自動販売機にコカ・コーラを買いに行く。八月ももう終わろうとしているが、まだまだ暑く、今日はとりわけ久々に太陽が雲に阻まれずにそのまま光を放っていて、皮膚がひりひりした。
僕は、引きこもり始めた当初は、ここまで淋しさに憑りつかれていなかった。孤独はあったが、淋しさはなかった。それはまだ青臭い、性欲にさえ還元できるもので、僕は女を見つけては性にいそしんでいた。その頃の孤独というのは、なんというか、穴のようなもので、埋めようとすれば埋められるものだった。けれど、今感じている淋しさというのは、性欲でもないし、穴でもない。しんしんと降り積もる雪のようなもの、絶えず降り続ける粉雪のようなもの、だと思う。掴もうと思っても掴めないし、こうしている間にもどんどん、澱のように積もっていく。この淋しさは僕の持病のようになっていて、恐らくもう解消することがない。いくら女を抱いても、太陽光を浴びても、雪が溶けることはない。けれどそれは十六歳の頃感じていた孤独のように、絶望が付随しているわけではなく、絶望の代わりに切なさが付随している。そのむずがゆさが、歯がゆさが、不快な心地よさをもたらす。
小銭を入れて、ボタンを押すと、ジュースが出てくる。今日はこの町には珍しく、人が出歩いていて、けれど誰の顔も心も僕の心を暖めることはなく、昔友人が言っていた「どうせあなたも助けてくれないんでしょ」という言葉を思い出した。
淋しさとは魂の問題だという気もしている。肉体と魂。孤独は肉体の問題である。この肉体という牢獄から抜け出すことはできない地獄のことを孤独という。けれど淋しさは魂の問題のような気がする。そして、魂は肉体を超えている。肉体の中に魂があるのではなく、魂の中に肉体がある。僕に対するまなざしが魂だ、僕とあなたが交わす言葉が魂だ、ハグをすれば、その暖かみを通じて、魂の交流が起きる。魂は肉体の中に閉じ込められていない。私と世界の間にあるもの、と言えばいいのか。
一神教的だと言われるかもしれないが、蓮如上人も、自分の子供が亡くなったとき、「蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまひりぬるといえるこゝろなりと、不審もなくしられたり。」と言っている。仏教は魂というものを認めないが、僕の考えている魂はデカルト的なコギトとは違う。それは表情であったり、暖かさであったり、言葉であったりするだろう。
真夏、僕の心は淋しさの雪でいっぱいになっている。僕は酷く淋しい。コカ・コーラを飲んで、脳みそを炭酸で揺さぶる。どうしても淋しさが消えない。淋しさと切なさの混濁した、まっさらな雪が、ゆっくりゆっくり心に降っている。