明朗な悪意というものがある。無邪気、という言葉ほど人間に似つかわしくないものはないのであり、全ての人間は邪気で動いている。僕はそう信じている。無邪気な残酷さというのは形容矛盾である。
「もっと速く動かせよ」
とYが言うと、僕は機械のように自分の手の動きを速めた。僕は普段、徹底的な性的不能者であるのだが、こいつらの前では勃起してしまう。恐ろしいのだ、もし僕が勃起しなければ、僕はこいつらにもっと酷いことをさせられるだろう、そういう直感があった。こいつらの僕の勃起したときに見せる、火照った顔。その少女のような顔の裏には、戦争兵士のような残忍さが宿っている。現に、奴らの一人はバットを持っている。ガスのエアガンを持っている奴もいる。僕は拷問より屈辱を選ぶ。屈辱で死ぬ奴はいないから。
「もっと速く!」
と言って、Yは仲間のバットをひったくって、バットをしごき始めた。僕の手もYの手と連動するように動かす。男の不感症というのは聞いたことがない。きっと僕は今日も、この屈辱の中で、薄汚い快楽を感じるのだろう。精液が出てくる前に、涙が出てきた。汗も相当かいているし、僕は体液をまき散らす化け物で、射精が人類に対する唯一の抵抗なのだ。愚にもつかないことを考えているうちに、その瞬間がやってこようとしていた。3・2・1。ピュッと僕の精液は惨めに発射された。Yの仲間たちはアハアハと下品に笑っている。ひとしきり笑ったあと
「もう帰っていいよお前」
と言われたので、なぜかお辞儀をして帰った。僕は本当に体液の化け物で、ひたすら涙を流し続けていた。魂が傷つけられたものだけが流す涙を流していた。
その晩夢を見た。僕が好意を抱いている、佐伯という女の子の出てくる夢だった。
「またイジメられたの?だらしないわね」と言って僕のパンツをずらして、フェラチオをしてきた。
「こえ、吸って」と言って何か渡してきた性器から口を離して、少し後ろめたさのある声で言った。
「覚醒剤。」
吸った。死の淵のような快楽が襲ってきて、ペニスもすぐにイッてしまった。
「大丈夫、それ吸ったら何回でもできるから」
僕は、この女に強姦されている。膣のひだひだの中にペニスを挿入して、動いたが、童貞なのでどうも勝手が分からず、もごもごとぐずる子供のような仕草をしていると、佐伯が上に乗ってきた。乳房から汗が飛び出ていて、まるで母乳のようだった。殺される鳥のようにギャーギャーと喘いでいる。朝起きると、夢精していた。
僕の母親も、覚醒剤常用者だった。警察に首尾よく隠し通せた覚醒剤が、今でも家にある。注射器の先端は、人を狂わせる形をしていた。
いつものように、Yにひとしきりオナニーショーを見せていると、クラス委員の佐伯が止めに入った。先生に言うとかゴタゴタ言ってたが、正義ごっこだろう。僕がイジメられていようと世界は何も変わらない。僕は佐伯がイジメを止めたことを酷くつまらなく感じた。幻滅したと言ってもいい。佐伯だって人をイジメたいと思うことはあるはずだ。人間は全員邪気を持っている。これは僕の人生哲学だ。
「お礼したいから、今日家に寄っていかない?」
「いいわよ」
家に来た佐伯を、Yが僕に与えた屈辱の反作用の如く、殴りつけた。一発殴るだけで動かなくなった。この世は力が正義だった。佐伯は学校の先生という暴力を使ったからYに勝てたのだし、Yは仲間と武器という力があるから僕に勝てたのだ。女は本質的に弱い。正義に向いていない。僕は女が正義面するのが嫌いだ。気を失っている佐伯に覚醒剤を打った。数分後目を覚まして。何か意味の分からない呪文のようなものを唱えていた。僕は佐伯を強姦した。夢で見たのとそっくりな膣をしていた。佐伯は快感で狂っていたが、僕は覚醒剤を打っていないので、頭は極めて正常…。
どこからが夢だったか覚えていない。
Yのイジメはパタリと止んだ。僕はこれで汚辱にまみれたオナニーショーをしないでいいわけだ。僕はそれを酷く寂しいことだと思った。
母親が飲んでいた、睡眠薬を大量に飲んだ。恐らく致死量だろう。夢の中では佐伯との快楽へ溺れられる…。僕は一気に睡眠薬を飲み干して、永遠に快楽の夢を見続けた。
