信仰 その後
最近、ブログやツイッターなどであまり信仰の話をしなくなった。人間は欲しかったものが手に入るともうその話はしなくなるのだろう。今思えば、もともと持っていたものを見つけただけなのだけれど。
口から出る南無阿弥陀仏が耳に南無阿弥陀仏と聞こえる。それだけでいい。疑いなど介在する余地がない。真宗は身体的信仰ではないかと思うことがある。「声」が信仰というのは、奇特な宗教である。
永遠の昔に法蔵菩薩という方が出られ、世自在王仏という仏のもとで出家され、五劫の間思惟して、永遠のように長い修行をして、南無阿弥陀仏になった。だから南無阿弥陀仏が我らの助かる証拠だ。というのは普通「信じられない」無理。不可能。僕は人間には不可能だと思う。その不可能が可能になったのを信仰というので、真宗は奇跡ということを一切言わないが、唯一奇跡があるとすれば、絶対に不可能な信仰が可能になるという奇跡がある。
僕は信仰をすれば虚無感が晴れると思っていたが、晴れない。阿弥陀仏は虚無感を癒す仏ではなく、僕を救う仏なので当たりまえだが、虚無感が晴れない。どうしようもないと思う。早く死んでしまいたいと思う。僕はそこで綺麗ごとを言わないのが真宗のいいところだと思う。せっかく貰った命だからとか、自殺したら地獄へ行くとか言わずに、ただ「そのまま救う」しか言わない。阿弥陀仏は壊れたラジオだ。「そのまま救う」しか言わない。その言葉に身が震えるほどの喜びを感じることもあるが、夜になると自律神経の調子が悪くなるのか、死にたくなる。でも「そのまま救う」と絶えず言っている。
最近は小説をずっと読んでいる。創作意欲もわいてきた。阿弥陀仏のことを考えることは減ってきたが、阿弥陀仏は僕のことを絶えず考えているのだろう。そしてみんな浄土へ行くのだろう。みんな出会える場所があるのだろう。信仰をすることで、「つじつまがあった」僕は生きられる気がする。僕は生きられる。
口から出る南無阿弥陀仏が耳に南無阿弥陀仏と聞こえる。それだけでいい。疑いなど介在する余地がない。真宗は身体的信仰ではないかと思うことがある。「声」が信仰というのは、奇特な宗教である。
永遠の昔に法蔵菩薩という方が出られ、世自在王仏という仏のもとで出家され、五劫の間思惟して、永遠のように長い修行をして、南無阿弥陀仏になった。だから南無阿弥陀仏が我らの助かる証拠だ。というのは普通「信じられない」無理。不可能。僕は人間には不可能だと思う。その不可能が可能になったのを信仰というので、真宗は奇跡ということを一切言わないが、唯一奇跡があるとすれば、絶対に不可能な信仰が可能になるという奇跡がある。
僕は信仰をすれば虚無感が晴れると思っていたが、晴れない。阿弥陀仏は虚無感を癒す仏ではなく、僕を救う仏なので当たりまえだが、虚無感が晴れない。どうしようもないと思う。早く死んでしまいたいと思う。僕はそこで綺麗ごとを言わないのが真宗のいいところだと思う。せっかく貰った命だからとか、自殺したら地獄へ行くとか言わずに、ただ「そのまま救う」しか言わない。阿弥陀仏は壊れたラジオだ。「そのまま救う」しか言わない。その言葉に身が震えるほどの喜びを感じることもあるが、夜になると自律神経の調子が悪くなるのか、死にたくなる。でも「そのまま救う」と絶えず言っている。
最近は小説をずっと読んでいる。創作意欲もわいてきた。阿弥陀仏のことを考えることは減ってきたが、阿弥陀仏は僕のことを絶えず考えているのだろう。そしてみんな浄土へ行くのだろう。みんな出会える場所があるのだろう。信仰をすることで、「つじつまがあった」僕は生きられる気がする。僕は生きられる。
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