人生入門

生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 短歌も書いてますhttps://www.utayom.in/users/9552アフォリズム体解https://note.com/yasurakani信心入門https://anjinsinjjin.hatenablog.com詩入門https://utagoe.hateblo.jp小説 結構頻繁に更新しますhttps://novel18.syosetu.com/n4490gu/哲学書読書計画今まで読んだもの丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス今年と来年中に読むもの西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深再来年中に読むものイタリア現代思想 アドルノ ヤスパース
生と死の問題を解決して人生の門に入る方法を探る記録です 

短歌も書いてます
https://www.utayom.in/users/9552

アフォリズム体解
https://note.com/yasurakani

信心入門
https://anjinsinjjin.hatenablog.com

詩入門
https://utagoe.hateblo.jp

小説 結構頻繁に更新します
https://novel18.syosetu.com/n4490gu/


哲学書読書計画
今まで読んだもの
丸山圭三郎 プラトン アリストテレス エピクテトス デカルト ロック バークリー ヒューム スピノザ ラカン ニーチェ パスカル キルケゴール ショーペンハウアー ハイデガー ウィトゲンシュタイン プロティノス 龍樹 孔子 老子 荘子 クリシュナムルティ マルクス・ガブリエル マックス・シュティルナー ウィリアム・ジェイムズ シオラン ベルクソン ライプニッツ 九鬼周造 カント シェリング 波多野精一 メルロ・ポンティ ニーチェ ヘーゲル マルクス サルトル レヴィナス

今年と来年中に読むもの
西田幾多郎 フィヒテ バタイユ アウグスティヌス トマス・アクィナス パウル・ティリッヒ カール・バルト ガザーリー 清沢満之 曽我量深 金子大栄 安田理深

再来年中に読むもの
イタリア現代思想 アドルノ ヤスパース

絶望

 木村無相という人の書簡集を読んだ。

 宗教は洗脳だと言われるけれど、僕には洗脳ではなくてただただ絶望している人間が見えただけだった。

 浄土真宗には「深信」というのがあって、「機の深信」と「法の深信」というのがあるんだけれど、機の深信というのは、自己の本質を弥陀佛に照らし出されることで、法の深信は弥陀佛が必ず自己を救うということがハッキリするということ。阿弥陀仏に「どう考えても救われない自己」と「救われるしかない自己」の2つがハッキリ知らされる。
 無仏法で無信心で邪見驕慢悪衆生でどうしようもない自己。地獄に堕ちるしかない自己。「打つ手」のない自己。「行く道」のない自己。絶望しかない自己。地獄行きしかない自己。徹底的な絶望。仏法が信じれない自己。疑うしか能のない自己。

 道がなくなったときに、南無阿弥陀仏の声がする。なんの「打つ手」もなくなるところまで、絶望する。南無阿弥陀仏の声がする。助かった。助かった。
 

所詮

 ネットでボロ雑巾みたいに扱われてる。好き好きされてたのにこっちになにも落ち度ないのにブロック。通話即切り。気に食わないチャットを返信したらブロック。掲示板にID晒し。何もしてないのに「うつ病こじらせて死ね」と言われる。「つまんない」と言われる。ほかにもたくさん。

 まあ、7年もネットしてればなれるけど、今は特にメンタルがつらい時期なので、こいつら全員死んでほしいと思う。

 結局どの程度「同朋意識」を持てるかどうかで、「仲間」だと意識していない相手はゴミのように扱う。「仲間」だと意識していない生き物には、「所詮」がつく。所詮ゴキブリだから殺してもいいよね。所詮異教徒だから殺してもいいよね。所詮友達だから縁切ってもいいよね。所詮恋人だから浮気していいよね。所詮ネットだからゴミみたいに扱ってもいいよね。

 「仲間」と「所詮」の線引きは、その人の思想次第だけれど、喋る冷たい機械という化け物に、「仲間」という意識を持つことは、人間には難しいみたい。



 仲間意識がないというのもそうだけれど、ネットの人間をゴミみたいに扱う人間は、「この人を適当に扱っても自分の人生には関係ないし」と思ってるんだろう。ネットの人間に「自殺したい」というと、「別に知らない人だし関係ないし止めないよ」と言われることが多い。自分の生活圏=安全地帯にいない人間は、適当に扱っても、自分にはなんのデメリットもないから、適当に扱えばいいや。みんなそう思っている。自分のネットワークにいない人をどう扱おうがどうでもいい、みんなそう思っている。