ぼくには意志がない。生まれてくるときもそうだった。ぼくは宿命論者でも運命論者でもないが、とにかく意志が薄弱、コンドームぐらいの厚みしかないのだ。ぼくは自分の生を自分で選んだわけではないし、文芸部にも自分で進んで入ったわけでもない。色黒で、歯が黄色く、悪臭を放っているので皆から煙たがられているぼくの唯一の友人である友子が誘ってきたから入っただけだ。友子と友人になったのもぼくの意志ではない。体育の授業の二人組で、最後に余ったから偶然、一緒に飯を食べるようになっただけだ。「偶然」という言葉は素敵な響きかもしれない。運命とか宿命とか、ぼくには重すぎる。偶々だ、全部。偶々この家に生まれて、偶々友子と友人になって、偶々文芸部に入った。ぼくは早く大人になりたいと思う。「子供には全くの可能性がある」と綺麗事ばかりいう大人は言うけれど、ぼくにはその可能性に耐える意志がない。偶然、看護師になるかもしれないし、偶然、専業主婦になるかもしれないし、偶然死ぬかもしれない。ぼくはぼくのことが好きではない、それもたまたまだった。
部室へ行くと、男子からの卑しい視線が集まる。ぼくはハッキリ言って美形なほうだったので、高校生男子特有の、あの幼稚さの混じった視姦を受けることになる。ぼくの体のことを男子同士で話しているのを聞いたことがある。どうやら僕は締まりがいいらしい。今日も部活の帰りに、男子に誘われたので、地元のけばけばしい、キャバレーのようなホテルへ行った。ぼくは欲望も意志も希薄だったが、人からの好意は人並に求めていた。だから、好きだと言われると、いつも発情期の猫のようについていく。ぼくは行為そのものも好きだった。あの成績の良い江口君が、ぼくの性器を、畜生のようにべろべろ舐めている。快感というより、愉快だった。挿入している男はみんな幼児退行して、なんの恥じらいもなく、幼児期の子供のようにぼくに睦言を囁くのだった。ぼくはそれを馬鹿々々しいと思うこともあったし、可愛らしいと思うこともあった。
ある日、ぼくが文芸部に行くと、男子が喧嘩していた。ぼくの名前を出して、格闘技でもするみたいに殴り合いをしていた。格闘技、といっても所詮は文芸部なので、そんな蚊の飛ぶようなひょろひょろのパンチでは、どっちもダメージはなく、膠着状態が続いていた。
「やっときたわ」と友子が言う。
「どうしたの?」
「あなた、二股したでしょ」と、友子はスキャンダルを純粋に楽しんでいるみたいだった。
「してない…。」と言ったっきり、ぼくは気持ち悪くなって部室から出た。ぼくはぼくのことが好きな人が好きだから、ぼくのことを好きな人とセックスしただけだ。何か悪いことをしたんだろうか。これも偶然なんだろうか。そもそもぼくは誰とも付き合っていないし、二股などと言われる筋合いはない。
「鮫島!お前一番が悪いんだぞ!」と文芸部ぐらいにしか所属できないカースト底辺の男子が喚いている。ひょろひょろの果し合いは一旦、小休止を迎えたらしく、部室全体がぼくの話題でざわめいていた。
「あのこ相当ビッチだよね」
「人はほんと見かけによらないね」
「テニス部でも入ればいいのに」
ぼくは何も悪いことはしてない!でもぼくは加害者らしかった。自分の意志がないというのは一種の罪なのかもしれない。三人の男と女がいて、誰が被害者で、誰が加害者なのか、ぼくには皆目見当がつかなかった。ぼくにわかるのは、ぼくは偶然二人とセックスしたということだけだった。その日ぼくは退部した。
以前から仲良くしている、マッチングアプリで出会った三十四歳のおじさんと、今日もホテルに行った。年齢も年齢なだけあって、セックスが上手い。高校生とは違って、的確に急所を攻めてくる。あっけなくぼくの牙城は崩れて、すぐオルガスムに達してしまう。今日は何回イカされたか分からない。よく、男に犯されながら、法的には自分は被害者だということを強く意識する。だから、セックスで主導権を握られていても、逆にぼくが主導権を握っている気分になることがある。ぼくは本当に加害者なのかもしれない。
私は飽き飽きしていた。蜂蜜の腐ったようなねばついた空気のする日常に。突破口がどこにもないシェルターで、ひたすら呼吸だけしている地底人のようだった。そう、私は地底に住んでいる、太陽の届かない。太陽は今日も強姦するみたいにギラついていて、私の身体を視姦するのだった。ここから出る鍵が欲しかった。けれどそれはもうとうの昔に諦めた。だからせめて、刺激が欲しかった。若かった私は、セックスこそ鍵だと思っていた時期もある。阿呆だ。理想の男性の性器が、私の鍵穴にカチリとハマった瞬間、私はこの世界から脱出できるのだ。阿呆だ。死にかけの蛙みたいに痙攣する体と、どぶのように下腹部にたまる快感しか残らなかった。男はピロートークというのをしたかったらしいが、私は壁の方を向いて寝ていた、少し涙を流して。希望とか、鍵とか、夢とか、そんなのはどこにもなくて、あるのは痴漢常習者の爛れた欲望のような、どこにも行きつかない、現実があるだけだった。だから、せめて強度の強い現実を作ろうと決めた。この構造、鉄筋コンクリートで出来た、穴のない構造から逃げ出せないとしても、強度の高い構造にしようと思った。
