所有
スカイプの女に「人間って人間のこと所有できると思う?」って聞いたら「できない」って言ってた。親子も恋人も絶対に所有関係にはならない。なるとしたら、それは暴力である。
「所有」と聞いて思い出すのが、小学生の頃、ペットが欲しくても親になかなか言い出せなくて悶々としていたとき、突然ある発想が浮かんできた。「この世界を全部自分の庭だと思えば、世界中の動物は自分のペットなんじゃないか?」学校の原っぱにいるバッタもお隣さんにいる犬も全部自分のペットだった。
とあるスピリチュアル本に書いてあったが、「あのビルは私のものです」という人は、大金持ちか、精神病者か、嘘つきである。そして大金持ちの場合であってもそのビルを所有しているという根拠は、その人が契約書を持っていて、他人がそれを承認しているという危うい事実でしかない。災害が起きてぶち壊れたらもう自分のものではない。
所有とは本質的に幻想である。聖道門の仏教は、その所有という幻想を見抜いていって、自分の身体や心もろとも捨てる道である。浄土門は、阿弥陀に絶対的に所有される道である。
真の所有関係は、家族でもなく、恋人でもなく、金でもなく、地位でもなく、阿弥陀と凡夫の間にしか存在しない
共依存したいなら阿弥陀さんとしな
「所有」と聞いて思い出すのが、小学生の頃、ペットが欲しくても親になかなか言い出せなくて悶々としていたとき、突然ある発想が浮かんできた。「この世界を全部自分の庭だと思えば、世界中の動物は自分のペットなんじゃないか?」学校の原っぱにいるバッタもお隣さんにいる犬も全部自分のペットだった。
とあるスピリチュアル本に書いてあったが、「あのビルは私のものです」という人は、大金持ちか、精神病者か、嘘つきである。そして大金持ちの場合であってもそのビルを所有しているという根拠は、その人が契約書を持っていて、他人がそれを承認しているという危うい事実でしかない。災害が起きてぶち壊れたらもう自分のものではない。
所有とは本質的に幻想である。聖道門の仏教は、その所有という幻想を見抜いていって、自分の身体や心もろとも捨てる道である。浄土門は、阿弥陀に絶対的に所有される道である。
真の所有関係は、家族でもなく、恋人でもなく、金でもなく、地位でもなく、阿弥陀と凡夫の間にしか存在しない
共依存したいなら阿弥陀さんとしな
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