なぜ自殺してはいけないのか
なぜ自殺しちゃダメなのか?僕はネットの友達が3人自殺したことがあってめちゃくちゃ悲しかったので、自殺は反対派である。でも、自殺しちゃいけない理由を自分で考えても人に聞いても、「周りの人が悲しむから」という意見しか出てこなかった。死ぬのが怖い死ぬのが怖いってずっと言ってる80歳ぐらいの西洋哲学の専門哲学者も同じ意見だった。周りの人が悲しむから。まあそれはそうなんだけど、死んじゃってもしも「無」になるならもう周りは関係ないし、結局自分の命をどう処理するかは自分の「権利」だから自殺を決定的に反対する原理ではない。
昨日読んだ本に、「いのち」は個人の所有物ではないと書いてあった。これは衝撃だった。いのちは無限のいのちの中で生きている命であって、宗教の言葉で言えば仏の命の中で生きている。僕はずっと大乗仏教を勉強していたのに、なんでこれに気づかなかったんだ…と愕然とした。
浄土教を生きている人は、無限の命と無限の智慧に包まれて生きている。「阿弥陀仏」というのは、はかることのできない光と命という意味である。それに南無(帰命)する。永遠の命に随順していく。絶対的な生の肯定。阿弥陀仏というのは極楽浄土にポツンと坐っているんじゃなくて、今も僕たちの世界を命と光で照らしている。命が尊いのは、「人生が1回きり」でもなく「命は個人のもちもの」だからでもなく、命は無限で永遠だからだ。
禅にも道元禅師の
という言葉がある。禅は仏の命を生きることである。坐禅は仏の命である。
それは宗教を持っている人だけにしか通用しないのでは?と言われるかもしれないが、僕はこれは宗教ではなくて「宗教的」な事実だと思う。人間は宗教を持っていなくても全員宗教的だ。「俺の」命じゃないから、無限の命だから、無限の尊さがある。宗教を持っていなくても、澤木興道の次の言葉は了解できるんじゃないか
昨日読んだ本に、「いのち」は個人の所有物ではないと書いてあった。これは衝撃だった。いのちは無限のいのちの中で生きている命であって、宗教の言葉で言えば仏の命の中で生きている。僕はずっと大乗仏教を勉強していたのに、なんでこれに気づかなかったんだ…と愕然とした。
浄土教を生きている人は、無限の命と無限の智慧に包まれて生きている。「阿弥陀仏」というのは、はかることのできない光と命という意味である。それに南無(帰命)する。永遠の命に随順していく。絶対的な生の肯定。阿弥陀仏というのは極楽浄土にポツンと坐っているんじゃなくて、今も僕たちの世界を命と光で照らしている。命が尊いのは、「人生が1回きり」でもなく「命は個人のもちもの」だからでもなく、命は無限で永遠だからだ。
禅にも道元禅師の
この生死は即ち仏の御命なり。
という言葉がある。禅は仏の命を生きることである。坐禅は仏の命である。
それは宗教を持っている人だけにしか通用しないのでは?と言われるかもしれないが、僕はこれは宗教ではなくて「宗教的」な事実だと思う。人間は宗教を持っていなくても全員宗教的だ。「俺の」命じゃないから、無限の命だから、無限の尊さがある。宗教を持っていなくても、澤木興道の次の言葉は了解できるんじゃないか
天地も施し、空気も施し、水も施し、植物も施し、動物も施し、人も施す。施し合い。われわれはこの布施し合う中にのみ、生きておる。ありがたいと思うても思わいでも、そうなのである。
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