自分教
マックスシェーラーという哲学者の概念に、「絶対領域」という概念があるらしい。人間は何かしらの絶対領域を持たずには生きていられない、とこの哲学者は言うらしい。例えば、お金。例えば、仕事。例えば、家族。例えば、恋人。例えば、自分。例えば、神。例えば、世間。
普通の日本語で言えば「よりどころ」という言葉になるだろうが、「よりどころ」という言葉では少し弱いので、絶対領域と言ったほうがいいと思う。なにかしら、心の中に、究極的な自分の存在根拠のようなものがなければ、人間は生きていけない。
最近喋った人の中には「私は自分のことしか信用していない」「自分の考えていることは絶対に正しいと思う」などと言っている人が多かった。絶対領域というのは言うなれば「神の座」のことだと思うが、こういう人は自分のことを神だと思っているわけである。
で、これの何が問題かというと、自分は「無常」ということである。自分は神ではない。瞑想をしてみたらよくわかる。自分の考えを見つめていると、コロコロコロコロ思考が動いていく。自分の信念みたいなものも、数年たてば変わってしまうだろう。自分の心が「あて」になると思ってる人は、自己観察の足りていない人だと思う。怒ったと思えば笑い。笑ったと思えば悲しむ。人間の心はあてにならない。肉体はもっとあてにならない。病気になって死ぬだけだから。
自分教というのが根強くある。近代的自我。こういう人はまず幸せにならない。「自分」の本質には「欲望」があるが、欲望は満たされることがないから。
最後に笑うことができない。死ぬときに絶望する。「自分」は裏切るから。絶対に裏切らないものを探さなければならない。それは「自分」ではない。
普通の日本語で言えば「よりどころ」という言葉になるだろうが、「よりどころ」という言葉では少し弱いので、絶対領域と言ったほうがいいと思う。なにかしら、心の中に、究極的な自分の存在根拠のようなものがなければ、人間は生きていけない。
最近喋った人の中には「私は自分のことしか信用していない」「自分の考えていることは絶対に正しいと思う」などと言っている人が多かった。絶対領域というのは言うなれば「神の座」のことだと思うが、こういう人は自分のことを神だと思っているわけである。
で、これの何が問題かというと、自分は「無常」ということである。自分は神ではない。瞑想をしてみたらよくわかる。自分の考えを見つめていると、コロコロコロコロ思考が動いていく。自分の信念みたいなものも、数年たてば変わってしまうだろう。自分の心が「あて」になると思ってる人は、自己観察の足りていない人だと思う。怒ったと思えば笑い。笑ったと思えば悲しむ。人間の心はあてにならない。肉体はもっとあてにならない。病気になって死ぬだけだから。
自分教というのが根強くある。近代的自我。こういう人はまず幸せにならない。「自分」の本質には「欲望」があるが、欲望は満たされることがないから。
最後に笑うことができない。死ぬときに絶望する。「自分」は裏切るから。絶対に裏切らないものを探さなければならない。それは「自分」ではない。
コメントを書く...
Comments