この世には二種類の人間がいる。加害者と被害者だ。私は加害者になろうと思った。クラスにいる、幽霊のようにぼうっと生きている一人の女をターゲットにして、イジメをした。上履きの中に画鋲を入れた。陰から見ていたが、鍵が鍵穴にハマるようにズブりと刺さったようで、軽い悲鳴をあげていた。上履きは、上履きの白い雪の部分が溶けるように、真っ赤に染まっていった。私の胸の奥の襞の中に言い表せぬ感情が湧いてきた。今まで抱いたことのない感情。喜びでは、絶対にない。むしろ嫌悪感に近い。ゴキブリをスリッパで殺した時に湧く感情。「あっ」と声が出た。血塗れの女がこっちを見た。私が加害者だと思ったかもしれない。私が抱いていたのは罪悪感だった。
イジメは一日で終わった。私は放課後に、お小遣いを持って、ホームセンターに行った。
吊るのにちょうど良さそうなロープと、ガムテープと、手錠…はさすがに置いてなかった。
そして普段から、眼をつけていた、人畜無害を体現したような、一人ぐらしの大学生の男の家のチャイムを鳴らした。ピンポーンと、人を馬鹿にしたような音がした。
「こんばんは、私を誘拐してくれませんか?」
「え?」
私は、この男の古妻のように、ズカズカと部屋に入った。精液の匂いがする。この男も私と五十歩百歩だろう。誰もが実存的に性的な匂いの中で生きている日本の中で、退屈に臓腑まで犯された人間。この男は加害者にも被害者にもなれず、いや、オナニーというのは強姦の加害者と被害者の両方を兼ねているのかもしれない。
私は部屋の奥のベッドに入って、自分の足を絶対にとれない結び方で結んだ。構造があった。
「け、警察呼びますよ。」
「呼んでもいいけど、捕まるのはあなただと思うけど」
そう言って私は、ガムテープで自分の口元を塞いだ。粘着力が弱く、すぐとれそうだった。インポテンツのようなガムテープ。日本の男はみんな性的不能なのだ。この男が私を犯すかどうかは知らない。でもこれで私は被害者になれた。私は上手く負けられた。この男との共同生活は数か月か数年続くだろう。そしてスタンフォード監獄実験のように、この男はどんどん手荒くなるのだろう。こいつは、男で、強者で、私は、女で、弱者だった。殺されても良かった。少なくとも、この空間には蜂蜜が腐ったような空気はなく、窓からは清浄な風が吹き、私は生まれて初めて「せいせいした」のだった。
私を離さないで、という小説を読んだ。名前ぐらいは知っていると思う。あんまネタバレにならないように書くと臓器提供者のためのクローンが作られて、それでまあ最後にちゃんちゃんという話なのだけれど、帯に「人生で唯一泣いた小説です」と誰かの煽りが書かれていて、泣く気まんまんだったのだけれど、泣けなかった。この小説の泣き所は「この子たちが生まれてきた目的に対する不憫さ」だと思うけれど、これは僕たちがおかれている状況と全く変わらない。僕たちは死刑囚なんだ。僕は僕のことを死刑囚だと思っているので臓器提供するために作られたクローンの子供のことを全く可哀そうだと思わなかった。そいつらは30ぐらいまでは生きるのだけれど僕は30まで生きられるか分からない。これで泣ける人は自分を「外部の人」だと思っているのだと思う。臓器提供させられる運命の他ないこの子たちより悲劇的ではない運命を持っていると勘違いしているのだと思う。でも僕たちは全員死刑囚であり癌患者であることは明白なので、全然可哀そうとも思えなかった。文体も好みではなかった。僕は好きではなかった。
最近メルロ=ポンティを読んでいる。サルトルとは真逆の哲学者って感じだ。
ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスは同じフッサールという親から巣立った哲学者で、それぞれ「科学以前の生活世界で哲学をする」というところで似たような哲学をしているが、それでも全く違う部分もある。
