罪 プロット
1
いつも見慣れている、木や花が、ひとしお輝いて見えたが、あの「不条理」という言葉が頭に浮かぶと、まるで霧がかかったように、世界が曖昧に、輪郭のないものになるような気がして不安になり、その思考を打ち消そうとしたが、靴の裏に張り付いたガムのようにしっかり脳髄にくっついていて、世界は曖昧なままだった。一度、知り合いに眼鏡を借りて見たことがあるが、高い度の入った眼鏡をかけているような感じになり、僕の頭がおかしくなったのか、世界がおかしくなったのか分からないが、見えない力が僕を遠い気持ちにさせて、少し酩酊した風になった。「不条理」という言葉が、力強く脳みそを打ち、そのたびに、重力がなくなるような、なにも頼りになるものがなくなるような、そんな儚い気持ちになり、僕は花を一輪、茎の方からポキっと折って、その匂いを嗅いでみると、何かの罠のような甘い匂いがして、僕はその花をすぐ投げ捨ててしまった。一人で散歩するんじゃなかった。全てが曖昧という言葉の元にくくられ、僕は遠く遠くなり、足を止めた。
五分ほど足を止めていると、目の前にうら若い女子高生が通り、自分が動かしたのではないように、手が勝手に女子高生を掴むと、女子高生はその眼鏡の奥からきょとんした眼でこちらの眼を凝視し、僕は一体何をしているんだろうという気になったが、女子高生が抵抗しない以上、僕は女子高生の手をとって自宅まで歩き始めた。女子高生の手は徐々に汗ばんでいくが、それが体温のせいなのか、怯えのせいなのかは分からない、この女は何も喋らずに、しかし眼だけは誰かの助けを求めるように、ぎょろぎょろと動かしていたが、急に、諦めたように、放心し、天を仰ぐように首をかくんと後ろへ倒し、その不格好な姿のままで僕に引っ張られるまま歩いている。僕は急に死にたくなって、足を止めた。少女も足を止めた。言い難い不安感に襲われ、心臓が生ぬるい毒に犯されたように、歪な鼓動を打ち、手汗はいっとう吹き出し、女の手汗と入り交じり、泥鰌を握っているような気分になり、僕は手を放したが、僕は余程顔色が悪かったと見えて、今度は少女のほうから僕の手をとって、近くにあるベンチまで連れてこられた。少女は、相変わらず口をあんぐりあげて、空を見ているというような痴呆じみた恰好をしていたので、僕もそれに倣ってふいと空を見上げると、鬱陶しいような雲で天が覆われていたが、光が一筋だけさしていて、なにやら恍惚の感を催させるものがあった、一分二分と見ているうちに、徐々に呼吸が浅くなり、鼓動が乱舞し、意識が曖昧になってきたので、僕は少女のほうをジっと見ることにした。目鼻立ちは整っているが、どうも幼児のような、痴呆のような雰囲気がし、自分は今痴呆と並んでいるのかと思ったら、少し気分が楽になった。
光がさしているので、雨は降らないと思っていたが、沈鬱な雲が徐々に液状化し、ぽつりぽつりと降ってきたので、僕は家に帰ろうとすると、少女が服の裾を引っ張ってきて、潤んだ眼でこちらを見ている。僕は何が何やら分からないまま、土砂降りにならないうちに帰ろうと早足で帰途についたが、うしろからスタスタと例の少女がついてきて、なにやら厄介ごとになりそうで、胸がムカムカしたが、僕たちの間には、言葉を交わさないという不文律があるような気がしたので、何も言わず、僕は家に帰った。女も何も言わず、僕の家に入った。
精神的に少しまいったので、抗不安薬を飲んで、ソファに寝ころぶと、急にまた「不条理」という言葉がガンガン頭に響いて頭痛がしてきたので、抗不安薬をもう一錠飲んで、少女を見やった。少女は慣れない家に戸惑っている風もなく、床に寝そべって、何かうわ言のようなものを呟いていて、憂鬱症にかかっている僕には、それが僕に対する呪詛のように感じられて、気味が悪かった。また希死念慮が湧いてきて、僕はそのまま眠ってしまった。
