人生入門

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哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

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西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
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どっちが先か

 宗教のことを「洗脳」とか「盲信」ってなじる人って、根本的に宗教っていうものを「人間が作ったもの」と考えているのだと思う。人間中心主義がある。もし人間が作っていない「真理」に随順するのならば、それは洗脳とは言わないだろう。「自然」なことである。

 例として南無阿弥陀仏の宗教をあげると、確かに南無阿弥陀仏の宗教は、歴史的には2000年前ぐらいにお経として誰かに書かれたものである。大乗非仏説云々はややこしくなるのでおいといて、このお経、大無量寿経というお経は、お釈迦様の悟りの内容である。「悟る」と言っても何を悟るのか、と言われれば、ダルマ(真理)を悟るのである。そして、真理は無始の初めから、人間がいなくても、ずっと現前している真理である。人間より先に、真理がある。南無阿弥陀仏の呼び声は、人間より先に完成されている。

 歴史的に言えば確かにお経として成文化されたのは2000年前である。けれども、お釈迦様が悟ったダルマ(真理)としての南無阿弥陀仏は永遠の過去から存在している。南無阿弥陀仏は人間が作ったものではない。

 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物(酸きもの)あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。


 自然法爾という親鸞の言い方がある。炎が空に昇り、水が下に流れる。そのように、念仏するものが浄土に往生するのは「自然」である。人間が計らう真理ではない。ただそのようになっている。

 僕の中の人間中心主義が言う。「でもそれもそういう”思想”でしょ?」
 
 南無阿弥陀仏は人間以前にあったのか、人間の発明品なのか。そこが分かれ目だ。

個性という無個性

 小学校中学校で死ぬほど個性個性言われてきた。今の若い人たちはみんなそうだと思う。死ぬほど個性個性言われてきた。なんで個性が大事かっていうと、多分消費社会とか、創造的な労働の需要とか、いろいろ原因はあるけど、一番は人権意識からだと思う。一人ひとりが尊くて、できる限り自由に生きる権利がある。テレビを見ても、りゅうちぇるだとか、なんかその亜流みたいな、普通の人とはちょっと違ったようなタレントが人気を集めてる。というかタレントって個性を売りにしてる職業だな。

 近代的な自由の概念があって、その概念の向こうには、キリスト教がある。神の前に一人で立って、自由意志を働かせるという思想がある。なんで個性個性言われるのかいまいちよく分からんけど、その辺が源流かなと思う。

 で、みんな個性的になろうと必死になって、髪型をキノコにしたり、哲学をしたり、芸術をしたりする。昔の共同体社会だったら、個の自由よりも、共同性を重んじるので、個性を発揮させないような教育だったんだろうなと思う。戦争の時代とか。軍人に個性はいらない。

 もっかい書くけど、みんな個性個性言われて洗脳されて、バカみたいにメンヘラアピールしたりバカみたいにキノコ頭にしたりバカみたいに音楽作ったりバカみたいに詩を書いたりバカみたいに写真を撮ったりする。「個性的になろう」というのが一種の洗脳なので、こいつらは構造的には「国のために尽くそう」と洗脳されて個性を潰されていた無個性の軍人と変わらない。
 「個性的になれ!」と号令がかかって、みんなが個性的になろうとした結果、個性的になろうと努力しようとすることが無個性になる。
 変人になりたいという欲望が無個性である。

 個性教にいる一面的な無個性人

 「個性」なんていう曖昧なものを探そうとしている犠牲者

自分

 空っぽで何もない 嘘しかない 虚栄心が強い 強がり ずる賢い 気持ち悪い 死にたい 何もしたくない 疲れた 何にもない 俺には何にもない
 
 
 
 
 
