんはこの時検診に行っててちょうどいなかったんだ。
「いえ、止めなくても大丈夫です」と震えた声で佐藤さんは言った。さぞ怖かっただろうに。眼も潤んでいたよ。普段何も喋らない年上の男に物騒なことを言われて。可愛そうな佐藤さん。
「俺はな、念仏が嫌いなんだ、いつも親が称えていたから。坊主の話も聞いたことがあるが、あれは子供騙しだね。ちゃんちゃらおかしいぜ。信じるだけで極楽浄土へ行けるんだとさ。全く子供だましだ。子供だましだ。俺はあの念仏機械がうるさくてしょうがない。親を思い出すんだ。俺の父親はね、俺の三歳の頃に蒸発したから俺は何も覚えちゃいない。ただ母親、俺はこの母親を軽蔑している。ずっと体を売って俺たちを養ってたんだ。片親にしては金を持ってるからそりゃクラスメイトも怪しむよな。そのせいで俺はイジメられたんだ。売春婦の子供だから。俺は売春婦の息子なんだ。母さんが売春なんかしたから、俺は癌になったんだ。親の因果が子に報いって言うだろう。ずっと俺は耐えてきたんだ。売春婦の息子であることを。俺には婚約相手がいたんだけれどね、そいつも過去に援助交際をしたって告白してきたから、すぐに棄ててやったよ。体を売った女は幸せになっちゃいけないんだ。体を売った女の息子も幸せになっちゃいけないんだ。だからこの年で癌になったときも何も驚かなかったね。むしろ清々しいよ。癌ってのは不幸の象徴だろ。みんなが腫物でも触るように憐憫のこもった眼でみてきてやがる。だけど俺はそれが心地いいんだ。俺は売春婦の息子なんだから。なんの話をしていたんだっけ。そうだ、念仏だ。母親は仏にすがることで、売春の罪悪感を消そうとしていたんだ。卑怯だとは思わないか。」
念仏のお爺さんが検診から帰って来なかったら、彼は癌で死ぬまで喋り続けていただろうね。彼は検診で息を切らして帰ってきたお爺さんにもこう聞いたんだ。
「念仏は好きか?」田代の眼は異常にぎらついていた。尋問するみたいだった。
「そうやねえ、念仏は、あんま好きじゃないなあ…。もう年やしねえ…」
驚いた。
「じゃあやめたらどうだ?」
「これはやめられん。助けてもろうたら、お礼を言うのが当たりまえじゃ」
「耳障りなんだ、俺はそのうち爺さんを殴っちまうかもしれないよ」
「そうなったら、その時やねえ…。」
田代はカッとなってお爺さんを殴ろうとしたんだ。僕が止めなかったらお爺さんは死んでしまっていたかもしれない。田代は僕のことを見て、舌打ちしてベッドの中に戻っていったよ。お爺さんはそれから少し念仏の数が減ってしまったが、やっぱり常に念仏をしているよ。僕はいつ田代がお爺さんを殴り飛ばすかを考えると恐ろしい気がするよ。じゃあ今日はこんなところで。
そういえばいつになったらドイツ人の恋人の写真を送ってくるんだ。返事待ってるよ。

君に言わなければならないことがある。実は僕の癌はステージ4なんだ。つまり末期がんだ。全身に転移している。もう絶対に助からない。それとね、僕はもう個室で療養しているんだ。言っている意味が分かるかな。つまり念仏のお爺さんも、田代も、佐藤さんも存在しないんだ。僕は君の中だけでも、希望のある青年でいたかった。君の中だけでも生きていたかったんだ。最初の手紙から、ずっと僕は嘘の報告をしていた。嘘の同居人の話をした。僕は生きたかったんだ。せめて、生き生き療養している姿を君に思って欲しかったんだ。全身に激痛が走って、これ以上はもう書けそうにないから、本当のことを書いたよ。もう僕は、二、三日の命だろう。この手紙がドイツにつく頃には、死んでいると思う。十九歳で志半ばで死んだ友達のために、少しでも祈ってくれ。さようなら。

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