私がいきてゆけなくなったのは、食べ物がないからではない。着物がないからでもない。住宅がないからではない。私の心の底まで知り尽くしてくれるものがないではないか。人生の底に、うらぎらない愛がないものだろうか。
という手記を残して自殺した、北ヨーロッパの老人の話を、ある先生から聞かせて頂いたことがあります。「人生の底に、うらぎらない愛がないものだろうか」と、悲しい叫びとともにこの人生をおえられた老人は、遠い国の、私たちに関係のない話でしょうか。私はそうは思いません。人生において、「真実のよりどころ」をもつことのできなかった人間の悲しくも、あわれな断末魔の声であると思います。では、この世に「真実のよりどころ」となる「うらぎらない愛」があるのでしょうか。
私たちは、親子の愛・夫婦の愛・師弟の愛・兄弟の愛・隣人の愛等の愛の中に生きています。愛あって私たちは生き、生かされています。愛は素晴らしいものです。しかし、私たちの中に、どんなことがあってもうらぎらないという愛があるでしょうか。もちろん、最初から、うらぎろうという愛はありませんが、すべてが動き、変化する無常のこの世にあっては、悲しいことですが、愛も動き、変化するのです。動き、変化することによって、私たちの愛は、相手の期待にそえなくなります。ですから、私たちの場合、うらぎるつもりはなくても、自分の都合や、また時間や環境の変化によって相手の期待に答えきれなくなり、結果として、うらぎったということになるのです。
それですから、私たちの愛の中に「うらぎらない愛」をもとめても、それは相手の動きと変化をこばみ、相手を苦しめるだけで、「真実のよりどころ」となる「うらぎらない愛」とはならないのです。
では、人間の中に「うらぎらない愛」がないのなら、他のものの中に「うらぎらない
もの」があるのでしょうか
「お金」をうらぎらないものとして、よりどころにしている人もいます。
「地位」を不動のものとして、そこに座りこんでいる人もいます。
しかし、「お金」も「地位」も、いつまでもじっとしていてはくれません。
では、自分自身はどうでしょうか、「自分しかこの世でたよりになるものはない」と頑張っている人は案外多いようです。しかし自分自身も無常の世にあって、死にたくなくても死ぬというかたちで最後は自分自身の期待を裏切ります。この世に、最後の最後まで、私たちの期待をうらぎることのないものは、何一つとしてないのです。
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