どっちが先か
宗教のことを「洗脳」とか「盲信」ってなじる人って、根本的に宗教っていうものを「人間が作ったもの」と考えているのだと思う。人間中心主義がある。もし人間が作っていない「真理」に随順するのならば、それは洗脳とは言わないだろう。「自然」なことである。
例として南無阿弥陀仏の宗教をあげると、確かに南無阿弥陀仏の宗教は、歴史的には2000年前ぐらいにお経として誰かに書かれたものである。大乗非仏説云々はややこしくなるのでおいといて、このお経、大無量寿経というお経は、お釈迦様の悟りの内容である。「悟る」と言っても何を悟るのか、と言われれば、ダルマ(真理)を悟るのである。そして、真理は無始の初めから、人間がいなくても、ずっと現前している真理である。人間より先に、真理がある。南無阿弥陀仏の呼び声は、人間より先に完成されている。
歴史的に言えば確かにお経として成文化されたのは2000年前である。けれども、お釈迦様が悟ったダルマ(真理)としての南無阿弥陀仏は永遠の過去から存在している。南無阿弥陀仏は人間が作ったものではない。
自然法爾という親鸞の言い方がある。炎が空に昇り、水が下に流れる。そのように、念仏するものが浄土に往生するのは「自然」である。人間が計らう真理ではない。ただそのようになっている。
僕の中の人間中心主義が言う。「でもそれもそういう”思想”でしょ?」
南無阿弥陀仏は人間以前にあったのか、人間の発明品なのか。そこが分かれ目だ。
例として南無阿弥陀仏の宗教をあげると、確かに南無阿弥陀仏の宗教は、歴史的には2000年前ぐらいにお経として誰かに書かれたものである。大乗非仏説云々はややこしくなるのでおいといて、このお経、大無量寿経というお経は、お釈迦様の悟りの内容である。「悟る」と言っても何を悟るのか、と言われれば、ダルマ(真理)を悟るのである。そして、真理は無始の初めから、人間がいなくても、ずっと現前している真理である。人間より先に、真理がある。南無阿弥陀仏の呼び声は、人間より先に完成されている。
歴史的に言えば確かにお経として成文化されたのは2000年前である。けれども、お釈迦様が悟ったダルマ(真理)としての南無阿弥陀仏は永遠の過去から存在している。南無阿弥陀仏は人間が作ったものではない。
又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物(酸きもの)あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。
自然法爾という親鸞の言い方がある。炎が空に昇り、水が下に流れる。そのように、念仏するものが浄土に往生するのは「自然」である。人間が計らう真理ではない。ただそのようになっている。
僕の中の人間中心主義が言う。「でもそれもそういう”思想”でしょ?」
南無阿弥陀仏は人間以前にあったのか、人間の発明品なのか。そこが分かれ目だ。
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