2
眼が覚めると、体がゆっさゆっさと揺れていて、目ヤニを取りながら、右の方を見ると白っぽいものが見え、徐々に眼が澄んでくると、例の少女が僕の体を泣きながら揺すっていて、頭に響くのでやめてほしかったが、なぜかこの少女には口を聞く気がせず、そのままなすがままになっていた。なぜ泣いているのか、なぜ揺すっているのか分からないが、僕は少女の力に身を任せた。僕が眼を覚ましたのを確認すると、少女は泣くのをやめたが、今度はキャキャと笑いながらゆっさゆっさと体を揺さぶってくるので、気狂いに絡まれたような気分で、揺れていると、急に少女は手を止めて、僕の顔を覗いてきた。眼を細めて、何か重大なものでも見るような目つきで僕のことを観察してくるので、僕の方も硬くなってしまって、しかし、それでは少女に負けた気がするので、僕も負けじと睨み返したが、少女の眼は僕の顔の奥の方へ焦点を結んでいるようで、僕と少女の眼は交差しなかった。
部屋に若い女がいる、と思うと部屋に、緊張の糸が張られ、しばらく忘れていた、性的な雰囲気というものを思い出した。自室が、はちみつのように粘り気のある、厭らしいものに感じられ、臓腑に女の匂いがしみ込んで来るという風になり、僕は久々に女に酔うという感じを覚えた。しかし、何かそれは物足りない、偽物のような気がする、それはこの女が、全くその気がないのに加えて、僕にももうそのような情熱がない、という単純な理由と、何かこの少女には聖女風なところがあるという理由もあった。自分で考えたことをもう一度反復する。僕には情熱がない…。若い女が無防備に自室にいる状況で、ただその状況を批評し、あるいは軽く陶酔するだけで、何も行為、アクションを起こさないというのは、罪のように思えた。罪だ。罪だけが、僕をこの人生に縛っているものであって、値する罰が加わるか、そんなもの罪ではないと、人から嘲弄されれば、僕はたちまち死んでしまうだろう。殺人も強姦もしたことがないが、罪がある、と考えて、ふと、強姦をしたら自分の失われた人生の根っこが取り戻せるような気がしたが、それはあまりに重すぎる罪で、むしろ人生に潰されかねないと思い、その危うい考えを打ち消した。少女の方を眺めやると、少女は曖昧な眼をして、こちらの顔を見ている。
「私、お風呂に入ってきます」
予想に違わぬ高い、幼い声だった。言葉を交わさないという不文律は崩れ、部屋に張りつめていた緊張もほぐれ、僕はほうっとため息をついた。
「お風呂は廊下を出て、すぐ右にある」と僕は言った。少女は足が痺れているようで、よたよたしながら今にもこけそうな、危うい足取りで、風呂場へ向かった。ふと、自分を俯瞰しているような感覚に陥り、昨日からの出来事が、以前もあり、それをただなぞっているだけだ、という漠然とした不安に襲われ、僕は布団に潜り、自分の皮膚の感覚と記憶を点検した。「お前は澱んでいる」という声がして、弾けて、消えた。
少女は佐伯という名前らしく、聞いたときに、隙がなく、澄んでいる名前だな、という印象を受け、その少女の名前が佐藤や鈴木だったらがっかりしただろうな、と思った。制服の他に着るものがないので、僕のパジャマを貸してあげたが、サイズが合うわけもなく、身体と服装がちぐはぐで、不安定だった。僕が魂と呼んでいるもの、それは表情だったり、体温だったり、まなざしだったりするのだが、その魂に、この女は、切れ味の鋭い危うさを孕んでいるように見え、僕は今日も倦怠感に襲われて、朝からもう疲労しつくしていたが、彼女のことを詳しく知ろうと思った。