 僕はそこまで冷淡になれない。自殺したいと言っていたら止めて慰めるし、通話を即切りしたり、なんの前触れもなくブロックしたりしない。なんの差なんだろう。単純に「優しさ」なのかな。自分と一切関係ない人にも配慮できる思いやり。自慢じゃないけど、僕にはそれがある。正直言っていらない。思いやりのない世界でそれを持っていても、傷つくだけだから。

人間

通話して2回ぐらいの人に適当に「本買って〜」と言ったら「他の人に頼んで」とごもっともな返事をされたけれど「なんで?」と聞いたら「私にメリットがないから」と言われた。別に最初から本を買ってもらえると思っていないのでいいんだけれど、その返答が人間の気持ち悪さを凝縮してて最悪だったので「もう寝る」って言って通話を切った。みんなそう。自分も。
 私にメリットがないから。

邪見驕慢悪衆生

 このブログに「自分は嘘つきだ」と書いていたら、「君は嘘つきなんだね、信用できない」と言われた。嘘をつかない人なんているんだろうか。僕は自分の虚仮性が昔から大嫌いなので、自分を嘘つきだと言うけれど、みんな、自分の本性を隠してるだけじゃないか。言葉は嘘を吐く道具だというのが僕の持論である。嘘つきじゃない人間なんていない。みんな虚仮だ。

 南無阿弥陀仏の勉強をし始めてから、自分の機(本性)がどんどん分かってきた。弥陀の光に照らされて明らかにされるということらしい。僕はまず、人の云うことを聞かない。邪見驕慢悪衆生。特に驕慢である。
きょう まん けう− [0] 【驕▼慢・ 憍 ▼慢】
( 名 ・形動 ) [文] ナリ
おごりたかぶって相手をあなどり、勝手気ままにふるまう・こと(さま)。

 自分が一番正しいと思っている。自分の中に真実なんてひとかけらもないのに。お経で合点がいかないところがあって、ネットにいるお坊さんに手あたり次第助言を求めたけれど、未だに自分の領解を優先させている。師の言葉が素直に受け入れられない。自分が一番偉いと思っている。邪見驕慢悪衆生としか言いようがない。それでもまだ自分勝手な計らいがやまない。どうしようもない。真実のひとかけらもないのに、自分が正しいと思っている。弥陀の本願も素直に聞けない。お前を救うと言っているのに。

 喧嘩をしても、自分が悪いとは微塵も思っていない。相手の非ばかりを言う。仏の種も何もない。

 

コメ返信

 最近ブログにコメントがちょくちょくついてる。ありがたや。質問コメントが来てたので返信します。
 普通ってなんなの?普通にならなきゃいけないわけってなに?終わってるってなんなの?そのレールって誰が敷いたの?ほんとに今まではそのうえを走ってこれてたの? 絶望してる暇あったらなんかすれば


 僕は「普通」とは社会的幻想であると思う。昔哲学界隈でツイッタラーをやっていたとき、西研か中島義道かなんかの引用文を見て、大きく頷いたことがある。「幸福とは社会的幻想にすぎない。社会的幻想と、現実が合致することが幸福である。それから外れたものは、既成の幻想以外に幻想を求めるしかない」みたいな文章だった気がする。
 じゃあ社会的幻想って何?ってなるけど、そこは現代日本の大勢が幸福だと思っている道だとしか言えない。僕の生きてきた日本だと、「高校を卒業して、専門学校か大学へ行って、普通に就職して、普通に結婚して、子供を作って死ぬ」というものだけれど、それが普通じゃないと思う人がいるならしょうがないけど、渋谷で100人にアンケートを取ると98%ぐらいは同意してくれると思うな。僕の友達や、親戚はみんなそういう道を通って生きている。姉ちゃんも短大を卒業して結婚してそろそろ子どもができそうだ。
 社会的幻想というぐらいだから、時代や社会によって違う。お国のために死ぬのが良しとされる幻想もあっただろうし、出家して解脱するのが幸福だとされている幻想もあるだろうし、そもそも生き延びるだけで大変な社会もあるだろう。
 「普通」があって「異常」がある。歌舞伎町とか兵庫の某所では、異常が繰り広げられているんだろうけれど、日本に生まれた以上、「普通」の意識は絶対になくならない。低学歴の人間が「学歴だけあってもバカはバカだな」とか「人間学歴じゃない」とか高学歴をバカにすると、必ず「負け惜しみだな」と認定される。異常な人間が普通の人間にたてついても、「普通」という意識の地盤は両方にある。風俗嬢や円光女が幸せになれないのは普通じゃないから。通念と現実が一致しないから。幻想から抜けると「負い目」が発生する。