ハイデガーはクリスチャンであり、神学部出身ということもあり、宗教的モチーフを隠していていない。頽落や本来的実存など、パスカルやキルケゴールから持ってきたもので哲学をしている。
サルトルは無神論者で、絶望していて、暗い。一生「自己そのもの」にはなれないという特異な哲学。人間は即自にはなれない。なれるのは死んだときだけだ。他者論も暗く、他者にまなざされると「他有化」されると言っている。その時に感じるのが恥という感情だと言っている。
メルロ=ポンティはとにかく優しくて明るい。この世界に住まっているということをそのまま記述していて、世界には「意味」があり、それは素朴な身体と連関している。それがそのまま故郷であるというような書き方をしており、サルトルの世界から疎外されているような哲学とは真逆だ。
レヴィナスは、絶対的な他者。これは明らかにユダヤ教の神からとられたものだけれど、それをモチーフにしている。
なぜ同じ親から生まれたのにこんなに違う哲学になるのか?ベースは同じ現象学だ。僕はニーチェの説が当たっていると思う。ニーチェは善悪の彼岸でこういう。「哲学者は個人的な"胚"というようなものを持っており、それに従ってそれを弁護するだけだ」と。原口統三も言っていたが、哲学は作品であり、それ以上でも以下でもない。哲学は個人的なものだ。個人的な「種」がある。それが成長して作品になる。僕は哲学は個人的なものだと思う。普遍性への憧れに挫折した個人の残骸であると思う。
人間の寿命は、本来は20歳ほどだと聞いたことがある。確かに人間の寿命は体の大きさに比べてかなり長い。ネズミは1,2年で犬が10年ゾウが80年なのに人間が87歳も生きるのはおかしい。少し前までは人生50年などと言われていたのだから、87年も生きるというのは異常だ。食生活がよくなったのと医学の進歩らしい。
僕は人間の寿命が本来は20年だということに安堵を覚える。それは本来なら「もう僕は死んでいる」ということであり、24歳の僕は余生を生きているということになるからだ。これはおまけの生である。成人式は葬式である。
10代の僕は根拠のない自信を持っていて、自己肯定感に溢れていたが、24歳になった僕は、多分年のせいだろう、自己肯定感がなくなってしまった。自分に価値が感じられない。働いてない、才能もない、努力もしない、誰にも愛されない、障碍者。根拠のない自信というのはありがたかったなあ、と思う。僕はナルシストだった。今は陰気なおじさんになっている。自分に価値が感じられない。どうしたらいい?
「せーので絶望しよっ」という小説を二十歳ぐらいの頃から書いている。時系列はぐちゃぐちゃで、Kという主人公と佐伯という生命のない女が出てくる話なのだけれど、僕の思想というか、心象風景を描いてるものになってると思う。東京にいたころ書いたのは、性とか絶望が主題で、主人公もそういう思想を喋っていた。今は主人公は「僕はこの世界が全くフィクションに感じられて、繰り返し繰り返しやってくる学校生活が退屈で仕方なかった。佐伯と旅をするというのはまた別のフィクションへ飛び込むことでしかないが、また、繰り返しの退屈でしかないが、僕はそれでもいいと思った。学校生活と旅の生活、構造は全く同じだった。太陽が出て、目が覚めて、太陽が沈んで、寝て、また太陽が出て、眼が覚めて、太陽が沈んで、寝て、太陽というのは、もしかしたら反復性の悪魔かもしれない。僕は閉じ込められている。佐伯はここではないところならどこでもいいと言っていたが、僕たちは太陽という悪魔にいる限り、閉じ込められているんじゃないか。ギシギシ軋んでいる構造へ閉じ込められている。太陽がなければ生命は維持できないが、その太陽は僕たちを反復性の監獄へ閉じ込めている。ここは地獄なのかもしれなかった。」と言っている。永遠性ということ、退屈について考えている。僕の町には海があって、堤防が延々と続いているような場所が2つある。その2つの横を延々と歩き続けるという着想が頭から離れない。だからその堤防の横を永遠に歩き続けるというテーマで書いているんだけれど、永遠、退屈、倦怠、暴力、性、鬱屈、とかが引きこもりの僕の心象風景なのでそういう感じになるのかな、と思う。小説家になろうに投稿しているけれど、なろう系小説でもないしPVの見方も分からないので見てない。誰も見てないだろう。自己満足で書いている。僕は多分創作者気質があり、創作をしている時にかなり充実感を感じる。だからブログも9年間も続けているんだろう。