「家の人は?心配しないの?」
「しない。ネグレクトされてるから。一人暮らししてる。」
「学校は?」
「中退した。」
「制服を着てたじゃないか」
「着てただけ。他に服がないから」
佐伯の答えは異常にぶっきらぼうだったが、簡潔で的を得ていて、これはこれでいいのかもしれない。
「これからどうするつもりなの?」
「ここにいるつもり」
少し傲岸さすら感じる淡々とした口ぶりで受けごたえをする。僕はもうこれ以上追及するのをやめて、布団を被り、いつものように、自分の、陰鬱で悲観的な世界に浸ろうと思い、布団を被ったが、「ずるい」と一言言って、佐伯も布団の中へ入って来たので、僕の世界はなかなか形成されなかった。布団の中に、昨日嗅いだ、あの罠のような花の雰囲気が漂い、不穏な気持ちになり、僕は叫びそうになるが、佐伯は全て分かっているというような眼をして、僕の眼を見てくるので、叫び声は、喉につまって死んだ。
「何を考えてるの」
「罪」
「罪ってどういうこと」
「僕には罪があるんだ。それが何かは分からないけど。その考えが僕をこの世に縛っているんだ。ただの、うつ病患者の病状だとは思うけれどね。」
「私も罪がある」
「君も?」
「私も同じ。子供の頃から、ずっと罪がある。」
「じゃあ共犯者だね」と言ったが、佐伯はクスリとも笑わなかった。
3
絶望というあからさまな状態はとうの昔に抜け出て、今はもう諦観、捨て鉢のような精神状態で生きており、なにがどうなろうと、この少女の誘拐のせいで捕まろうと、僕にはどうでもいいことだった。この少女の、奥行のある、何かを訴えかけるような目つきを見ていると、それなりに官能を刺激されないこともなかったが、僕はもう枯れてしまった。僕は冬の人間だと思う。緑は枯れ、動物は冬眠し、人間だけが世界を這いまわるが、僕はもう人間ではないのかもしれない。布団にうずくまるだけの獣。罪には罰がなければ、世界に正義はないことになるが、この不条理な世界ではそれが当たり前で、つじつまの合わないことこそ、この世界の本質なのだ。自分は罪人だ、という意識がくすんだ頭を殴り飛ばし、罪をはらすために生きているが、その罪がなんなのか分からないから、倦怠と希死念慮を行ったり来たりしながら生きるしかない。
「罪ってどうやったら消えるのかな」
「罰か、赦し」
「赦し?」
「赦し」
赦しという解答は僕の頭の中にはなかった。
「誰に?」
「神様とか」
「神様っているの?」
「いない」
誰に赦されればいいのだろう。僕は明確な加害者だが、被害者はおらず、神もいない。
「佐伯は罰されたい?」
「うん」
佐伯が初めて微笑んだ。僕は小物入れから安全ピンを持ってきて、佐伯の太ももに、軽く刺した。僕にはなんの手ごたえも感じられないぐらい薄く刺した。仄かに血が出て、敷布団へ垂れた。僕たちは眼を合せた。つー、と太ももを涙のように垂れる血に合せて、僕は太ももに指を這わせた。幼児性のさらさらの肌に、既に乾きかけた血液がこびりついていて、そこを指でなぞると、佐伯は恍惚の表情を浮かべ、僕がもう一刺しすると、生々しい、生きている血液が、たらたらと流れ出したので、僕は手のひらを使って、太ももに血を塗りたくった。佐伯の太ももは少しピンクがかったものになり、血の、獣の匂いがした 「どう?」
「痛い」
「やめる?」
「やだ」