 死にたい

自分教

 マックスシェーラーという哲学者の概念に、「絶対領域」という概念があるらしい。人間は何かしらの絶対領域を持たずには生きていられない、とこの哲学者は言うらしい。例えば、お金。例えば、仕事。例えば、家族。例えば、恋人。例えば、自分。例えば、神。例えば、世間。
 普通の日本語で言えば「よりどころ」という言葉になるだろうが、「よりどころ」という言葉では少し弱いので、絶対領域と言ったほうがいいと思う。なにかしら、心の中に、究極的な自分の存在根拠のようなものがなければ、人間は生きていけない。

 最近喋った人の中には「私は自分のことしか信用していない」「自分の考えていることは絶対に正しいと思う」などと言っている人が多かった。絶対領域というのは言うなれば「神の座」のことだと思うが、こういう人は自分のことを神だと思っているわけである。
 で、これの何が問題かというと、自分は「無常」ということである。自分は神ではない。瞑想をしてみたらよくわかる。自分の考えを見つめていると、コロコロコロコロ思考が動いていく。自分の信念みたいなものも、数年たてば変わってしまうだろう。自分の心が「あて」になると思ってる人は、自己観察の足りていない人だと思う。怒ったと思えば笑い。笑ったと思えば悲しむ。人間の心はあてにならない。肉体はもっとあてにならない。病気になって死ぬだけだから。

 自分教というのが根強くある。近代的自我。こういう人はまず幸せにならない。「自分」の本質には「欲望」があるが、欲望は満たされることがないから。
 最後に笑うことができない。死ぬときに絶望する。「自分」は裏切るから。絶対に裏切らないものを探さなければならない。それは「自分」ではない。

現実逃避

多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである


死より確実なものはなく、死期より不確実なものはない


 人間は死ぬ。小2で気づいた。自分は死ぬんだなあって。そこから毎日のように生きる意味を考えている。僕は自分で自分を偉いと思う。だってほかの人が逃げていることから真正面から取り組んでいるから。
 
 まいにち飲み会しても、急性アル中で死ぬかもよ。カラオケしてる最中に心臓発作で死ぬかもよ。ライブしてる最中にキチガイに刺されて死ぬかもよ。今存在していることの不思議さ、死ぬことの絶対性、それらは揺るぎないはずなのに、誰もかれもが無視している。本を書いているような人は、僕よりも深い思索をしている人もたくさんいるけれど、僕がネットやリアルで知り合った人で、自分みたいな人はいなかった。

 カントの本をばあちゃんちで読んでいた時に、「でも結局哲学なんてものは頭の中のものだけだから、そういうもの読むと暗くなる」と言われた。(だから金儲けしなさい)というのが後に続く。カントは何が「善」で、どのように生きたら普遍的な道徳法則に従って生きられるか考えた哲学者で、何も考えずに付和雷同に生きてる人間ではない。ばあちゃんに「死んだらどうなるの?」って聞いたこともあるが、分からないとか、無限の意識と一緒になるとか、よくわからないこと言われた。死んだら無になるんなら、時間が全てを飲み込むなら、何もかも無駄じゃないか。

 レオナルドダヴィンチの作品は凄いけど、あと何万年かしたら誰も覚えてないだろう。デカルトの哲学も凄いけど、何万年かしたら誰も覚えてないだろう。テレビで「懐かしの音楽ショー」みたいな番組をやってた。昭和に何百万枚と売れた曲をクイズにして流していた。CDが何百万枚売れても数十年たてば記憶力クイズの問題にされる。

 死んで無になると思ってる人は、本当に生きてないんじゃなかろうか。昨日読んだ池田晶子と大峯顕の対談で、池田晶子がこう言っていた。
 死というのは、人がものを考えるための最大の契機ですから、それを避けて通って、人生をほんとうに生きられるわけがないですよ。


 僕はよく「生き急いでる」と言われる。そりゃ急ぐよ。だって明日死ぬかもしれないんだから。死んだら無になるから何もかも無駄、という意識のまま死にたくないよ。「いつ死んでもいい」と生死の決着がついてから死にたい。