 いろいろな「普通」があるわけじゃない。風俗嬢や極道、引きこもりや犯罪者など、さまざまな「異常」はいるけれど、その人たちにも必ず「普通」の地盤はある。そして普通の地盤から外れると負い目を感じる。

 「普通」という幻想から完全に抜けている本物のアウトサイダーもいるんだろうけれど、僕は今まで見たことがない。病人や知的障害の人で「普通」が抜けてる人なら見たことがあるけれど。
 

 普通って何なの?→社会的幻想 僕やあなたにとっては仕事をして結婚して子供を作ること
 普通にならなきゃいけないわけってなに?→幻想と現実を一致させて幸福になるため
 そのレールって誰が敷いたの?→社会
 終わってるってなんなの?→幻想と現実が一致する見込みがなくなった
 ほんとに今まではそのうえを走ってこれてたの? →中学生ぐらいまでは
 絶望してる暇あったらなんかすれば→宗教をします

普通の人生

 レールから完全に脱線した。もう普通の人生を望むのはやめよう。テレビのドキュメンタリーに出てくるような完全に終わってる40代の引きこもりみたいになればいいや。女も金もいらない。もう普通になれない。絶望している。

ずっと

 「いつまで一緒に住むの?」とか「いつまで好きなの?」とかいう質問が僕の口癖だった。今まで何十人とは言わないまでもそれなりの女の子が「ずっと」と口にしてきたが、全部嘘だった。今まで言われたやつで一番うれしいかったのは「死ぬまでずっと一緒だよ」ならぬ「死んでもずっと一緒だよ」だったな。
 「ずっと」は存在するんだろうか。「ずっと」を探し求めているんだけれど、恐らく人間の中にはない。

I think that

 どういう文脈かあやふやだけど、カントの入門書に、全ての認識には「I think that」が付くと書いてあった。確かにそうだ。全ての認識は主観の中にある。
 ある哲学者の言葉に
「誠実さ」についてだが、おそらく誰も十分に誠実であったことはない。

 とあるように、徹底的に「誠実」になることは難しい。それはこの「I think that」があるからだと僕は思う。「I think that」には「俺は正しい」という傲慢さが「構造的」に仕組まれている。

 I think that 私は誠実である
 I think that 私は嘘つきである
 I think that 私は美しい
 I think that 私は汚い
 I think that 君は不幸だ
 I think that 猫は可愛い
 I think that 清貧に生きるべきだ
 
 私は誠実である、私は嘘つきである、君は不幸だ、という言表、コンテンツの外側には必ずI think thatがある。そしてI think thatには「このコンテンツは必ず正しい」という傲慢さが付き纏う。

 話が少し飛ぶが、煩悩即菩提という言葉がある。初期仏教は煩悩を全て滅尽させて涅槃に入るが、大乗仏教は煩悩があるままで菩提(悟り)に入る。煩悩があるのに悟りなの?と思うかもしれないが、僕は、これはI think thatを破壊するのだと思う。そうすれば、「私は誠実である」「君は不幸だ」「猫は可愛い」などというコンテンツ=煩悩にI think that=我=傲慢さがなくなる

 またちょっと話が飛ぶが
 I think that 阿弥陀仏を信じる
 I think that 阿弥陀仏を信じない

 これはどちらも阿弥陀仏を信じていない。なぜなら「信心」とは、心の内容ではないから。自分のはからいが消えたとき、信心が起きる。言い換えれば、信心とはI think thatの消滅なのだと思う。
 
たとえわたしが仏になることができても、すべての諸仏の世界のものが、わたしの光明にてらされてそれを身に受けたなら身も心も和らぎ、天人や人々をこえすぐれるでしょう、もしそうでなければ、わたしは決して仏になりません。


 48願の中に、触光柔軟の願というのがある。実際に、信心を得ると、心が柔らかくなるらしい。阿弥陀仏のはからいで、I think thatがなくなり、代わりに仏心が流れ込む。I think that抜きで、ただ仏心の中にコンテンツ=煩悩が浮いている状態。

 
無碍光の利益より威徳広大の信をえてかならず煩悩のこほりとけすなはち菩提のみづとなる——高僧和讃

全く信じられない

 浄土真宗はの信心は極難信という。信じた者は救われるんでしょ?とかすがっていればいいから楽だねと思っていたけれど、そもそも信仰の門に入るのが難しい。全く信じられなくてつらい。

