砂糖水は出来上がらない
退屈は犯罪です、という文字が眼に入った。僕は顔には出さず心の中で笑って、じゃあ僕は死刑かもしれないな、と思った。
家族が全員、十月九日に死んだ。事故だった。僕は家族旅行など行くタチではないので、家で読書をしていたのだが、飲酒運転の車と正面衝突して、全員即死だった。即死だったのが幸いだなと思う。苦しむ親族の姿は見たくない。葬式も穏便に済ませて、さあ僕の身はどうするか、という話になった。僕の世話をしてくれる親戚など誰もいなかったので、僕は学校をやめた。十九歳の頃の話だ。そして九年間、ずっと生活保護を受給しながら引きこもって生活をしている。
二十八歳になった僕には、希望もなく、夢もなく、絶望すらもなかった。ただ、時間があった。砂糖水を作るには、水に砂糖を入れて、砂糖が溶けるのをじっと見ておかなければいけない。時間は早めることもできないし、飛ばすこともできない。僕にはただ持続する時間だけがあって、ただそれだけだった。退屈というのは、一種の空白であり、苦痛であり、それを埋めるための手段が必要であったが、僕にはその手段がなかった。インターネットをして、図書館で借りた哲学書を読んで、オナニーをするぐらいが関の山だった。退屈に関する哲学書で、こんな話を読んだことがある。あるところに念仏者のおじいさんがいるんだけれど、死んでしまう。おばあさんは悲しむけれど、十年後ぐらいにおばあさんも死んでしまう。そして極楽浄土で再会して、二人は懐かし話をしたりして盛り上がるんだけれど、日を経るごとにだんだんトーンが下がって行ってしまう。その時お婆さんがぽつりと「地獄ってどんな場所なのかしらねえ」と呟く。その瞬間、お爺さんの眼に輝きが戻るという話だ。極楽という場所は、地獄よりも地獄的な場所なのかもしれない。永遠というのは監獄であるのかもしれない。僕には苦痛もハプニングもなく、九年間毎日同じ生活をしている。いっそ気が狂ったら、とも思うけれど、人間の気はそんな簡単に狂わないらしく、いつだって正気で時間に負け続けている。一気に老後まで飛ばせるボタンというのが目の前にあるなら、間違いなく押すだろう。ただ現実は砂糖が溶けるのを待つ必要がある。じゃあいっそのこと自殺してしまえ、と思われるかもしれないが、最初に書いた通り、僕は絶望もしていない。世界には時間があり、僕には退屈があるだけだった。コップの中には水があり、砂糖水ができるにはまだまだ時間がかかりそうだった。
いつものようにインターネットをしていると、少しふれていることが掲示板に書かれてあった。
『十九歳女 一人暮らしの人いませんか?今から家に行くので、同棲しましょう』
僕はこの女にすぐメッセージを送った。僕はこの募集文で、この女が男に棄てられた直後であること、そして境界性人格障害だということを確信していた。そしてこいつは、初対面なのに重い話をしてくるだろう。コンタクトを取り、通話をした。案の定だった。親に棄てられて、男の家を転々としていて、手首は傷だらけとのこと。僕は自宅の近くの飲食店の住所を教え、明日ここに来いと言った。
「始めまして」華奢、というよりどうみても拒食症の女だった。顔は整っている方だと思うが、なにせ肉がないので頬がこけて病人みたいで、整う整ってない以前の問題だった。
「あのお、なんでコンタクト送ってくれたんですかあ?」
「暇だったからだよ」
「ほんとですかあ?お兄さんも寂しいんでしょお?」下品な喋り方だったが、こういう女は嫌いではなかった。
家に招いて、まず、自己紹介をした。僕たちはまだお互いの本名も知らない。健次です、と僕は名乗った。そして家族が全員事故で即死したこと。九年間全く外へ出ていない引きこもりだということ。正直女性と喋るのが久々なので緊張していることなど。女はチエ、というらしい。本名かどうかは知らない。
「九年間も引きこもりって、ちょっと危なくないですかあ?お兄さん危ない人お?」
「僕は君を危ないかもしれないと思ってるし、お互い様だろう。」
「そうだけどお、暇じゃない?」
「そうなんだ、退屈で死にそうだから君に連絡をとったんだ、さっきもそう言っただろ」
「そうだったっけえ」
酒でも飲んでるんじゃないかというぐらい呂律が回っていないが、酒の匂いはしなかった。薬でもやってるのかもしれない。