 この世でどれだけ偉くなっても、どれだけ表現をしても、死ぬ。生は夢で、むしろ死のほうに絶対的な「現実性」「リアリティ」がある。
 
 哲学や宗教をしていると現実逃避だと言われる。逃避してるのはどっちなんだ、これは16歳の頃から言っている。死から逃避している人は、自分が癌の宣告をされたとき絶望するだろう。でも人間はみんな癌を持っているのと同じなんだ。だって明日死ぬかもしれないんだから。癌になって絶望するのは遅い。僕は小2の頃から絶望している。みんなは絶望をひた隠しにして生きている。どっちが逃避しているんだ。お前は死ぬんだよ、確実に

宗教とは何なのか

 僕の信心の味わい、本を読んで得た結果から言うと、宗教は「事実」だと思う。様々な「呼び声」が紡がれた結果の、「事実」である。
 現代日本の「宗教=事実」は、精子と卵子が結合して細胞分裂をして、赤ちゃんが生まれて老いて死んで無になるというものである。なぜこういう「宗教=事実」になるのか?それは科学主義、技術主義が「宗教=事実」の世界になっているからである。学校の教育でも、人間は猿から進化したという「呼び声」が聞こえる。この世界には「物」しかないんだという「呼び声」が聞こえる。こういった様々な「呼び声」に呼ばれていった先にあるものが、「宗教=事実」である。現代日本人には、死んで無になるというのが端的な「事実」である。洗脳という言葉を使いたいなら、使えばいいけど、僕は洗脳とまでは思わない。

 イスラム教やキリスト教の国に生まれれば、「聖書は正しい」「神が世界を創造した」「死ねば神の国に行く」などという「呼び声」がして、それが「宗教=事実」になる。現代日本のほうは、端的な「事実」で、これらの宗教国を「宗教」だとするのは、自分が日本に生まれたからそう思うだけである。それか自分が「合理主義」という「呼び声」に導かれていることに気づいていないだけである。

 浄土真宗では、釈迦が父で、弥陀が母である。その両親が、骨を折って、一切の衆生を救おうと、方便を駆使して、呼んでいる。南無阿弥陀仏とは、「お前を救うぞ」という弥陀の呼び声である。その「呼び声」に導かれて、「宗教=事実」にたどり着く。

 宗教は、事実である。信仰するものではない。空気のようなものである。当り前のもの。

 では現代日本とキリスト教と浄土真宗のどれが正しい事実なのかと聞かれると、相対主義に陥りかねないが、結局人生というものは1つ限りのパッケージであって、その人にとっての「事実」は他の人と共有する必要も戦わせる必要もない。1つの人生に1つの事実がある。人生は一つで完結している。宗教は、さまざまな「呼び声」に導かれてたどり着く末の、「事実」である。
 

この生死は、仏の御いのちなり

 「この生死は、仏の御いのちなり」という言葉をここ何日かずっと噛み締めている。浄土教ではなくて、道元禅師の言葉だけど、まさに大乗仏法の真理という感じがする。大峯顕の本に「我々が如来に生かされているのは明々白々の事実ではありませんか」と書いてあったが、まさにそう思う。僕は「俺」が死ぬと思っていたが、その「俺」は仏の御いのちだった。仏の無限の命そのものが「俺」だった。

たとえわたしが仏になることができても、光明に限りがあって数限りない諸仏がたの国々を照らさないならば、わたしは決して仏になりません。


たとえわたしが仏になることができても、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるならば、わたしは決して仏になりません。


 阿弥陀とは、アミターユスというサンスクリット語の訳語で、無限の光、無限の命という意味である。無限の光、無限の命に帰命して生きる。

 ニーチェ主義者っぽい女とチャットをしていて、南無阿弥陀仏を信じるとどうなるの?と聞かれたから、浄土に行ける、と答えた。そうすると、その女は宗教はそういう背後世界を説いて、現実逃避をさせて、生きる気力をなくさせるから嫌い、と言った。
 そうではない。無限の光、無限の命である仏そのものが、自分と一体であることに気づくこと、これは、善も悪も生も死も全部超えた彼岸である。善悪生死の彼岸である。「仏の御いのち」は、善も悪も生も死もぶっ続きで肯定する、太陽よりも明るい肯定である。