佐伯はまた、痴呆のように、口をあんぐりとあげて、曖昧な眼で、天井を見ていた。張りつめた肌に、ぷちんと針を刺すたびに、佐伯は一瞬眉をひそめるが、次の瞬間には、また天を仰ぐ、修道女のような表情になり、たまに、喘ぐような声を出すのだった。血が溢れて、布団が血塗れになったころ、口をもぐもぐさせていたので、口元を読み取ると「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟いており、それを見ると、佐伯がいじらしく、いじらしく感じられ、頭を撫でると、倒れるように僕の胸で号泣しだし、今度は子供がぐずるような大きな声で、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き出した。その日は一日中、そうしていた。
4
佐伯が僕の家にいついてから一週間ほど経った。僕は、他人が介入することで、うつ病が悪化するんじゃないかと心配していたが、佐伯は二階の方へずっと居て、僕とはあまり会話しなかったので、さほどの影響はなかった。
「ちょっと散歩へ行ってくるよ」
「分かった」
二階から高い、よく響く声が聞こえてくる。
松の木が群生している、神社へ僕はよく散歩へ行く。とぼとぼと、人のいない昼間から散歩をすると、軽い罪悪感を覚えるが、その罪悪感は僕が持っている原罪とは全く質の違うもので、僕の心臓に刺さるものではなかった。
「Kさん」
振り向くと佐伯がいた。どうということもない、見慣れた顔。
松の葉が落ちていたので、その先端で佐伯の腕をちくりと刺してみる。
「全然痛くないよ。ふにゃふにゃ。針がいい。」
「そっか」
と言って散歩を続ける。空は今日も鉛色で鬱陶しい色をしていて、僕を苛立たせるが、空に向かって怒っても仕方がないので、そのまま歩くが、今日も疲労感が取れず、足取りは重い。昨日、抗うつ剤を飲み忘れたかもしれない、と思うと急に家に帰りたくなったが、このまま引き返すのも癪だし、佐伯がついてきているのでこのまま歩く。今日の僕は少し苛々している。
「私たち、罪なんてないんじゃないかしら」
「どうして?」
「だってなにもしてないもの」
「何もしないのが罪なんだよ」
「だってKさんは病気でしょう?私悪いことなんて何もしてないわ。」
「でも引っかかるものがあるだろう」
「それはそうだけれど…」
「つまり僕らは微小な罪を、雪が徐々に積もるように作り続けてきたんじゃないか。微小な罪ってのは、なんなのか分からないけど」
「罪が明確な形になってないからこんなに苦しむのかな。ならいっそ、本当の罪を作るっていうのは?」
「本当の罪って?」
「分かりやすい罪。例えば殺人とか強姦とか放火とか。」
「僕はそんな気力ないよ」
「任せて」
佐伯は、神社の裏にある鬱蒼とした森へ、一人で走っていき、僕は心配になったが、僕の精神状態も限界だった。死にたい、それしか考えられず、神社の境内を、円を描くように歩いていると、段々、魂が鉛のように重たくなり、息をしているのでやっとだった。微小な罪、というのは呼吸のことなのかもしれない。
佐伯がかけて帰ってくると、大量に乾いた枯れ木の枝を抱えていた。
「放火しよう、神社。」
「そうだね」
神社の中は、畳で出来ていて、燃えるかどうか心配だったが、どっさりと枯れ木を置いて、その上に、持ってきた文庫本を乗せた。文庫本に火をつけると、枯れ木に広がっていき、ぱちぱちと音をたてて、炎は広がり、もう機能していない僕の精神はそれをただ観察していたが、佐伯の「逃げよう」という言葉で我に返り、神社の扉を閉めて、また重い足取りで歩き始めた。神社は内から徐々に火の手があがり、中から火の粉が吹き出し、僕たちは側のベンチに座ってその様子を見ていたが、人通りも少し多くなってきたので、家に帰ることにした。
夕方、神社へ行くと、数本の柱を残して、灰になっており、僕は、生まれて初めて、上手く呼吸ができた気がした。