家に入ると突然キスをしてきた。
「お兄さん、好きい」
「僕も好きだよ」と言って舌を絡める。完全に病気の女だ。
「ここ、触ってえ」と言って僕の手を胸に持っていく。けれども拒食症なので全く肉がなく、日光で焼けた本を触っているようだった。僕のペニスを触ろうとしてきたので、さすがに制止しようと思ったが、自分の人生のことを考えて、やめた。暇つぶしだ。
チエは全裸になって僕の上に乗って鶏みたいに喘いでいる。体も痩せすぎた鳥のようだった。
「私、お兄さんのこと好きかもお」
「僕も好きだよ」と言って寝る支度を粛々と進める。こいつはほんとに僕のことが好きなのだ。病気だからしょうがない。ベッドに二人入って、またキスをした。僕はこの女の病気を利用している。衝動性が強く、すぐ男に依存するということ。ただそんなのどうでもよかった。今日は時間が進むのが早く感じられた。ワンナイトラブでもインスタントラブでもなんでもよかった。
眼を開けると、チエが料理をしていた。
「ちょっと待っててね、ハムエッグ作るから」
「わざわざスーパーに材料買いに行ったの?」
「そうだよ、お兄さん、弁当ばっかりで可哀そうだなあと思って」
昨日はやはり薬をやっていたらしい。今日は呂律が回っている。向こうも緊張していたようで、紛らわすために大麻を吸ったそうだ。
チエのハムエッグは美味だったが、チエが一緒に食べてくれないのが少し残念だった。
「お兄さん、九年間引きこもってるんでしょ?どこか外行こうよ」
「足がないよ」
「私、ここまでオートバイで来たんだ。隣の県だしさ」
チエのペースに乗せられて、僕たちはどこかへ行くことになった。外へ出ると日光が眩しく眼球がえぐられるように痛い。
「ここにこんなのあるんだね」と言ってチエはアパートの管理人が育てている花壇の方へ走った。日光が花びらに食い込み、花びらが内からめくれているような印象を受けた。チエは僕のことなどすっかり忘れたように花に見惚れていて、僕はそんなチエの横顔に見惚れていた。花の上にふわりふわりと蝶々が飛んでいる。チエはいつまでたっても見飽きないようで、丸一時間ほど花壇の前に二人で立っていた。
「お兄さん、ちゅーしよ」といってキスをした。昨日から何回したか分からない。この女が男なら誰でも発情するし依存することは知っているけれど、それでも少し征服感を感じた。僕はこの女に踏まれていく男の一人に過ぎないんだろうと思うと少し感傷的に嫉妬したが、そこは割り切らねばならない。僕は本当は十月九日に死んでいたはずなのだ。
オートバイに乗って、水族館へ行くことになった。速度が光に近づくほど時間は進むのが遅くなる、というのを聞いたことがあるが、速度、というのは麻薬的なものだった。速度という抽象的なものを、ここまで具体的に感じたのは産まれて初めてだった。風が流線形になって、僕たちの後ろへ走り、前の車を追い越す。速度というのは高揚感や万能感も催すようで、僕は立ってしまいたいほどだった。僕の家族も速度に殺されたんだ。速度は人を殺す、故にここまで麻薬的なんだろう。
「お兄さん、怖くない?」
「凄く気持ちいいよ、昨日のセックスより気持ちよい」
「なにそれ、最悪」と言ってチエは笑った。
目的地の水族館に着いて、僕たちはカップルのように手を繋いでデートをした。途中でチエがぐにぐにと手を食い込ませてきて、恋人繋ぎになった。
「見て!クラゲ!綺麗だね」といってチエは年相応にはしゃいでいる。けれどクラゲは本当に綺麗だった。館内のクラゲブースだけ真っ暗で、発光するクラゲが展示されていて、まるで天の川のようだった。チエはまた鑑賞モードに入ったようで、クラゲを飽きることもなく一時間以上も見ていた。僕はその間チエの体を触ったりして時間を潰した。
水族館から帰ると、またチエの症状が出てきて、好き好き言ってきた。僕も好きだよ、というとニンマリして嬉しそうにする。子供みたいだった。キスをしてセックスをして、二人で抱き合って寝た。
次の日「お兄さん、別の人から連絡来たからその人のとこ言ってくるわ」と言ってチエはオートバイでどこかへ消えた。夢だった気がする。長くてリアルな夢を見ていた。
コップに入っている水に入れた砂糖は相変わらず溶けずに、砂糖水は未だに完成しなさそうだった。僕はまた砂糖が溶けるのを待つ生活に戻った。