ショートショートを送る賞があったので3つほど送った。佳作にでも入って10万入ればいいな。そのうちの一つを友達に見せたらつまらないと言われたのでかなり凹んでしまった。人に批判されるのが怖い、僕は臆病だから。だから今後作品を見せるとしたら全く知らない人か、超親密な人にしか見せないと思う、僕はずるいから。
父親に、小説を書いていると言ったら賞に送ったらいいと言われたので、そういうのも書こうと思っている。でもそういうのって今の僕みたいに感性と一発ネタだけで書くんじゃなくてきちんとパズルみたいに書かなきゃいけないので、考えて書こうと思う。時間は無限にあるので。とりあえず隠れ念仏の勉強をして、隠れ念仏の話を書こうかなと思っている。
僕はもともと癇癪持ちなのだけれど、最近カフェインをとっているせいで余計怒りっぽくなっている。怒りは仏教用語で「瞋恚」と言われて、三大煩悩の一つと言われている。ティクナットハン師の瞑想の本に、仲直りする瞑想というのがあって、お互いの死後を考えるというのがあったが、それをアレンジして、僕は怒りで震えている時は死のことを考える。「結局死ぬ」というのは大きな安らぎではないだろうか?
僕の場合「結局浄土へ行く」だ。この世を東奔西走しても、結局浄土へ行く。
善導は「心は浄土へ居す」と言っているし親鸞は「心は浄土に遊ぶなり」と言っている。
なんか最近、死の問題から解放されて、自分の悪い部分が出てきているような気がする。「死」という蓋で隠れていた鬱屈した気分というのが一気に出てきているような気がする。いわゆる「普通の人」になって「普通の欲望」を持つようになってきている気がする。これは多分僕にとって悪いことであり、つまらないことであると思う。最近は暴力と性のことばかり考えている。それをどう小説にするかばかり考えている。多分これはよくない。僕のアイデンティティは「念仏者」であって創作者ではない、これは絶対に忘れちゃいけないと思う。僕の軸足は念仏に置くべきであり、創作に置くべきではない。創作はつまらない娑婆の遊び事だということを忘れてはいけない。
僕は今まで三つの死を経験した。自分の死。母親の死。祖父の死。自分の死は想像でしかないけれど、一番恐ろしいものだ。それ以外に死の匂いを強烈に感じ取ったエピソードがある。
まだ10代で、呼吸器科に入院していたころ、僕は毎日3階から1階へ降りて、レントゲンを撮っていた。肺が膨らんでいるか検査するためだ。レントゲン室に人がたくさんいて待ち時間が多い日と、客が僕一人だけですぐ帰れる日があった。その日はたくさんの老人がいて、ぼくは30分ほど待っていた。老人の声が聞こえてくる。
「〇〇さんなあ、手術もうできんのやて。もう手術しても意味ないらしい」
聞きたくなかった。「手術ができない」という概念がまだ頭になかった。手術は「できるもの」だと思っていた。もう手術ができないと伝えられたその人はどんな気持ちだったのだろう。手術ができずに病室でずっと死を待っているその人はどんな気持ちだろう。
僕らはいずれ「手術ができなく」なる。母親も癌が発見された時はもう手術ができなくなっていた。
今もこの話を思い出すと胸の奥にツンとしたものを感じるほどなのだから、よっぽど死の匂いを感じたのだと思う。
誕生日プレゼントをくださるという方がコメントにいたので欲しいものリストを公開します(感謝感激)
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メルロ・ポンティの見えるものと見えないものとか超欲しいです
こんなブログを見ていただけるだけでありがたいのですが、お金持ちの方いたら適当に買ってくれたら嬉しいです
追記
今日朝起きたら セネカの「怒りについて」メルロ=ポンティの「見えるものと見えないもの」あとキーボードが届いていました
本を送ってくれた人は大体察しがつく。ありがとう
キーボードを送ってくれた人もありがとう。僕は楽譜も読めないし指先も不器用だけれど、肺に欠陥があって歌を歌えないというのがコンプレックスだったので、代わりにピアノで音を楽しもうと思っていました。ニートで時間は無限にあるので練習しようと思います。ありがとうございました。