 この生死は、仏の御いのちなり この言葉で、自分の中である種の転換があったように思う。無限の中に生きているという宗教感情が生まれた。この無限に全部任せればええんや
 南無阿弥陀仏。無限の命そのものである仏が「お前を絶対に助けるぞ」と僕の口から出ているのが南無阿弥陀仏である。尊いなあ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 YouTubeで1000万回ぐらい再生のボカロ曲で「命に嫌われている」という曲がある。どうしようもなく安直な歌詞で全然好きじゃないのだが、現代の若者に広がるニヒリズムは確実に写し取っている。
お金がないので今日も一日中惰眠を謳歌する
生きる意味なんて見い出せず、
無駄を自覚して息をする。
「寂しい」なんて言葉でこの傷が表せていいものか
そんな意地ばかり抱え今日も一人ベッドに眠る

少年だった僕達はいつか青年に変わっていく。
年老いていつか枯れ葉のように誰にも知られず朽ちていく。
不死身な身体を手に入れて、一生死なずに生きていく。
そんなSFを妄想してる

命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちていく。
それでも僕らは必死に生きて
命を必死に抱えて生きて
殺して あがいて 笑って 抱えて

生きて、生きて、生きて、
生きて、生きろ。


 普通に日本で生きていて、この歌詞を否定するのは無理だと思う。
生きる意味なんて見い出せず、
無駄を自覚して息をする。

 生きる意味を見出せなくても、南無阿弥陀仏がある。無駄を自覚しても南無阿弥陀仏がある。
命に嫌われている。
結局いつかは死んでいく。
君だって僕だっていつかは枯れ葉のように朽ちていく。

 南無阿弥陀仏がある。永遠の命から、僕を呼ぶ声がする。僕らが命に嫌われているわけがない。世間全員に見捨てられても、永遠の命は俺を見捨てない。枯れ葉のように朽ちていって、浄土に行くのだ。この生死は仏の御いのちなり

なぜ自殺してはいけないのか

 なぜ自殺しちゃダメなのか?僕はネットの友達が3人自殺したことがあってめちゃくちゃ悲しかったので、自殺は反対派である。でも、自殺しちゃいけない理由を自分で考えても人に聞いても、「周りの人が悲しむから」という意見しか出てこなかった。死ぬのが怖い死ぬのが怖いってずっと言ってる80歳ぐらいの西洋哲学の専門哲学者も同じ意見だった。周りの人が悲しむから。まあそれはそうなんだけど、死んじゃってもしも「無」になるならもう周りは関係ないし、結局自分の命をどう処理するかは自分の「権利」だから自殺を決定的に反対する原理ではない。

 昨日読んだ本に、「いのち」は個人の所有物ではないと書いてあった。これは衝撃だった。いのちは無限のいのちの中で生きている命であって、宗教の言葉で言えば仏の命の中で生きている。僕はずっと大乗仏教を勉強していたのに、なんでこれに気づかなかったんだ…と愕然とした。
 浄土教を生きている人は、無限の命と無限の智慧に包まれて生きている。「阿弥陀仏」というのは、はかることのできない光と命という意味である。それに南無(帰命)する。永遠の命に随順していく。絶対的な生の肯定。阿弥陀仏というのは極楽浄土にポツンと坐っているんじゃなくて、今も僕たちの世界を命と光で照らしている。命が尊いのは、「人生が1回きり」でもなく「命は個人のもちもの」だからでもなく、命は無限で永遠だからだ。

 禅にも道元禅師の
この生死は即ち仏の御命なり。

という言葉がある。禅は仏の命を生きることである。坐禅は仏の命である。

 それは宗教を持っている人だけにしか通用しないのでは?と言われるかもしれないが、僕はこれは宗教ではなくて「宗教的」な事実だと思う。人間は宗教を持っていなくても全員宗教的だ。「俺の」命じゃないから、無限の命だから、無限の尊さがある。宗教を持っていなくても、澤木興道の次の言葉は了解できるんじゃないか