 科学的な教育を受けたので、証拠のないものを信じるというのがまず難しい。心配性で無駄に頭が回るから、「信じたら浄土に行けるって言うけど、そりゃ信じたら信じた人にだけ事実になるでしょ」とか「自分を捨てたら信じられるっていうけどそんなこと言ったら自分捨てたらなんでも信じられるでしょ」とか「そもそもみんな救うって言ってるんだから姿現して信じさせてくれよ」とか「このお経の文章はどうかな〜」とか、疑いの種が尽きない。こういうのを浄土真宗では「はからい」という。凡夫の自力のはからいを捨てて、如来の慈悲にお任せするのが信心と言われる。

 浄土真宗はキリスト教に似ていると思っていたけれど、そうじゃなくてやっぱり仏法は仏法なんだなと思う。蓮如上人の言葉
仏法は無我にて候

 キリスト教みたいに自分と神様の2つのモノがあるんじゃなくて、無我である自分の中に阿弥陀仏が溶け込んでくるのが信心と言われる。だから、無我になるために「はからい」を捨てなければならない。どうやって捨てるかというと、聴聞をして、阿弥陀仏の慈悲を聞き続けるしかない。そのうちに阿弥陀仏が信心を恵んでくれる。浄土真宗は「自分」が信じるのではなくて、信じる気持ちも阿弥陀仏にプレゼントしてもらう。といっても「そりゃ〜同じ話何度も聞いてたら信じるようになるんじゃないの?」みたいな自分の気持ち、はからいも湧いてくるけれど、こういう気持ち、はからいが阿弥陀仏に「負けた」ことを信心というのだと思う。

 阿弥陀仏は、「信じる」ものじゃない。例えば、私は妻を「信じる」というと、少し力みがある。自分の信じる「気持ち」を作るのではない。そういう力みがないところ、「気持ち」が全くなった空っぽの自分の中に、自然に現れてくる真理なのだと思う。

 さっき、証拠がない、って書いたけど、実は証拠はある。それが「南無阿弥陀仏」で、この南無阿弥陀仏というのは「何も心配しないでいいよ、ワシが全部やったるから、お前を必ず救うから、なんも考えなくてええ」という阿弥陀仏の呼び声である。「なんまんだぶ」と称える。阿弥陀仏が自分を呼んでいるんだなあ、と思う。そこで止まればいいのだが、「でも」これは自分の声だし…。とか「でも」そんなうまい話しがあるかなあ。とか「でも」が湧いてくる。気持ち、計らいが湧いてくる。そういうはからいがなくなって、「南無阿弥陀仏」「心配するな、必ず救う」をそのまま聞いたのが、救い。

日記

 小道に蝉の屍骸が落ちていて、毎回避けて通る。ちょっと気持ち悪いなと思いながら、今いのちを爆発させている蝉と、死んで蟻の餌になっている蝉を対比して、いのちとはなんだろうと強制的に考えさせられる。数年間引きこもって、一週間いのちを爆発させる蝉達が少し羨ましい。
 蝉が死ぬときの想像。ジーーーーーーーーーーー!ジーーーーーー!ジーー…ジー…ジジジ…ジ…。こてん。みんな死んでいく。悲しい。

 子供の頃はよく蝉取りをした。僕はとるのが結構上手かった。虫かごに入れて持ち帰ると、おばあちゃんに「夕方になったら逃がしてあげねえよ」と言われた。夕方に虫かごのフタを開けると、まだ明るい太陽の下で生き生きとどこかへ飛んで行った。もしかしたらそいつらの子孫が今鳴いてるのかもしれない。

 毎日スカイプちゃんねるでくだらない奴とくだらない会話を繰り広げているわけだが、少し前はスカイプちゃんねるのくだらない奴から「綺麗なホトトギスの声だね」と言われていたのだが、今は「凄い蝉の声だね」と言われる。何もしなくても季節は過ぎていくことを、くだらない奴に教えてもらった。
NEW ENTRIES
幻想主義者(02.13)
お釈迦さまとの対話(02.07)
なぜ苦しいのに生きなければならないのか(01.30)
人生の目的(01.25)
宗教 疑い(01.23)
仏教とは認知療法である(01.22)
親ガチャ(01.22)
オーバードーズ(01.17)
シオランと坐禅(01.17)
孤独(01.15)
RECENT COMMENTS
ARCHIVES
RSS
RSS