現実逃避
多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである
死より確実なものはなく、死期より不確実なものはない
人間は死ぬ。小2で気づいた。自分は死ぬんだなあって。そこから毎日のように生きる意味を考えている。僕は自分で自分を偉いと思う。だってほかの人が逃げていることから真正面から取り組んでいるから。
まいにち飲み会しても、急性アル中で死ぬかもよ。カラオケしてる最中に心臓発作で死ぬかもよ。ライブしてる最中にキチガイに刺されて死ぬかもよ。今存在していることの不思議さ、死ぬことの絶対性、それらは揺るぎないはずなのに、誰もかれもが無視している。本を書いているような人は、僕よりも深い思索をしている人もたくさんいるけれど、僕がネットやリアルで知り合った人で、自分みたいな人はいなかった。
カントの本をばあちゃんちで読んでいた時に、「でも結局哲学なんてものは頭の中のものだけだから、そういうもの読むと暗くなる」と言われた。(だから金儲けしなさい)というのが後に続く。カントは何が「善」で、どのように生きたら普遍的な道徳法則に従って生きられるか考えた哲学者で、何も考えずに付和雷同に生きてる人間ではない。ばあちゃんに「死んだらどうなるの?」って聞いたこともあるが、分からないとか、無限の意識と一緒になるとか、よくわからないこと言われた。死んだら無になるんなら、時間が全てを飲み込むなら、何もかも無駄じゃないか。
レオナルドダヴィンチの作品は凄いけど、あと何万年かしたら誰も覚えてないだろう。デカルトの哲学も凄いけど、何万年かしたら誰も覚えてないだろう。テレビで「懐かしの音楽ショー」みたいな番組をやってた。昭和に何百万枚と売れた曲をクイズにして流していた。CDが何百万枚売れても数十年たてば記憶力クイズの問題にされる。
死んで無になると思ってる人は、本当に生きてないんじゃなかろうか。昨日読んだ池田晶子と大峯顕の対談で、池田晶子がこう言っていた。
死というのは、人がものを考えるための最大の契機ですから、それを避けて通って、人生をほんとうに生きられるわけがないですよ。
僕はよく「生き急いでる」と言われる。そりゃ急ぐよ。だって明日死ぬかもしれないんだから。死んだら無になるから何もかも無駄、という意識のまま死にたくないよ。「いつ死んでもいい」と生死の決着がついてから死にたい。
この世でどれだけ偉くなっても、どれだけ表現をしても、死ぬ。生は夢で、むしろ死のほうに絶対的な「現実性」「リアリティ」がある。
哲学や宗教をしていると現実逃避だと言われる。逃避してるのはどっちなんだ、これは16歳の頃から言っている。死から逃避している人は、自分が癌の宣告をされたとき絶望するだろう。でも人間はみんな癌を持っているのと同じなんだ。だって明日死ぬかもしれないんだから。癌になって絶望するのは遅い。僕は小2の頃から絶望している。みんなは絶望をひた隠しにして生きている。どっちが逃避しているんだ。お前は死ぬんだよ、確実に
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