いつも見慣れている、木や花が、ひとしお輝いて見えたが、あの「不条理」という言葉が頭に浮かぶと、まるで霧がかかったように、世界が曖昧に、輪郭のないものになるような気がして不安になり、その思考を打ち消そうとしたが、靴の裏に張り付いたガムのようにしっかり脳髄にくっついていて、世界は曖昧なままだった。一度、知り合いに眼鏡を借りて見たことがあるが、高い度の入った眼鏡をかけているような感じになり、僕の頭がおかしくなったのか、世界がおかしくなったのか分からないが、見えない力が僕を遠い気持ちにさせて、少し酩酊した風になった。「不条理」という言葉が、力強く脳みそを打ち、そのたびに、重力がなくなるような、なにも頼りになるものがなくなるような、そんな儚い気持ちになり、僕は花を一輪、茎の方からポキっと折って、その匂いを嗅いでみると、何かの罠のような甘い匂いがして、僕はその花をすぐ投げ捨ててしまった。一人で散歩するんじゃなかった。全てが曖昧という言葉の元にくくられ、僕は遠く遠くなり、足を止めた。
五分ほど足を止めていると、目の前にうら若い女子高生が通り、自分が動かしたのではないように、手が勝手に女子高生を掴むと、女子高生はその眼鏡の奥からきょとんした眼でこちらの眼を凝視し、僕は一体何をしているんだろうという気になったが、女子高生が抵抗しない以上、僕は女子高生の手をとって自宅まで歩き始めた。女子高生の手は徐々に汗ばんでいくが、それが体温のせいなのか、怯えのせいなのかは分からない、この女は何も喋らずに、しかし眼だけは誰かの助けを求めるように、ぎょろぎょろと動かしていたが、急に、諦めたように、放心し、天を仰ぐように首をかくんと後ろへ倒し、その不格好な姿のままで僕に引っ張られるまま歩いている。僕は急に死にたくなって、足を止めた。少女も足を止めた。言い難い不安感に襲われ、心臓が生ぬるい毒に犯されたように、歪な鼓動を打ち、手汗はいっとう吹き出し、女の手汗と入り交じり、泥鰌を握っているような気分になり、僕は手を放したが、僕は余程顔色が悪かったと見えて、今度は少女のほうから僕の手をとって、近くにあるベンチまで連れてこられた。少女は、相変わらず口をあんぐりあげて、空を見ているというような痴呆じみた恰好をしていたので、僕もそれに倣ってふいと空を見上げると、鬱陶しいような雲で天が覆われていたが、光が一筋だけさしていて、なにやら恍惚の感を催させるものがあった、一分二分と見ているうちに、徐々に呼吸が浅くなり、鼓動が乱舞し、意識が曖昧になってきたので、僕は少女のほうをジっと見ることにした。目鼻立ちは整っているが、どうも幼児のような、痴呆のような雰囲気がし、自分は今痴呆と並んでいるのかと思ったら、少し気分が楽になった。
光がさしているので、雨は降らないと思っていたが、沈鬱な雲が徐々に液状化し、ぽつりぽつりと降ってきたので、僕は家に帰ろうとすると、少女が服の裾を引っ張ってきて、潤んだ眼でこちらを見ている。僕は何が何やら分からないまま、土砂降りにならないうちに帰ろうと早足で帰途についたが、うしろからスタスタと例の少女がついてきて、なにやら厄介ごとになりそうで、胸がムカムカしたが、僕たちの間には、言葉を交わさないという不文律があるような気がしたので、何も言わず、僕は家に帰った。女も何も言わず、僕の家に入った。
精神的に少しまいったので、抗不安薬を飲んで、ソファに寝ころぶと、急にまた「不条理」という言葉がガンガン頭に響いて頭痛がしてきたので、抗不安薬をもう一錠飲んで、少女を見やった。少女は慣れない家に戸惑っている風もなく、床に寝そべって、何かうわ言のようなものを呟いていて、憂鬱症にかかっている僕には、それが僕に対する呪詛のように感じられて、気味が悪かった。また希死念慮が湧いてきて、僕はそのまま眠ってしまった。