家族が全員、十月九日に死んだ。事故だった。僕は家族旅行など行くタチではないので、家で読書をしていたのだが、飲酒運転の車と正面衝突して、全員即死だった。即死だったのが幸いだなと思う。苦しむ親族の姿は見たくない。葬式も穏便に済ませて、さあ僕の身はどうするか、という話になった。僕の世話をしてくれる親戚など誰もいなかったので、僕は学校をやめた。十九歳の頃の話だ。そして九年間、ずっと生活保護を受給しながら引きこもって生活をしている。
二十八歳になった僕には、希望もなく、夢もなく、絶望すらもなかった。ただ、時間があった。砂糖水を作るには、水に砂糖を入れて、砂糖が溶けるのをじっと見ておかなければいけない。時間は早めることもできないし、飛ばすこともできない。僕にはただ持続する時間だけがあって、ただそれだけだった。退屈というのは、一種の空白であり、苦痛であり、それを埋めるための手段が必要であったが、僕にはその手段がなかった。インターネットをして、図書館で借りた哲学書を読んで、オナニーをするぐらいが関の山だった。退屈に関する哲学書で、こんな話を読んだことがある。あるところに念仏者のおじいさんがいるんだけれど、死んでしまう。おばあさんは悲しむけれど、十年後ぐらいにおばあさんも死んでしまう。そして極楽浄土で再会して、二人は懐かし話をしたりして盛り上がるんだけれど、日を経るごとにだんだんトーンが下がって行ってしまう。その時お婆さんがぽつりと「地獄ってどんな場所なのかしらねえ」と呟く。その瞬間、お爺さんの眼に輝きが戻るという話だ。極楽という場所は、地獄よりも地獄的な場所なのかもしれない。永遠というのは監獄であるのかもしれない。僕には苦痛もハプニングもなく、九年間毎日同じ生活をしている。いっそ気が狂ったら、とも思うけれど、人間の気はそんな簡単に狂わないらしく、いつだって正気で時間に負け続けている。一気に老後まで飛ばせるボタンというのが目の前にあるなら、間違いなく押すだろう。ただ現実は砂糖が溶けるのを待つ必要がある。じゃあいっそのこと自殺してしまえ、と思われるかもしれないが、最初に書いた通り、僕は絶望もしていない。世界には時間があり、僕には退屈があるだけだった。コップの中には水があり、砂糖水ができるにはまだまだ時間がかかりそうだった。
いつものようにインターネットをしていると、少しふれていることが掲示板に書かれてあった。
『十九歳女 一人暮らしの人いませんか?今から家に行くので、同棲しましょう』
僕はこの女にすぐメッセージを送った。僕はこの募集文で、この女が男に棄てられた直後であること、そして境界性人格障害だということを確信していた。そしてこいつは、初対面なのに重い話をしてくるだろう。コンタクトを取り、通話をした。案の定だった。親に棄てられて、男の家を転々としていて、手首は傷だらけとのこと。僕は自宅の近くの飲食店の住所を教え、明日ここに来いと言った。
「始めまして」華奢、というよりどうみても拒食症の女だった。顔は整っている方だと思うが、なにせ肉がないので頬がこけて病人みたいで、整う整ってない以前の問題だった。
「あのお、なんでコンタクト送ってくれたんですかあ?」
「暇だったからだよ」
「ほんとですかあ?お兄さんも寂しいんでしょお?」下品な喋り方だったが、こういう女は嫌いではなかった。
家に招いて、まず、自己紹介をした。僕たちはまだお互いの本名も知らない。健次です、と僕は名乗った。そして家族が全員事故で即死したこと。九年間全く外へ出ていない引きこもりだということ。正直女性と喋るのが久々なので緊張していることなど。女はチエ、というらしい。本名かどうかは知らない。
「九年間も引きこもりって、ちょっと危なくないですかあ?お兄さん危ない人お?」
「僕は君を危ないかもしれないと思ってるし、お互い様だろう。」
「そうだけどお、暇じゃない?」
「そうなんだ、退屈で死にそうだから君に連絡をとったんだ、さっきもそう言っただろ」
「そうだったっけえ」
酒でも飲んでるんじゃないかというぐらい呂律が回っていないが、酒の匂いはしなかった。薬でもやってるのかもしれない。
家に入ると突然キスをしてきた。
「お兄さん、好きい」
「僕も好きだよ」と言って舌を絡める。完全に病気の女だ。