天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人も施す。施し合い。われわれはこの布施し合う中にのみ、生きておる。ありがたいと思うても思わいでも、そうなのである。

包丁を持ったテディベア

私がいきてゆけなくなったのは、食べ物がないからではない。着物がないからでもない。住宅がないからではない。私の心の底まで知り尽くしてくれるものがないではないか。人生の底に、うらぎらない愛がないものだろうか。

という手記を残して自殺した、北ヨーロッパの老人の話を、ある先生から聞かせて頂いたことがあります。「人生の底に、うらぎらない愛がないものだろうか」と、悲しい叫びとともにこの人生をおえられた老人は、遠い国の、私たちに関係のない話でしょうか。私はそうは思いません。人生において、「真実のよりどころ」をもつことのできなかった人間の悲しくも、あわれな断末魔の声であると思います。では、この世に「真実のよりどころ」となる「うらぎらない愛」があるのでしょうか。
 私たちは、親子の愛・夫婦の愛・師弟の愛・兄弟の愛・隣人の愛等の愛の中に生きています。愛あって私たちは生き、生かされています。愛は素晴らしいものです。しかし、私たちの中に、どんなことがあってもうらぎらないという愛があるでしょうか。もちろん、最初から、うらぎろうという愛はありませんが、すべてが動き、変化する無常のこの世にあっては、悲しいことですが、愛も動き、変化するのです。動き、変化することによって、私たちの愛は、相手の期待にそえなくなります。ですから、私たちの場合、うらぎるつもりはなくても、自分の都合や、また時間や環境の変化によって相手の期待に答えきれなくなり、結果として、うらぎったということになるのです。
それですから、私たちの愛の中に「うらぎらない愛」をもとめても、それは相手の動きと変化をこばみ、相手を苦しめるだけで、「真実のよりどころ」となる「うらぎらない愛」とはならないのです。
   では、人間の中に「うらぎらない愛」がないのなら、他のものの中に「うらぎらない
   もの」があるのでしょうか
  「お金」をうらぎらないものとして、よりどころにしている人もいます。
  「地位」を不動のものとして、そこに座りこんでいる人もいます。
  しかし、「お金」も「地位」も、いつまでもじっとしていてはくれません。
  では、自分自身はどうでしょうか、「自分しかこの世でたよりになるものはない」と頑張っている人は案外多いようです。しかし自分自身も無常の世にあって、死にたくなくても死ぬというかたちで最後は自分自身の期待を裏切ります。この世に、最後の最後まで、私たちの期待をうらぎることのないものは、何一つとしてないのです。

所有

 スカイプの女に「人間って人間のこと所有できると思う?」って聞いたら「できない」って言ってた。親子も恋人も絶対に所有関係にはならない。なるとしたら、それは暴力である。
 「所有」と聞いて思い出すのが、小学生の頃、ペットが欲しくても親になかなか言い出せなくて悶々としていたとき、突然ある発想が浮かんできた。「この世界を全部自分の庭だと思えば、世界中の動物は自分のペットなんじゃないか?」学校の原っぱにいるバッタもお隣さんにいる犬も全部自分のペットだった。
 とあるスピリチュアル本に書いてあったが、「あのビルは私のものです」という人は、大金持ちか、精神病者か、嘘つきである。そして大金持ちの場合であってもそのビルを所有しているという根拠は、その人が契約書を持っていて、他人がそれを承認しているという危うい事実でしかない。災害が起きてぶち壊れたらもう自分のものではない。

 所有とは本質的に幻想である。聖道門の仏教は、その所有という幻想を見抜いていって、自分の身体や心もろとも捨てる道である。浄土門は、阿弥陀に絶対的に所有される道である。
 真の所有関係は、家族でもなく、恋人でもなく、金でもなく、地位でもなく、阿弥陀と凡夫の間にしか存在しない
 共依存したいなら阿弥陀さんとしな
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