2
眼が覚めると、体がゆっさゆっさと揺れていて、目ヤニを取りながら、右の方を見ると白っぽいものが見え、徐々に眼が澄んでくると、例の少女が僕の体を泣きながら揺すっていて、頭に響くのでやめてほしかったが、なぜかこの少女には口を聞く気がせず、そのままなすがままになっていた。なぜ泣いているのか、なぜ揺すっているのか分からないが、僕は少女の力に身を任せた。僕が眼を覚ましたのを確認すると、少女は泣くのをやめたが、今度はキャキャと笑いながらゆっさゆっさと体を揺さぶってくるので、気狂いに絡まれたような気分で、揺れていると、急に少女は手を止めて、僕の顔を覗いてきた。眼を細めて、何か重大なものでも見るような目つきで僕のことを観察してくるので、僕の方も硬くなってしまって、しかし、それでは少女に負けた気がするので、僕も負けじと睨み返したが、少女の眼は僕の顔の奥の方へ焦点を結んでいるようで、僕と少女の眼は交差しなかった。
部屋に若い女がいる、と思うと部屋に、緊張の糸が張られ、しばらく忘れていた、性的な雰囲気というものを思い出した。自室が、はちみつのように粘り気のある、厭らしいものに感じられ、臓腑に女の匂いがしみ込んで来るという風になり、僕は久々に女に酔うという感じを覚えた。しかし、何かそれは物足りない、偽物のような気がする、それはこの女が、全くその気がないのに加えて、僕にももうそのような情熱がない、という単純な理由と、何かこの少女には聖女風なところがあるという理由もあった。自分で考えたことをもう一度反復する。僕には情熱がない…。若い女が無防備に自室にいる状況で、ただその状況を批評し、あるいは軽く陶酔するだけで、何も行為、アクションを起こさないというのは、罪のように思えた。罪だ。罪だけが、僕をこの人生に縛っているものであって、値する罰が加わるか、そんなもの罪ではないと、人から嘲弄されれば、僕はたちまち死んでしまうだろう。殺人も強姦もしたことがないが、罪がある、と考えて、ふと、強姦をしたら自分の失われた人生の根っこが取り戻せるような気がしたが、それはあまりに重すぎる罪で、むしろ人生に潰されかねないと思い、その危うい考えを打ち消した。少女の方を眺めやると、少女は曖昧な眼をして、こちらの顔を見ている。
「私、お風呂に入ってきます」
予想に違わぬ高い、幼い声だった。言葉を交わさないという不文律は崩れ、部屋に張りつめていた緊張もほぐれ、僕はほうっとため息をついた。
「お風呂は廊下を出て、すぐ右にある」と僕は言った。少女は足が痺れているようで、よたよたしながら今にもこけそうな、危うい足取りで、風呂場へ向かった。ふと、自分を俯瞰しているような感覚に陥り、昨日からの出来事が、以前もあり、それをただなぞっているだけだ、という漠然とした不安に襲われ、僕は布団に潜り、自分の皮膚の感覚と記憶を点検した。「お前は澱んでいる」という声がして、弾けて、消えた。
少女は佐伯という名前らしく、聞いたときに、隙がなく、澄んでいる名前だな、という印象を受け、その少女の名前が佐藤や鈴木だったらがっかりしただろうな、と思った。制服の他に着るものがないので、僕のパジャマを貸してあげたが、サイズが合うわけもなく、身体と服装がちぐはぐで、不安定だった。僕が魂と呼んでいるもの、それは表情だったり、体温だったり、まなざしだったりするのだが、その魂に、この女は、切れ味の鋭い危うさを孕んでいるように見え、僕は今日も倦怠感に襲われて、朝からもう疲労しつくしていたが、彼女のことを詳しく知ろうと思った。
「家の人は?心配しないの?」
