哲学とは
最近メルロ=ポンティを読んでいる。サルトルとは真逆の哲学者って感じだ。
ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスは同じフッサールという親から巣立った哲学者で、それぞれ「科学以前の生活世界で哲学をする」というところで似たような哲学をしているが、それでも全く違う部分もある。
ハイデガーはクリスチャンであり、神学部出身ということもあり、宗教的モチーフを隠していていない。頽落や本来的実存など、パスカルやキルケゴールから持ってきたもので哲学をしている。
サルトルは無神論者で、絶望していて、暗い。一生「自己そのもの」にはなれないという特異な哲学。人間は即自にはなれない。なれるのは死んだときだけだ。他者論も暗く、他者にまなざされると「他有化」されると言っている。その時に感じるのが恥という感情だと言っている。
メルロ=ポンティはとにかく優しくて明るい。この世界に住まっているということをそのまま記述していて、世界には「意味」があり、それは素朴な身体と連関している。それがそのまま故郷であるというような書き方をしており、サルトルの世界から疎外されているような哲学とは真逆だ。
レヴィナスは、絶対的な他者。これは明らかにユダヤ教の神からとられたものだけれど、それをモチーフにしている。
なぜ同じ親から生まれたのにこんなに違う哲学になるのか?ベースは同じ現象学だ。僕はニーチェの説が当たっていると思う。ニーチェは善悪の彼岸でこういう。「哲学者は個人的な"胚"というようなものを持っており、それに従ってそれを弁護するだけだ」と。原口統三も言っていたが、哲学は作品であり、それ以上でも以下でもない。哲学は個人的なものだ。個人的な「種」がある。それが成長して作品になる。僕は哲学は個人的なものだと思う。普遍性への憧れに挫折した個人の残骸であると思う。
ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスは同じフッサールという親から巣立った哲学者で、それぞれ「科学以前の生活世界で哲学をする」というところで似たような哲学をしているが、それでも全く違う部分もある。
ハイデガーはクリスチャンであり、神学部出身ということもあり、宗教的モチーフを隠していていない。頽落や本来的実存など、パスカルやキルケゴールから持ってきたもので哲学をしている。
サルトルは無神論者で、絶望していて、暗い。一生「自己そのもの」にはなれないという特異な哲学。人間は即自にはなれない。なれるのは死んだときだけだ。他者論も暗く、他者にまなざされると「他有化」されると言っている。その時に感じるのが恥という感情だと言っている。
メルロ=ポンティはとにかく優しくて明るい。この世界に住まっているということをそのまま記述していて、世界には「意味」があり、それは素朴な身体と連関している。それがそのまま故郷であるというような書き方をしており、サルトルの世界から疎外されているような哲学とは真逆だ。
レヴィナスは、絶対的な他者。これは明らかにユダヤ教の神からとられたものだけれど、それをモチーフにしている。
なぜ同じ親から生まれたのにこんなに違う哲学になるのか?ベースは同じ現象学だ。僕はニーチェの説が当たっていると思う。ニーチェは善悪の彼岸でこういう。「哲学者は個人的な"胚"というようなものを持っており、それに従ってそれを弁護するだけだ」と。原口統三も言っていたが、哲学は作品であり、それ以上でも以下でもない。哲学は個人的なものだ。個人的な「種」がある。それが成長して作品になる。僕は哲学は個人的なものだと思う。普遍性への憧れに挫折した個人の残骸であると思う。
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