「ここ、触ってえ」と言って僕の手を胸に持っていく。けれども拒食症なので全く肉がなく、日光で焼けた本を触っているようだった。僕のペニスを触ろうとしてきたので、さすがに制止しようと思ったが、自分の人生のことを考えて、やめた。暇つぶしだ。
チエは全裸になって僕の上に乗って鶏みたいに喘いでいる。体も痩せすぎた鳥のようだった。
「私、お兄さんのこと好きかもお」
「僕も好きだよ」と言って寝る支度を粛々と進める。こいつはほんとに僕のことが好きなのだ。病気だからしょうがない。ベッドに二人入って、またキスをした。僕はこの女の病気を利用している。衝動性が強く、すぐ男に依存するということ。ただそんなのどうでもよかった。今日は時間が進むのが早く感じられた。ワンナイトラブでもインスタントラブでもなんでもよかった。
眼を開けると、チエが料理をしていた。
「ちょっと待っててね、ハムエッグ作るから」
「わざわざスーパーに材料買いに行ったの?」
「そうだよ、お兄さん、弁当ばっかりで可哀そうだなあと思って」
昨日はやはり薬をやっていたらしい。今日は呂律が回っている。向こうも緊張していたようで、紛らわすために大麻を吸ったそうだ。
チエのハムエッグは美味だったが、チエが一緒に食べてくれないのが少し残念だった。
「お兄さん、九年間引きこもってるんでしょ?どこか外行こうよ」
「足がないよ」
「私、ここまでオートバイで来たんだ。隣の県だしさ」
チエのペースに乗せられて、僕たちはどこかへ行くことになった。外へ出ると日光が眩しく眼球がえぐられるように痛い。
「ここにこんなのあるんだね」と言ってチエはアパートの管理人が育てている花壇の方へ走った。日光が花びらに食い込み、花びらが内からめくれているような印象を受けた。チエは僕のことなどすっかり忘れたように花に見惚れていて、僕はそんなチエの横顔に見惚れていた。花の上にふわりふわりと蝶々が飛んでいる。チエはいつまでたっても見飽きないようで、丸一時間ほど花壇の前に二人で立っていた。
「お兄さん、ちゅーしよ」といってキスをした。昨日から何回したか分からない。この女が男なら誰でも発情するし依存することは知っているけれど、それでも少し征服感を感じた。僕はこの女に踏まれていく男の一人に過ぎないんだろうと思うと少し感傷的に嫉妬したが、そこは割り切らねばならない。僕は本当は十月九日に死んでいたはずなのだ。
オートバイに乗って、水族館へ行くことになった。速度が光に近づくほど時間は進むのが遅くなる、というのを聞いたことがあるが、速度、というのは麻薬的なものだった。速度という抽象的なものを、ここまで具体的に感じたのは産まれて初めてだった。風が流線形になって、僕たちの後ろへ走り、前の車を追い越す。速度というのは高揚感や万能感も催すようで、僕は立ってしまいたいほどだった。僕の家族も速度に殺されたんだ。速度は人を殺す、故にここまで麻薬的なんだろう。
「お兄さん、怖くない?」
「凄く気持ちいいよ、昨日のセックスより気持ちよい」
「なにそれ、最悪」と言ってチエは笑った。
目的地の水族館に着いて、僕たちはカップルのように手を繋いでデートをした。途中でチエがぐにぐにと手を食い込ませてきて、恋人繋ぎになった。
「見て!クラゲ!綺麗だね」といってチエは年相応にはしゃいでいる。けれどクラゲは本当に綺麗だった。館内のクラゲブースだけ真っ暗で、発光するクラゲが展示されていて、まるで天の川のようだった。チエはまた鑑賞モードに入ったようで、クラゲを飽きることもなく一時間以上も見ていた。僕はその間チエの体を触ったりして時間を潰した。
水族館から帰ると、またチエの症状が出てきて、好き好き言ってきた。僕も好きだよ、というとニンマリして嬉しそうにする。子供みたいだった。キスをしてセックスをして、二人で抱き合って寝た。
次の日「お兄さん、別の人から連絡来たからその人のとこ言ってくるわ」と言ってチエはオートバイでどこかへ消えた。夢だった気がする。長くてリアルな夢を見ていた。
コップに入っている水に入れた砂糖は相変わらず溶けずに、砂糖水は未だに完成しなさそうだった。僕はまた砂糖が溶けるのを待つ生活に戻った。
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