「しない。ネグレクトされてるから。一人暮らししてる。」
「学校は?」
「中退した。」
「制服を着てたじゃないか」
「着てただけ。他に服がないから」
佐伯の答えは異常にぶっきらぼうだったが、簡潔で的を得ていて、これはこれでいいのかもしれない。
「これからどうするつもりなの?」
「ここにいるつもり」
少し傲岸さすら感じる淡々とした口ぶりで受けごたえをする。僕はもうこれ以上追及するのをやめて、布団を被り、いつものように、自分の、陰鬱で悲観的な世界に浸ろうと思い、布団を被ったが、「ずるい」と一言言って、佐伯も布団の中へ入って来たので、僕の世界はなかなか形成されなかった。布団の中に、昨日嗅いだ、あの罠のような花の雰囲気が漂い、不穏な気持ちになり、僕は叫びそうになるが、佐伯は全て分かっているというような眼をして、僕の眼を見てくるので、叫び声は、喉につまって死んだ。
「何を考えてるの」
「罪」
「罪ってどういうこと」
「僕には罪があるんだ。それが何かは分からないけど。その考えが僕をこの世に縛っているんだ。ただの、うつ病患者の病状だとは思うけれどね。」
「私も罪がある」
「君も?」
「私も同じ。子供の頃から、ずっと罪がある。」
「じゃあ共犯者だね」と言ったが、佐伯はクスリとも笑わなかった。
3
絶望というあからさまな状態はとうの昔に抜け出て、今はもう諦観、捨て鉢のような精神状態で生きており、なにがどうなろうと、この少女の誘拐のせいで捕まろうと、僕にはどうでもいいことだった。この少女の、奥行のある、何かを訴えかけるような目つきを見ていると、それなりに官能を刺激されないこともなかったが、僕はもう枯れてしまった。僕は冬の人間だと思う。緑は枯れ、動物は冬眠し、人間だけが世界を這いまわるが、僕はもう人間ではないのかもしれない。布団にうずくまるだけの獣。罪には罰がなければ、世界に正義はないことになるが、この不条理な世界ではそれが当たり前で、つじつまの合わないことこそ、この世界の本質なのだ。自分は罪人だ、という意識がくすんだ頭を殴り飛ばし、罪をはらすために生きているが、その罪がなんなのか分からないから、倦怠と希死念慮を行ったり来たりしながら生きるしかない。
「罪ってどうやったら消えるのかな」
「罰か、赦し」
「赦し?」
「赦し」
赦しという解答は僕の頭の中にはなかった。
「誰に?」
「神様とか」
「神様っているの?」
「いない」
誰に赦されればいいのだろう。僕は明確な加害者だが、被害者はおらず、神もいない。
「佐伯は罰されたい?」
「うん」
佐伯が初めて微笑んだ。僕は小物入れから安全ピンを持ってきて、佐伯の太ももに、軽く刺した。僕にはなんの手ごたえも感じられないぐらい薄く刺した。仄かに血が出て、敷布団へ垂れた。僕たちは眼を合せた。つー、と太ももを涙のように垂れる血に合せて、僕は太ももに指を這わせた。幼児性のさらさらの肌に、既に乾きかけた血液がこびりついていて、そこを指でなぞると、佐伯は恍惚の表情を浮かべ、僕がもう一刺しすると、生々しい、生きている血液が、たらたらと流れ出したので、僕は手のひらを使って、太ももに血を塗りたくった。佐伯の太ももは少しピンクがかったものになり、血の、獣の匂いがした 「どう?」
「痛い」
「やめる?」
「やだ」
佐伯はまた、痴呆のように、口をあんぐりとあげて、曖昧な眼で、天井を見ていた。張りつめた肌に、ぷちんと針を刺すたびに、佐伯は一瞬眉をひそめるが、次の瞬間には、また天を仰ぐ、修道女のような表情になり、たまに、喘ぐような声を出すのだった。血が溢れて、布団が血塗れになったころ、口をもぐもぐさせていたので、口元を読み取ると「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟いており、それを見ると、佐伯がいじらしく、いじらしく感じられ、頭を撫でると、倒れるように僕の胸で号泣しだし、今度は子供がぐずるような大きな声で、「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣き出した。その日は一日中、そうしていた。
4
佐伯が僕の家にいついてから一週間ほど経った。僕は、他人が介入することで、うつ病が悪化するんじゃないかと心配していたが、佐伯は二階の方へずっと居て、僕とはあまり会話しなかったので、さほどの影響はなかった。
「ちょっと散歩へ行ってくるよ」
「分かった」
二階から高い、よく響く声が聞こえてくる。
松の木が群生している、神社へ僕はよく散歩へ行く。とぼとぼと、人のいない昼間から散歩をすると、軽い罪悪感を覚えるが、その罪悪感は僕が持っている原罪とは全く質の違うもので、僕の心臓に刺さるものではなかった。
「Kさん」
振り向くと佐伯がいた。どうということもない、見慣れた顔。
松の葉が落ちていたので、その先端で佐伯の腕をちくりと刺してみる。
「全然痛くないよ。ふにゃふにゃ。針がいい。」
「そっか」
と言って散歩を続ける。空は今日も鉛色で鬱陶しい色をしていて、僕を苛立たせるが、空に向かって怒っても仕方がないので、そのまま歩くが、今日も疲労感が取れず、足取りは重い。昨日、抗うつ剤を飲み忘れたかもしれない、と思うと急に家に帰りたくなったが、このまま引き返すのも癪だし、佐伯がついてきているのでこのまま歩く。今日の僕は少し苛々している。
「私たち、罪なんてないんじゃないかしら」
「どうして?」
「だってなにもしてないもの」
「何もしないのが罪なんだよ」
「だってKさんは病気でしょう?私悪いことなんて何もしてないわ。」
「でも引っかかるものがあるだろう」
「それはそうだけれど…」
「つまり僕らは微小な罪を、雪が徐々に積もるように作り続けてきたんじゃないか。微小な罪ってのは、なんなのか分からないけど」
「罪が明確な形になってないからこんなに苦しむのかな。ならいっそ、本当の罪を作るっていうのは?」
「本当の罪って?」
「分かりやすい罪。例えば殺人とか強姦とか放火とか。」
「僕はそんな気力ないよ」
「任せて」
佐伯は、神社の裏にある鬱蒼とした森へ、一人で走っていき、僕は心配になったが、僕の精神状態も限界だった。死にたい、それしか考えられず、神社の境内を、円を描くように歩いていると、段々、魂が鉛のように重たくなり、息をしているのでやっとだった。微小な罪、というのは呼吸のことなのかもしれない。
佐伯がかけて帰ってくると、大量に乾いた枯れ木の枝を抱えていた。
「放火しよう、神社。」
「そうだね」
神社の中は、畳で出来ていて、燃えるかどうか心配だったが、どっさりと枯れ木を置いて、その上に、持ってきた文庫本を乗せた。文庫本に火をつけると、枯れ木に広がっていき、ぱちぱちと音をたてて、炎は広がり、もう機能していない僕の精神はそれをただ観察していたが、佐伯の「逃げよう」という言葉で我に返り、神社の扉を閉めて、また重い足取りで歩き始めた。神社は内から徐々に火の手があがり、中から火の粉が吹き出し、僕たちは側のベンチに座ってその様子を見ていたが、人通りも少し多くなってきたので、家に帰ることにした。
夕方、神社へ行くと、数本の柱を残して、灰になっており、僕は、生まれて初めて、上手く呼吸ができた気がした。
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